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自分ができることを考え続けた、現場主義の12期とびラー


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自分ができることを考え続けた、現場主義の12期とびラー
「「半歩」だったから踏み出せた」
笹村 はい。身体を動かすことが好きで、見るのもやるのもスポーツ一本の体育会系です。中学高校時代は器械体操をやっていました。今は、市の高齢者向け健康教室で「介護予防運動指導員」を仕事にしています。
美術館といえば、ゴッホとかルノワールの絵が来日して連日長蛇の列、絵の前では「立ち止まらないでくださーい」、みたいなイメージ。アート作品ってそうやって何時間も並んで観るもので、私はそこまで興味もないし、あんまり美術館に行きたいとも思いませんでした。

笹村 新型コロナがきっかけかもしれません。
どこにも出かけられなくなって、イベントも中止。ちょっと落ち着いた頃に、美術館に予約制で入れるようになりました。「じゃあ、並ばなくていいのかな。なら、行こうかな」くらいの気持ちで、都美(東京都美術館の略称)のサイトからチケットを申し込みました。
その時の展覧会は「フィン・ユールとデンマークの椅子」展。正直なところ、絵画も彫刻もぴんとこない、でも家具は日常に近い存在だな、と思って。
笹村 結婚退職して以来、ずっと専業主婦をしてきたんです。家にいるから、日常の暮らしが最大の関心ごとでした。家の中を心地よくするのが好きで、カーテンを季節で取り換えたりしていました。だから家具には興味があったんです。
インターネットでチケットを申し込んだら、下のほうに「美術館からのお知らせを送っていいですか」みたいなチェック欄があって。それにチェック入れたら、次に都美から建築ツアーの案内が来ました。
家が好きですから、建築も好きです。街を歩いていて素敵なお家があると「どんな暮らしをしていらっしゃるのかな」なんて想像していたりして。で、興味をひかれて建築ツアーに参加してみました。
その時のガイドさん、最初は学芸員か藝大の学生さんなのかなと思っていたんですけど、実は「とびラー」という人たちだと知りました。「へえ、そうなんだ」と思っていたところに、今度はとびらプロジェクトのフォーラムのお知らせメールが来たんです。
私、何でもスケジュールが空いていたら行っちゃうんですよ。この時も「時間あるから」って軽い気持ちで参加して、そんなにたくさん人が来るとも思っていなくて。ひとりだったらどうしようなんて思っていたのに、行ってみたら会場がすごい熱気で驚きました。

笹村 うーん、「さあ、一歩踏み出しましょう!」とか言われたら、たぶんやらなかったんじゃないかな(笑)。
フォーラムのとき、とびらプロジェクトマネージャーの小牟田さんが「半歩でいいから、踏み出しましょう」とおっしゃったんですよ。それを聞いた私、「一歩はちょっと無理だけど、半歩なら」って思ったんです。
とびらプロジェクトを語る言葉の中で私が興味をひかれたのは、アートではなくて「居場所」でした。
もう15年くらい、介護予防運動の指導をしているんですが、そこで高齢者のコミュニケーションとかコミュニティの充実に対するニーズの高さみたいなものを、ひしひしと感じていたんですね。
身体活動の場合は、手をつないだり、肩を組んだりとか、わかりやすいコミュニケーションがあります。でも、「有名な絵を飾っているところ、いつも混んでいるところ」くらいのイメージしか持っていなかった美術館が、どうしてコミュニケーションとか第三の場所のあり方について考えているんだろうと。
そんなことを応募書類にダーッと書いて送り、「まあ、ご縁があったら」と思っていました。
後からとびラー応募の倍率が高かったんだと聞いて驚きました。娘たちにも「お母さんって、アート興味あった?」「そういう人だったっけ? できるの?」とか言われました。
「まあ、よくわかんないんだけど、応募したら来ていいって言われたから、行ってみるよ」と言いながら、活動が始まりました。

