東京都美術館× 東京藝術大学 「とびらプロジェクト」

山﨑日希 さん

内から外から、いくつもの立場でとびらプロジェクトと8年半を歩んだスタッフ

スタッフインタビュー
山﨑日希 さん
山﨑日希 さん

内から外から、いくつもの立場でとびらプロジェクトと8年半を歩んだスタッフ

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「自分の言葉で、ここの価値を伝える」

とびらプロジェクトとの最初の関わりは?

山﨑 一番はじめは2014年、Museum Startあいうえの(以下「あいうえの」)プログラムオフィサーの産休代替として入りました。当時一緒に活動したとびラーは1234期でした。
それまで、東京藝術大学美術学部建築科北川原研究室で助手をやっていたのですが、ちょっと大きなイベントを手伝ってくれたのが、2014年当時まだ学生でとびらプロジェクトのアシスタントだった大谷郁さんでした。同じ頃、学内の何かのイベントでとびらプロジェクトの存在を知ったタイミングでした。当時のプロジェクトマネジャーだった伊藤達矢さん(東京藝術大学)や稲庭彩和子さん(東京都美術館)と知り合ったのもこの頃だったと思います。ちょうど建築科での助手の任期を終えるタイミングで、「手があくなら、ちょっと手伝ってくれない?」みたいな感じで声をかけられたんです。
同じ藝大でも、建築科では直接とびらプロジェクトに関わっているわけではないので、偶然ですね。あの出会いがなかったら、今ここにはいなかったかも。
その時は10か月ほどでとびらプロジェクトを離れたのですが、その翌年に、今度はとびらプロジェクトの本が出ることになって、当時のプロジェクトマネジャーから声をかけてもらいました。ちょうど私自身の出産や育児などのライフスタイルが変わるタイミングで、いい機会だなと、誘いを受けました。

山﨑 はい。企画段階からかかわって、編集方針とか章だての検討とか、開扉とびラーや現役とびラーへのインタビューの連絡役など、おもに調整や進行管理の仕事をしました。
書籍の出版直前の年度が変わるタイミングで、またとびらプロジェクトに戻ってきました。20182019年度は「あいうえの」、20202021年度にとびらプロジェクト、そして2022年度はまた「あいうえの」担当です。

本をつくったことで、何かかわりましたか?

山﨑 客観的というか、ちょっと引いた目線で見るようになりましたね。プロジェクト全体を俯瞰して見た上で、部分を見ていくという感じ。
それと、人の言葉ではなく自分の言葉で、どのようにここの価値を伝えていくかについて考えるようになりました。子どもたち、保護者の方、そして一緒に場を作っていくとびラーと、目指しているものや見たい景色を共有していくためには、私がどんな言葉を発すればいいのか。
マネージャーである伊藤さんや稲庭さんがとびらプロジェクトについて語っている言葉を、自分の中に落とし込む作業にも時間をかけました。プログラムを実施しながら「そうか、あの言葉はこういうことか」と確認することもありました。
それと、もうひとつ大切にしているのが、都美を会場に201811月に開催された日本博物館協会主催の全国博物館大会の分科会「ミュージアム・コミュニケーション―『多様な関わりを創る』市民との協働」での、藤田千織さん(当時、東京国立博物館)の「文化財は、ミュージアムだけのものではなくって、みんなのものだ」という言葉が印象に残っていて、活動を考える上でとても大切にしていました。

みんなのもの?

山﨑 自館の収蔵品って、つい「うちの館が持っている」のような考えになってしまうこともあるそうです。もちろん、保存や展示などミュージアムが大切な役割を果たしていますよね。
その上で、それらの文化財は社会全体で関わって大事にしていくもので、そうやって守ってきたからこそ、今みんなで見ることができると。
「あいうえの」の鑑賞プログラムなどの中でも「文化財はみんなのもの、みんなで大切にするもの」と、そのものに対して自分ごとになるような声掛けを意識して伝えてきました。
一方で、プログラムで文化財の鑑賞をする時などは、たとえば「お気に入りを見つけよう」のように、個人が主観で文化財とかかわる行動でもあります。その意味では、文化財はみんなのものであり、私のものでもある。文化財への主体的な関わりを通して、社会に参加することにもつながります。
ミュージアムデビューする子どもたちが、このような「文化財と向き合う姿勢」を、押し付けられるのではなく自然と作っていけるようにしたいと思って「あいうえの」の仕事をしていました。これは、ミュージアムのワークショップだからできることですから。

