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「地域に開かれた陵墓、愛されるあるいは陵墓研究を目指して」藝大生インタビュー2024 | 建築専攻 修士2年・力安一樹さん

 

力安さんの修了作品は、修士制作のような模型等ではなく、修士論文だと伺いました。

修士論文で扱っているテーマについて教えてください。また、並行して進めているプロジェクトがあるそうですね

 

修士論文では「陵墓図空間考」と題して、陵墓(りょうぼ)を題材とした絵図や図面全般を、空間的な観点から解釈する研究を進めています。

また、並行して、建築科から令和5年度吉田五十八奨学金の給付を受け、全国の天皇陵(112陵)を踏査し記録するプロジェクト「リョウボノカタチ」も進めています。

 

まずはじめに陵墓とは何ですか?出会った経緯を教えてください

 

陵墓の定義についてですが、現行の皇室典範第27条にて、天皇・皇后・太皇太后及び皇太后が葬られているところ【陵(みささぎ)】、皇太子等の皇族が葬られているところ【墓(はか)】とされ、それらを合わせて陵墓と呼ばれています。その中でも、歴代天皇が葬られているところは天皇陵と呼ばれ、有名なものだと前方後円形や円形、他には方形堂や石塔など堂塔式のものもあります

 

陵墓との出会いは、小学生のころに遡ります。私は大阪府堺市出身で、世界一広大な墳墓と言われる仁徳天皇陵(大山古墳)が位置する地域に住んでいました。幼少期から身近な存在で「どうしてここに鳥居があるんだろう?」と思いつつ、歴史的で風情のあるものというよりは、友人と「たぬきを見に行こう!」と、遊びに行く場所の一つでした。小学校に入ってからそれがお墓であること知るわけですが、特別神聖なものといったイメージをもつことなく、子ども時代を過ごしていました。もちろん当時は、天皇陵を研究することになるとは考えていませんでした。

 

 

1.卒業制作のこと

 

幼いころから芸術分野に関心があったのですか?陵墓が研究対象になった時期はいつでしょうか

子どものころは芸術への興味は特になく、高校も運動部に所属していました。父が土木の建築士、祖父が大工だったので、大学進学を考えたとき、自然な流れで建築学科を志し、関西の大学に進学しました。陵墓と改めて向き合ったのは、学部4年の卒業設計です。卒業設計では、仁徳天皇陵(大山古墳)を中心とした百舌古墳群に位置する大仙公園を敷地に設定し、一帯を含めた計画を行いました。卒業設計をどうしようか考えたとき、小学生のころから慣れ親しんできた身近な風景であり遊び場だった天皇陵の原体験を思い出したからです。

 

仁徳天皇陵(大山古墳)は航空写真で見る時の印象とは異なり、地上からは一見森のように見えます。その森をある種の風景・景観として設計することを目的に、休憩所や通路など、いろいろな機能をもつ建物を組み入れ、そこを訪れるに身近に感じてもらえるようなランドスケープを提案しました。

 

天皇陵と改めて出会い直したのですね。そのまま、関西の大学院に進学するという選択肢もあったと思うのですが、東京藝術大学の建築を目指した理由と学生生活について聞かせてください

 

学部の設計課題では、模型や図面でのスタディよりも、言葉や思想に考えを巡らせることが多かったんです。そのような意識を相対化したり、より視野を広げてみたいという気持ちがありました。何をやっても真剣に議論をしてくれる先生方が集まっている、という先輩からの助言もあり、東京藝術大学の大学院受験を決断しました。実は、もう退官された青木淳先生の研究室の門を叩いたのですが入ることができませんでした。一浪して再チャレンジしようと決心した頃、ちょうど長谷川香先生が新任として第1期生の学生を募集されていました。

先生は儀礼や政治、特に近代天皇制と都市・建築との関係性について研究されていて、著書や論文を読み進めていく中で、言葉や思想に興味のある私を受け入れてくださるような印象を持ち、研究室訪問をしました。その予想は当たり、学部の卒業設計や皇居の話が盛り上がって、1時間ほど話し込んでしまいました。その際、長谷川先生から「設計いいですが是非文章や論文を書いてみませんか」とアドバイスいただき、研究テーマが近いことにも運命的なものを感じたことから、長谷川研究室を第一志望として受験しました。結果、無事合格し今に至ります。

 

建築学科天皇陵といったテーマに興味を持つ私のような学生は稀だったと思います。私のバックグラウンドとして天皇陵が身近な存在であったことが、研究のきっかけとなっていますが、長谷川先生のようニッチな部分でつながりを持てる教授と出会えたのは、本当に幸運でした。

 

【空間的に解釈】するとは、どのようなことですか?