<つづく>
「むき出しの自分として」
笹村 やはり普段から美術館によく行っているという人が多くて、「私、なんでここにいるの?」みたいな、トンチンカンな感じでスタートしました(笑)。
でも、なんだか不思議なところでした。ここでは何を話しても大丈夫、みたいな雰囲気があって、落ち着く。ここが私の居場所になるのかもしれない、と思いました。

笹村 もちろん、今まで自分の居場所がなかったわけではないんです。家庭もあるし、別に社会からはじき出されていると感じていたわけでもありません。でもずっと、どこにいても、何となく「居場所のなさ」というか「ここはなんか違う」みたいなことを感じていたような気がするんです。
それは、私の生まれた時代の空気のせいなのかもしれません。ナントカさんちのようこちゃん、ナントカ高校、ナントカ大学に通っているようこちゃん、ナントカ会社にお勤めのようこさん、結婚したら今度はナントカさんの奥さん、子どもが生まれたらナントカちゃんのお母さん…。ずーっと何らかの役割があって、その中で生きてきた。
もちろん、そういう人生をやってきたことは、それで良かったと思っています。何かが破綻したとか、すごくしんどい思いをしたというわけではないんですから。でも、「『私』として生きていなかったんじゃないか」みたいなことを、ぼんやり考えるようになってきて。
笹村 50代からでしょうか。この年頃って、親の衰えがあったり、子どもが自立していったり、心身ともにいろんな変化がありますよね。今まで背負っていた「妻」とか「母親」とか「娘」とかの役割がひとつずつ外れていって、自分がむき出しになっていくような気がして。介護に直面したことで母娘関係についてもいろいろ考えることが多くなって、息苦しさを感じていたんです。でも、それは他者と共有するものではなく、自分ひとりで解決・納得するべきものだと思いこんでいました。
そのときに、あるピアサポートと出会いました。同じような経験をした人たちが、お互いに批判も評価もせず、背景も詮索したりせず、ただそのままの自分としていられる場所。
友人にモヤモヤを話すと「そんなの大丈夫よ」とか、「私なんかもっとひどいのよ」とか、励ましてくれるんだけど、その分気持ちに寄り添ってもらっていないと感じることもあって。そうなると「私はそこまで大変じゃないし」「しんどいと思う私がいけないんだ」って黙ってしまい、オリのようなものがたまっていってしまう。でも、そのピアサポートでは、そういう思いを吐き出すことができたんです。
それまでは「安全な場所」って、家族とかお互いをよく知っている親友とかに限られると思っていたのに、全然そうじゃなかった。まったくの第三者だからこそ、そういう場を持つことができて、目からウロコだったんです。夫の会社が立派だと妻が評価されるとか、子どもの成績がよかったら母が評価されるとか、そんなこととは無縁。役割のない自分、ひとりの「ようこさん」として接してもらえる。
ちょうどその頃に声をかけてもらって、指導員の資格をとって教室運営をはじめました。
笹村 はい。今から思えば、とびらプロジェクトに、このピアサポートと同じような匂いを感じたのかもしれません。

笹村 3年間病気もしなかったし、親の介護も終わり、子どもも独立したタイミングだったから自由に動けたんですね。何の役割も背負っていないむき出しになった自分で、「講座、受けますよ」「とびラボ、やりますよ」って、ともかく何でも繋がってみようと思って。掲示板を見て、どんどん活動の予定を入れて行きました。
もともと美術にも詳しくないから作家へのこだわりもなく、ゴッホも公募展も、私にとっては同じ「アート」。楽しいことだけではなかったけれど、モヤモヤできる充実感がありました。好きな野球にたとえると、とにかく打席に立つ。来たボールは何でも、ヒットになろうがファールになろうが、打席に立った以上は打ち返そう、と思って。そういうわけで、いつの間にか「年中活動している人」になっていました。