山﨑日希さん画像1
Photo by Yusuke Nakajima

<つづく>

「コロナ1年目は「建築まつり」」

とびらプロジェクトの担当になったのは、2020年春でした。

山﨑 はい、新型コロナとともにやってきたという感じです。
この時、とびらプロジェクトにはもう一つ大きな変化がありました。2012年のプロジェクト立ち上げから、とびらプロジェクトを支えていた大谷郁さんがプロジェクトを離れることになったんです。それを引き継ぐことになったわけですから、まず第一に、私に求められているのは、今まで続いてきたプロジェクトを、しっかり地に足をつけて回していくことだなと理解していました。
ところが、新型コロナでプロジェクトの進め方もほとんどのことが参照できない状況でした。せっかく大谷さんから引き継いだ資料があったのに。

人と会って話すこと・聞くことは、とびらプロジェクトが
大切にしてきたもの。それが……

山﨑 着任して、一番はじめにやったのがZoomの契約でした。Slackの契約、Google関係のアプリの整備……。とりあえずオンラインでも円滑にコミュニケーションをする手段を何とか確保しなきゃと。
でも拠点となる都美は休館。スタッフも来られない。とびらプロジェクト自体を1年間お休みしようかっていう話も出ていたくらいです。
スタッフみんなで、オンラインでいろいろ相談をしました。2時間とか3時間とか、ずっと自宅のパソコンの前で。「コミュニケーションを止めちゃ駄目だよね、こういうときだからこそ」と言い合いました。

オンラインへの移行はうまくいったんですか。

山﨑 最初のうちは大変でした。
とびラーは、普段から電子メールやブログ、掲示板を使っています。でもオンライン会議となると別で、「とびラーになるのに、パソコンとかオンライン会議の環境が必要だなんて聞いてないよ」という声もありました。自宅に十分なインターネット環境がない人もいました。
操作マニュアルの整備からはじまり、約130名のとびラーひとりひとりの環境やITへの習熟度に合わせてサポートをしました。とびらプロジェクトの担当スタッフは、芸大所属が私を含めて2名、都美が1名だったので、朝から晩までこの3名で、あーでもない、こーでもないと対応していました。そんな中、すぐに基礎講座が始まりました。もちろんオンラインです。
対面で100伝えられるとしたら、オンラインでは50も伝わらないんじゃないかという不安がありました。物理的に一緒の空間にいないから、相手の表情も全部見えるわけじゃないですし。
だから、それを少しでも解消するために、できるだけ双方向的なコミュニケーションの時間をつくろうと考えました。オンライン会議ツールで技術的にどんなことができるのか、何が必要なのか、参加者にはどんなことを心掛けてもらうのか、ミーティング中にどんなリアクションをすればよいのか、必ず11回喋れるようにするにはどうしたらいいか……。リアルで会う機会も、ASRという場もなくなってしまったわけですから、とびラーのひとりひとりが孤立しないように気をつけました。
今まで8年間、基礎講座の内容はずっと変わらずにやってきたことを、ほぼゼロから見直すことになりました。当時は本当に大変でしたが、今考えるとそれぞれの講座の意味を再確認する貴重な機会だったようにも思います。
すでにリアルで関係ができているとびラーたちは、オンラインでできるとびラボを立ち上げたり、掲示板やSNSを活用してコミュニケーションをとっていました。でも、とびラーになったばかりの9期の人たちや、世代的にオンラインの環境に不安を持っている方などもいらっしゃいます。「オンラインで全員集合って言われても、どうやったらいいのかわかんないよ」と言う人も。どうしても自宅でできない場合は、都美に来ていただき、用意したパソコンから入ってもらったりしました。

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リアルで顔を合わせたのは、夏ごろ?