 

まず、天皇や陵墓を研究対象とすることの難しさをお話しします。陵墓は、神武天皇から続くとされる万世一系の思想や皇室の制度と深く関連しています。そのため、陵墓に関する研究の多くは、考古学や歴史学の分野において行われてきました。また、そこに葬られているとされる被葬者が一致しているかどうかについて、戦後の考古学が問うという構図が顕著でした。被葬者の解明には発掘作業が不可欠となりますが、宮内庁は、象徴天皇制における社会的・政治的な存在としての天皇を前提に、「静安と尊厳の保持」や「現在も継続的に行われてる祭祀」という理由から、ほとんど許可をしていません。

近年は、学会等に向けた限定公開や世界遺産登録に関する動きとも関わり合いながら進展していますが、名目は研究ではなく見学であり、また核心的な部分の発掘には未だ至っておらず、その陵墓が本物か否かという議論が続いている現状です。つまり、考古学や歴史学で取り扱われるような、根本的な部分で陵墓を研究しようとすると、管理や関連資料の公開といった側面から見てもかなりの制限を伴います。

 

私は、そういった制度や儀式、陵墓の真偽を巡る議論よりも、先ほども少し触れましたが、子ども時代に「どうしてここに鳥居があるんだろう」と疑問を持ったように陵墓空間や風景として捉えるということに関心が向いたのです。制度や真偽を巡る議論から距離をとれば、大学院という短い研究期間でも、陵墓について研究することが可能ではないかと考えました。

 

修士論文と並行して取り組んでいる「リョウボノカタチ」について教えてください。プロジェクトでは、およそ1年かけて全国の天皇陵を巡り終えたそうですね

 

吉田五十八奨学基金を研究費として、全国112陵の天皇陵を巡って写真や紀行文といった踏査記録を作成し、最終的には本にまとめるというプロジェクトです。歴代天皇陵と、それらを題材にした絵図や図面を空間的に解釈しようと試みる修士研究に対して、主観的かつ一般的な方法で「形式としての陵墓」を記録する、一連の制作プロセスだと位置付けることができます。私の地元にある仁徳天皇陵(大山古墳)を最後に巡るということだけを決め、東は東京から西は山口まで、1年間の休学期間も活用しながら進めていきました。プロジェクトをやろうと思ったのは、空間的な解釈をする為に、絵図や図面といった過去の史料だけではなく、実際の天皇陵やその周辺地域に足を運び、現場や土地の記憶を知る必要性を感じたためです。

 

実際に訪れてみると、史料を眺めているだけでは経験できない出来事がたくさんありました。例えば、京都のとある天皇陵への道しるべが修理されず折れたままになっていたり、境界が厳密でなかったが為に気付かずに立ち入り禁止の場所へと入ってしまっている人を目撃したりしました。山の上にある天皇陵を訪れた帰りに目印を見失い、軽い遭難をしてしまったこともありました。このような体験や空間把握が強烈に記憶に残っていて、史料と現状の差異を見つけやすかったです。

 

写真は、天皇陵の現在性に着目して撮ることを意識しました。これまで、天皇陵は荘厳なイメージから正面写真として被写体になることが多かったのですが、私は天皇陵の親しみやすさというか、綻びのようなものであったり、周辺や人との関係性に関心があったので、そこを捉えられるように、いろいろな側面から写真を撮りました。天皇陵を含めた陵墓はお墓であり、現在も皇室関連祭祀が行われています。神聖で荘厳なものというイメージを持たれやすいですが、私にとっては子どものころから身近にあった風景であり、近寄りがたさは全くなく、無邪気に周辺を駆け回った記憶の風景として心に残っているので、親しみやすさを感じているのだと思います。

 

