「とびの人々」第6回目は、学芸員の大橋菜都子さん。
「疲れて、食事を作るどころか、食べることすら面倒になることもあります」。
東京都美術館(以下、都美)の学芸員、大橋菜都子さんは今とても忙しい。世界一有名な美術館 のひとつ、フランスのルーヴル美術館の展覧会を 2 か月後に控え、カタログ作りの真最中だ。展覧会開催 が決まってからは、展示作品の検討、現地での調査、カタログ制作、広報宣伝活動、展示方法の検討、作品の到着、展示…と、ひとつクリアするとすぐに次の課題が迫ってくる。
最近では、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」で話題となったマウリッツハイス美術館展やエル・グレコ展 を担当した。名画を扱うというイメージから、華やかな印象があるけれど、その裏では苦労もあるのではない か。何か話を聞き出そうと水を向けるが、なぜか大橋さんの口からは愚痴は一切出てこない。バタバタと走っている姿すら想像できない、落ち着いた印象通り、クールに淡々と仕事をさばける人なのかもしれない。
「基本的に負けず嫌いなんです」と笑う。「正直きついなあと思う仕事でも、頼まれたら、 何とかいい形にしてお返ししようとします」
意外なことに、中学、高校の時は美術部ではな く、テニス部に所属していた。ポジションは前衛。「ノーバウンドで相手の嫌がるところにボールを返 すのが私の役目でした」。
なるほど、断る前に何とか応えられないか考える、『急ぎ』、『無理難題』という名のボールも確実に相手に打ち返す…その底力はテニスコートで育まれたのかもしれない。
そんなテニス少女がアートに出会ったのは、大学受験を控えたころ。東京・京橋にあるブリヂストン美術館で開かれていたルノワールの展覧会だった。
「フワフワとした幸せそうな感じで、こんな世界もあるのかと思いました。しかも、その世界は1枚1枚違うものでした。時代も地域も違うからこそ、当時、自分が悩んでいるような受験などの悩みは小さく感じられました」

大学では当初日本史を専攻するつもりだったが、3年生の時に学芸員過程が出来たのを機に、美術史 に変更、19 世紀後半のフランス近代絵画について学ぶ。卒業論文も修士論文も、テーマはルノワール。 「アートに興味を持ち始めていたタイミングでしたし、今の社会と関わる仕事をしたいと考えました。美術史に関わりながら、発信もできる仕事として学芸員を選びました」 その後、江戸東京博物館の学芸員として社会人のスタートを切った。
「学芸員がこんなに人前で話すこと、書くことが多い仕事だとは思っていませんでした」
江戸東京博物館は、来館者の年齢が比較的高い。その人たちを前に、20 代の自分が作品について語るということに緊張する日々が続いた。その一方で、学芸員だからこそ得られる喜びも感じている。
「作品が到着し、初めて梱包を解く時、その作品が目の前に現れる瞬間は、やはり感慨深いですね。海外の作品を日本で展示するにあたり、事前に現地の美術館で作品を確認するのが基本ですが、世界中から作品を集める場合には、それができないこともあります。リストでしか確認できなかった作品が目の前に現れた時、はるばる日本までよく来てくれたね、と…」
展覧会の企画をたてることは、マスコミやイベント会社で働くという選択をしても出来るかもしれない。しかし、 作品のそばにいられるのは、作品の居場所、美術館で働いているからこそ、なのだ。
作品だけではない。それを見に来る人の反応も、大橋さんに力を与えてくれる。都美では、障害を持つ人のための特別鑑賞会を実施している。関東だけでなく、全国からたくさんの申込が来るそうだ。
「来てもらえるだけで嬉しいのですが、美術館という非日常的な空間でゆったりと作品と味わう皆さんの様 子や、『このために久しぶりに外出しました』という声に接すると、鑑賞することが日常生活のアクセントにな ること、その人が感じた何かを心にとどめ、持ち帰ってくれていることを実感します。展覧会はすべての人の 生活に必要不可欠ではないだろうけれど、今の日本で生きている人に少しは何か残せたかな、と」。
7月のルーヴル美術館展では、これまでのルーヴル展にはなかった取り組みがある。 ルーヴル美術館には、古代エジプト美術、イスラム美術、彫刻、絵画、美術工芸品など8つの美術部門がある。約 37 万点という膨大な数の収蔵品は、その8部門のいずれかに属し、基本的には部門別に展 示される。このため、同時代のものであっても、彫刻と絵画のように部門が違う場合には、同じ部屋に展示されることはほぼない。それを今回は、部門の枠を取り払ってテーマごとに展示するという。8部門が「地 中海」というテーマに沿って選び抜いた作品を一緒に見ることができるそうだ。
「ひとつひとつの作品を見るというよりも、複数の作品をひとつのグループとしてとらえて見ることで初めて意味 を持つ作品構成です。本場フランスでも見ることができないルーヴル、です」。
なぜ人は美術館に行くのだろう。ひとりになりたい、暇つぶし、好きな人とのデート、お目当ての作品…理由はさまざまだ。美術館での数時間がその人の人生に劇的なインパクトを与えるとは言えないかもしれない。でも、自分の心や、毎日の生活にちょっとした変化をもたらすことは出来る。その小さな作用を感じ取ってもらいたい、鑑賞がその人にとって意味のある体験であってほしいと大橋さんは考えている。
「何百年、何千年という時間をかけて人々が大切にしてきたもの、偶然が重なって今まで残っているものを、私たちは展示のために、もともとあった場所から遠い日本まで運んで来ます。輸送・展示には破損などの危険も伴います。もちろん、そのような危険を最大限に取り払って実施していますが、それでも展示するのは、今日に伝わるまでのさまざまな背景をもった「本物」にしかないエネルギーがあると信じているからです。 今はインターネットや本で簡単に作品を見ることができる便利な時代になりましたが、やはり、画面上や紙の上の平面ではない、リアルな作品を見てもらいたい。もちろん、作品によっては自分が感動するどころか、落ち込むことだってあるかもしれません。でも、本物を見て心が動く、何かを感じる、その体験がその人の糧になることを願っています」
2013.07.20