山﨑 はい。ようやく美術館が開きました。でも、展覧会の予定が変更になったり取りやめになったりで、展示室に作品がない日々が続いていました。
そんな中で、注目をしたのが”建築”でした。展覧会は開催されていないけれど、美術館そのもの=建築はあるわけで、コロナ禍でも楽しむことができるんじゃないか、とウィズコロナの新しい建築ツアーを、とびラーの皆さんと相談しながら開発していきました。休館明けに、はじめてリアルでとびらプロジェクトの活動を再開したのが、「とびラーによる建築ツアー」でした。
それまで当日参加制にしていたのを事前予約制に変更し、1チームあたりの人数も来館者3人にとびラー2人と今までよりかなり少ない人数にしました。小型の無線機をつけて、ソーシャルディスタンスをとって。展覧会が開催されていないから館内がすいていて、貸し切り状態でした。
夜間開館もなく、ヤカン・カイカン・ツアーができない。ならば、朝はどうか?ということになって、「トビカン・モーニング・ツアー」が誕生。そのほか、リレー方式で見どころをツアーしていく「Fun! Fan! とび巡り」とか、写真を撮るとびラボとか。
2020年は「建築まつり」のようでした。とびらプロジェクトの中で、建築愛が高まりました。

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学生時代建築を学んだ知識とか経験が活きました?

山﨑 むしろ、自分のほうがすごく勉強になったっていう感じです。
実は、学生時代から設計をやりながらずっとフラストレーションみたいなものがあって。嫌いじゃないんですが、もどかしいという感じでしょうか。
学部生のとき、実際の敷地を想定して調査して商業施設を提案するという再開発プロジェクトの課題がありました。実際に行ってみると、そこにはすごく昔からやっている八百屋さんがあって、そこの人とお話ししているうちに、「なんでこの八百屋さんを壊して新しい商業ビルを建てる提案をしなきゃいけないんだ?」と思ってしまって。結局私、その八百屋さんを壊さないで、軒を拡張してベンチを置いて、コミュニティ広場を作るという提案をしたんです。そこにいる人のことを考慮しないプランを描けなかったんです。担当の教授は、新しい建物を期待していたのですが、この提案は無視できないですよね、と苦笑していたのを覚えています。
19759月に開館した、現在の東京都美術館の建物は、日本のモダニズム建築の巨匠・前川國男によるものです。前川建築の特徴は、広場やロビー、レストランなどを重視した空間づくり。都美のWebサイトには「その場を訪れる人がどれだけ都市的な楽しみを味わえるかに力を注ぎ、建築を通して都市の空間を生み出していった」とあります。
つまり都美は、そこにいる人や来る人、建物を使う人たちのことを考えてつくられている。だからこそ、とびラーたちもこの前川建築を愛しているんですね。建築ツアーを一緒につくりながら、それがよくわかりました。
「建築ってこれだよな」と思いました。学生時代よりも今のほうが、建築が好きになったかもしれない。何より、楽しいです。

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<つづく>

「思い浮かぶのは、とびラーひとりひとりの顔」

毎年の「とびらプロジェクトフォーラム」も、
20211月はオンラインになりました。

山﨑 リアル開催を模索していたんですが、3週間くらい前に、感染拡大の影響で完全オンライン開催ということになって。
とびらプロジェクトフォーラムは、トークセッションとディスカッションの第1部と、各とびラボが自分たちの活動を展示して紹介する「とびラボ オープンセッション」の第2部に分かれています。第1部はともかく、第2部をオンラインでどうやるんだという大問題があって。とびラーと相談しながら進めていきました。
当日のことは大変すぎてちょっと記憶が曖昧なんですけど(笑)、人手が足りなくて、私が何かの機材の前でキュー出して映像配信したり、ディレクターみたいなことになっていました。
すごく大変だったけど、楽しかった。達成感は大きかったです。
とびラーと一緒にビジョンを共有して、みんなで問題を解決して、走り切ったという感じです。何より、参加してくれた方たちが楽しそうでした。アンケートの回収率もよく、とても満足してくださっていた。余談ですが、その年のとびラーの応募者数も増えました。

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コロナ禍のなかでも、とびらプロジェクトは
コミュニケーションを止めなかったんですね。

山﨑 そうですね。私自身は、コロナに振りまわされて試行錯誤した時間は、決してネガティブなことばかりではないと思っています。リアルに戻ってきている今、「オンラインなんか、1年間もったいなかったよね、残念だったね」みたいな空気は、ちょっと悲しいなと。オンラインという便利なツールを手に入れることができたのは、やはりメリットだと思うんです。
それと、リアルの良さに気づけたのって、やっぱりオンラインがあったからですよね。人と会うことの大切さが社会で改めて認識されたのと同じように、とびラーが美術館に集まって活動できるのもスペシャルなこと。当たり前のことじゃない。それを支えてくれている人がいて、何より社会状況が整わないと実現しないわけですから。