また、人工物である陵墓が時間の経過とともに自然からの浸食を受け、どこまでが元の天皇陵で、どこまでが周囲の自然か分からないような状況を、ありのまま、等価に扱うことを意識したとき、住宅のすぐ裏手や、工場敷地内のわずかな隙間から見える天皇陵など、天皇陵周辺の風景も画角に入れることにしています。このプロジェクトの写真は、Instagramでアーカイブしていくことも想定していたのでスクエアのフォーマットとし、色よりも構図として風景天皇陵を捉えたかったので、白黒写真で撮影しました。

一般に想定されているルートで参道を歩くことや荘厳さに寄った写真手法にこだわっていないので、新鮮で独創的なものになっていると思います。卒業・修了作品展までに本完成させ、論文と一緒に展示したいと考えています。

 

<校正中の「リョウボノカタチ」プロジェクトの写真集>

資料やプロジェクトから得られた知見は何ですか

 

図面や資料を見ると、測量当時の陵墓の状況が分かるのはもちろんですが、変遷をたどることで当時どのような位置付けで作られたのか、また国民にとってどのような存在だったのかを概観することができました。例えば、近でみると明治天皇陵・大正天皇陵・昭和天皇陵規模は縮小傾向にあり、時代とともに陵墓のカタチも変わっていくことが示唆されます。他にも、皇国史観や尊王思想と密接に関係していた過去も、崇敬会発行の写真帖や著述家の記述から読み取ることができます。また、現在の陵墓は幕末に整備され、私たちが目にすることができる鳥居や玉砂利などもこの時に付加されたものですが、160年ほど前に形式が統一された天皇陵空間が、それ以降、多少なりとも手が加えられているのではないかという仮説を立て、図面と実際に現地で撮影した写真とを見比べてみました。どのように空間の変化が起こったかを考察したところ、国民に開かれ始めた皇室の一つの側面として、天皇陵という空間もまた開かれた場所になってきているという変化を発見することができました。幕末までは皇室のための祭祀空間という側面が強く、一般の参拝あまり想定していない閉じられた空間だった陵墓が、近代を経てその空間構成を変化させていく様子を明らかにすることは、とても面白かったです。

 

 

 

陵墓が今後、どんな存在になったらいいと考えていますか?

 

仁徳天皇陵(大山古墳)はその昔、ワラビやタケノコを採りに行くことができたり、付近の村の灌漑の役割も担っていました。しかし、管理や整備が進められていく過程で、一般にとって近寄りがたい存在になっていったという歴史的な変遷があります。あるシンポジウムで、元宮内庁職員の方が「都市や市民に開かれた、愛される陵墓を目指しましょう」というような話をされていました。聞いた当時は感銘を受けつつも、どこか夢のような話だと思っていたのですが、部分的ではあるものの開かれてきた陵墓変化、研究を通して知ることができた今、夢では終わらない話だと思っています。私の研究の発端である、幼少期に感じた天皇陵の親しみやすさや、プロジェクトを経て再認識した空間としてのかっこよさなどある側面に限定されずに人々に認識してもらえる存在であってほしいと思っています。

 

卒業後の進路は?

卒業後は建築関係の出版社に就職する予定です。過去から地続きの現在進行形で変容している建築を取り上げることに興味があります。当分はそこで経験を積み、いずれは博士課程に進むことも視野に入れています。修士研究において、制度や歴史よりも、その当時の時代精神反映する、空間としての陵墓に興味があったことと同様、歴史研究をしたというベースは忘れずに、今後は現代建築に携わる精神性に触れられるような声を聞きたいと思っています。

 

インタビューを終えて

 

言葉を大切にする力安さんの発する言葉は、私たちに理解してもらおうという優しさと、研究に打ち込むひたむきさに溢れたものでした。過去の資料から当時生きた人々の思いをくみ取ることのできる力安さんが、今後どんな思いを持ち、伝え、残していくのか、想像しただけでわくわくします。私たちのインタビューが、力安さんの修士研究の魅力を伝える一助となれば幸いです。

取材/ 酒井俊一、塙隆善、吉澤友理(アート・コミュニケータ「とびらー」)

写真・校正/ 樋口八葉(美術学部芸術学科2年)

2025.01.19

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