Museum Start あいうえのスペシャル・マンデー筑波大学附属大塚特別支援学校 高等部、「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」(2025年)、撮影:中島佑輔
展示作品:フィンセント・ファン・ゴッホ《農家》1891年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)
笹村 はい。基礎講座を終えた1年目の秋、スペシャル・マンデーで、ある学校の子どもたちを迎えました。聞こえない(ろう)・聞こえにくい(難聴)子どもたちが、手話と日本語で学ぶ学校です。ペアを組んだとびラーは、ろう者の木下さんでした。
私は聞こえない人の感覚や生活のことは何もわかっていないので、木下さんに当日の動きで気になるところなど、細かいことまでなんでも質問しました。木下さんも誠実に返事をくださって、気が付くと、掲示板のやりとりのログが膨大になっていました。
笹村 子どもたちを迎えるときに、名札を首からかけてあげたいって思ったんですね。でも、そうやって身体に触っても大丈夫かな、子どもたちをビックリさせてしまわないかなと不安になってしまって。長い間母親をやっていたから、聞こえに関係なく「子どもがどう思うか」っていう考え方がしみついているんでしょうね。
それを掲示板で相談したら、木下さんが「だったら、名札をかける前に、私から手話でみんなに伝えましょう」という段取りを提案してくださったんです。そういうことを、ひとつひとつ確認していきました。
笹村 基礎講座のときのグループワークで、聞こえない女性と組んで筆談やコミュニケーション支援アプリを使った会話をしたことがあって、それがはじめての経験でした。私はどうしたらいいのかと思っていたんですが、彼女は本当にフランクな普通の女性で、身体全体を使って気持ちや話したい内容を伝えようとしてくれて。
聴者同士で話していると、何となく伝わったような気がして、結局曖昧になってしまうことがありますよね。でも、このときの彼女との対話では、お互いがひとつひとつのことを正確に伝えようとしていたんです。伝えあうということの熱を感じましたし、確実に伝わっているとも感じました。
私、手話は全然わからないんです。でも、普段から身体を動かすことをしているので、身体でそれを感じるという経験ができたのかもしれません。