産休代替から書籍担当、そして「あいうえの」と
「とびらプロジェクト」のプログラムオフィサー。
長い間プロジェクトにかかわってきて、
ご自身に何か変化はありましたか。

山﨑 優しくなりました、というか、寛容になったと言うべきかな。
とびラーはみんな個性的だし、一緒に働いているスタッフも考え方がそれぞれ違う。そんな中で、一つの方向を向いて一緒にプロジェクトをやっていくために、人に対して寛容になり、考え方も柔軟にもなったと思います。
プライベートでは、「あ、今、とびラーしてるな」と思う時があります。

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「とびラーしてる」?

山﨑 とびラーは「きくこと」をとても大切にしていますし、VTSなどをおこなう鑑賞プログラムでも、鑑賞者に寄り添って対話することによって、ことばを引き出していきます。「あいうえの」では、それを子どもたちと一緒にやっていますよね。
最初にとびらプロジェクトにかかわった翌年に出産した息子が、今年小学校1年生になりました。毎日の生活のなかで、たとえば息子が興味をもって何かを見つめているときに、寄り添って対話していることがあるんです。自然にそういう接し方をしている。
そんなとき、「これって、『ひとりとびラー』『ひとりあいうえの』だな」って、ちょっとおかしくなります。

さて、あなたにとって、とびらプロジェクトとは?

山﨑 難しいなあ。とびらプロジェクトについて語られている言葉は、すでにたくさんあるんですが……。
個人的な話をすると、今、私の頭の中に思い浮かぶのは、とびラーひとりひとりの顔なんですよね。大きなプロジェクトを一緒にやっているということはちょっと横に置いて……何よりとびラーに会えて面白かったし、大好きだった。ワークショップで子どもに声をかけているAさんの優しい笑顔とか、建築ツアーで熱く語っているBさんの顔とか、展示室で静かに鑑賞しているCさんの横顔とか、そういうみなさんの姿が具体的に浮かんでくるんです。ここで関わった、魅力ある、普通の生活では出会えないような人たち。そういう人たちとの関わりは「ちょっとクセになるな」と(笑)。

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山﨑 とびラーが、ASRに来たついでにスタッフルームを覗いてくれるんです。私、入り口に近い位置に座っているので目が合う。「今日は何の打ち合わせですか」「あれどうなってますか」とか、あるいは「子ども大きくなった?」とか、そういう何気ない会話から癒されることも多かったです。
だから、とびらプロジェクトは一言では言い表せなくて、「あんな人もいてこんな人もいてこんな人もいる」になるんですね。
そういえば最初の頃、とびらプロジェクトのマネージャーだった伊藤さんと稲庭さんが語っていたビジョンが、何というか、痛快でした。

「痛快」。
何がそんなに気持ちよく、小気味よく感じたんでしょう?

山﨑 一番覚えているのは、「アート・コミュニケータを一般名詞にする」。つまり、とびらプロジェクトから生まれたアート・コミュニケータという在り方を、辞書に載るような一般的な言葉として定着させたいというビジョンが語られたんです。確か、7年前だったかと思います。
とびらプロジェクトが始まって23年目で、ソーシャルデザインという言葉も、まだ全然一般化されていなかった時代ですよ。「これは、なんかすごいこと言ってるぞ」と思いました。このプロジェクトは、1020年先のことを考えて進んでいる。自分では見えないような未来に、私は今かかわっているんだと。
で、当時はすごいこと言ってるな!と思っていたんですが、今や、全国にアート・コミュニケータを冠した事業が立ち上がっていて、その時語られた未来に着実に近づいています。
私自身は絵を描けなくても、その「痛快で大きなビジョン」を一緒に目指していけるということ、そして、それに共感している100人以上ものとびラーがいるっていうこと。それって、すごいことでしょう? 「何だろう、このエネルギーは」って思いますよね。
そういう人たちと一緒にやってきた経験は、きっとこれから、私がかかわる「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」という大型プロジェクトの運営補佐の仕事にも活きてくるんじゃないかと思います。

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インタビュー日時:2023317
聞き手・文:只木良枝
撮影:中島佑輔、とびらプロジェクト

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