笹村 子どもたちも、鑑賞ファシリテーターをする木下さんも手話で会話します。そこに、手話がわからない私だけのために、手話通訳が入っていました。だからその場では、私は圧倒的なマイノリティでした。言葉のわからない海外に一人で放り出されたらこういう感じなんだろうか、という感じ。
私は障害もないし、今までの人生でマジョリティ側にいた人間だと思っています。そもそも「マイノリティ」のことを意識したことがあったのだろうか。そんな私が今ここにいる意味は何なんだろうと。そこでは、誰も私をマイノリティ扱いしなかったんです。その空気のなかで、私はマイノリティである自分が「ここにいていいんだ」と感じていました。
今思い出しても胸がいっぱいになります。来館した子どもたちに、とびラーとして何かをしてあげたというよりも、私の方が贅沢な体験をさせてもらったんです。木下さんに知らなかった世界を緻密に教えてもらって臨んだ場で、マイノリティである自分が、一人の人間として丁寧に扱ってもらったという特別な時間。
あの時、基礎講座を終えたばかりの1年目の私を、あのチームに入れてくれたスタッフに、本当に感謝しています。それが意図的だったのかどうかはわかりませんけど。(笑)
これが大きな節目になったかもしれませんね。とびらプロジェクトは「誰もがいていい場所」なんだ。だったらもっと主体的にかかわろう、自分ができることを自分なりにやっていこうと思って、他のプログラムやとびラボにもどんどん参加することになりました。
<つづく>
「みんなに知ってほしい居場所」
笹村 「エスプラナードで会いましょう」ですね。都美のエスプラナード(都美建築の中央にある、正門から地下入口へと続く屋外広場)を散歩したりベンチに座ったりして、来館者と交流したイベントです。
「エスプラナード」という言葉の響きと、「会いましょう」のふんわりした感じに惹かれて、他のとびラーが「この指とまれ」をしたとびラボに参加しました。「エスプラナードでやりたいこと」をそれぞれが出しあうミーティングは楽しかったのですが、実は私自身は「やりたいこと」がはっきりしていなくて。最初のうちは、皆さんのお手伝いができればいいかなと思っていたんです。
でもある日、アイデアだしのために現場のエスプラナードに立ってみたとき、「自分がなんとかするにはどうしたらいいか。今の自分ができることは何か。」というふうに、気持ちが変わったんです。
笹村 ラボのみんなとエスプラナードで話しているうちに、「帽子をかぶろう」というアイデアが出たんです。私、モノをつくるのが得意なので、持っていた紙で即席の帽子をつくって、言い出した人にかぶせちゃったんです。「自分でできることで、何とかしよう」と考えたんでしょうね。そして、それをおもしろがってくれるラボのみんな、とびラーがいました。その瞬間から、お手伝いではなく、「主体的でフラットな関係」になれたのだと思います。
今まで妻として、母として、誰か強力に物事を進める人がいたら、その人がやりやすいように場をつくるのが私の役割、そう考えて生きてきた。だからつい、いつものように受け身になっていたんですが、それはフラットな関係ではないですよね。だから、ここに来ているのに今までと同じことをしていちゃダメでしょう、って思ったんです。
帽子のアイデアはその後もふくらんでいって、みんなが試作品を次々に持ってくるようになりました。イベント当日は、来館者にまでかぶってもらって、好評でした。やりたいことを自由にやれる場は、こうやって自分たちでつくっていくんだと感じました。
笹村 とびラーの3年目に、友人に誘われて家の近くの市民ギャラリーに行きました。帰ってから「地元にもこんなところがあるんだ、知らなかったな」と思いながらホームページを見ていたら、「小学校鑑賞ファシリテーター募集」と書いてあって。市内の全小学校で、5年生全員を対象に対話型鑑賞をする事業なんだと。で、すぐに応募しました。
採用後に3ヶ月間研修があって、公立小学校に派遣されました。授業に入って、アートカードを使って鑑賞をするんですが、その1時間とかの短い時間でも、子どもたちにちょっと変化があるような感じがあって、とても楽しかったんです。
同時に、「これ、子どもだけではもったいない」と思ったんですね。あいうえのでも、保護者に対して、ミュージアムの楽しみ方を伝えていますよね。だからここでも、なんとか親にアクセスしたいなと。
だって、せっかく学校で対話型鑑賞をやって興味を持った子が「ミュージアム行きたい」って言っても、親のほうは「そんなことより早く塾行きなさい」とか言っちゃいますよね。だから、親のほうにも鑑賞の豊かな時間を体験してもらいたいと思って。
私、大規模なマンションに住んでいるんですが、そこの自治会に「実はこういう活動をやっているので、保護者向けのイベントをやってみたい」と申し入れて、呼びかけてみました。すると、あるお母さんから、メールが来たんです。
「小5の娘から、授業でやった鑑賞の話を聞いています。私もやってみたい」と。
笹村 近々、トライアルをやることになっています。小学生の保護者だけじゃなくて、いずれは高齢者なども含め、地域の大人全体を対象にできればいいなと思っています。

笹村 はい、とびラーの経験を介して、思いがけずつながりました。不思議なもので、呼び寄せられたような気がします。
これからも、体操のほうも続けていきます。長くやっているので、もう体操だけでない人間関係ができていて、「こうなりたい」と思わせてくれる素敵な人生の先輩もいます。ちょっとした心身の不調を訴えてくる人に「どういうふうに?」と耳を傾けながら、「これ、基礎講座でやった『きく力』だな」なんて思うこともありますね。
ミュージアムという場所に全くかかわってこなかった私は、とびラーの活動を通じて、ここが誰も置いていかない場所であることを知りました。役割を背負って重い人、苦しいことを苦しいと言えない人も、ただ何となく『行ってみたい』と思った人、もちろん美術展を見るという目的のために来た人も、それぞれの人がその人のままで居られる場所。
美術館だけじゃなくて、博物館、図書館などの文化施設って、みんなそうだと思うんです。そこには、いろんな仕掛けがあります。都美のエスプラナードなんか、座っているだけで心地いいでしょう。
だからみんな、まず、知ってほしい、来てほしいと思います。ミュージアムという誰にでも開かれた居場所があることを知らなくて、まだここに来ていない人たちに、その思いをどうやって届けたらいいんだろうかと、ずっとそれを考えています。


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