テーマ:「ミュージアムにおける社会包摂的活動」
講師:稲庭彩和子(東京都美術館)
テーマ:「日本の子どもの孤立・貧困の現状と背景」
講師:小澤いぶき(NPO法人PIECES)
2018年度のアクセス実践講座が始まりました。
東京都美術館は、すべての人に開かれた美術館となることを、そのミッションに掲げています。
「すべての人」とは、だれのことでしょうか。
年齢も、使う言葉も、移動の仕方も、知覚の仕方も、表現の仕方も、人生における状況もすべてが異なる、一人一人の多様な人のことを指しているのだと思います。
とびらプロジェクトに関わる以前、筆者は“目が見えない方”が、美術館に訪れることを知りませんでした。理由は「見えない方は、見るための場所(美術館)では楽しめないだろう」という思い込みでした。この考えには、いくつもの過ちがあります。ひとつは視覚障害者を”目が見えない方”とひとくくりにしている点。視覚に障害がある=見えない、ではありません。どのように見えないのか、どのように見えるのかはお一人お一人もちろん異なります。決して「視覚障害者」という人がいるのではないのです。もう一つは、「見る」ことを視覚の機能としてだけ捉えていること。実際に眼球を通して脳に像を結ぶことだけを「見ている」というのではありません。「見る」という行為には、実は目だけではない様々な入り口があるようなのです。さらには、美術館を「見るだけの場所」と定義していることも、思考の間口を狭くしていました。
東京都美術館には、実際に多くの視覚障害者が来館されています。各特別展ごとに開催される「障害のある方のための特別鑑賞会」では、特に多くの視覚に障害がある方が来館され、ご一緒にいらした方や、とびラーと一緒に展覧会をご覧になっています。今では、たとえ視覚に障害があっても、美術館にその方がいらっしゃることになんの不思議もないというのが実感です。「知らないこと」からくる偏見は、このように一人一人の人と人が出会うことで解消していくのではないかと思います。
このように、実際に1人の人に会って、体験を共にしたり、お話をしてみないと、自分が今立っている場所からは想像できないことはたくさんあります。
アクセス実践講座では、「美術館へのアクセシビリティ(アクセスのしやすさ・体験の受け取りやすさ)の向上」という窓から、社会の中で今見えている課題、まだ顕在化していない課題へと目を向け、想像し、その先にいる人と繋がり、美術館という場所で共に作品の前に立つ日を展望していきます。
2018年度アクセス実践講座目標
具体的な社会課題に関わる状況・活動を知ることにより、美術館に行くことが難しい人が、来館し、利用するために、どのような支援が必要なのか、企画する力を身につける。
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第1回目は、東京都美術館の稲庭彩和子学芸員(アート・コミュニケーション担当係長)と、NPO法人PIECESの小澤いぶきさんからお話を伺いました。
《前半》
前半の稲庭さんからは、東京都美術館の掲げるミッション、障害者差別解消法と合理的配慮についてのお話から、なぜ私たちはミュージアムへのアクセシビリティ(近づきやすさ、親しみやすさ)について考えるのかという問いに始まり、美術館で得られる体験が人々のケアと密接な関係があること、また実際に様々な美術館が行ってきた数々の「Engagement/関わり合い」から生まれる「Caring/深く対象に心を向け続けること」の実践について紹介がありました。どのようなお話があったか、少しずつご紹介します。
・障害者差別解消法合理的配慮:障害のある人とない人の平等な機会を提供するために、障害の状態や性別、年齢などを考慮した変更や調整、サービスを提供すること。
→美術館がアクセシビリティの課題を考えること(社会的要請の側面から)
・キュレーションとケアのつながりについて
学芸員の仕事である「キュレーション/curation」の語源は、実は「ケア/care」と繋がっている。
「大事にする」「大切に育む」「深く心を向け続けること」という点で似通っている。
・ケアとは何か
広井良典著「ケアを問い直す<深層の時間>と高齢化社会」の一節を紹介
“「人間とはケアする動物である」と言えるほどに、ケアは深く人間が人間であることに関わっている”
“ケアは普通『自分以外の何ものか』に向けられたものであるのに、その過程を通じて、むしろ自分自身が力を与えられたり、ある充足感、統合感が与えられたりするものである”
“『信じるに値するケア』を見出し、それを育てていくことは、その人の生にとってももっとも深い価値を生み出す拠りどころになっていく”
ケアという体験では、自分とは違う存在に深く心を向け、大切に育む中で、自分自身が深い価値や、生きるための拠りどころとなるような充足感を得るというお話を聞き、筆者の心にはこれまで祖父や祖母を自宅で看取ってきた母の顔が浮かびました。心からケアをしたくなる相手とめぐり合い、ケアという行為を通してその相手と繋がることは、人生の一つの大きな喜びと言えるのかもしれません。
ここから稲庭さんは、他者の世界のと自己の世界をともにケアすることを、美術鑑賞の体験になぞらえていきます。
ー “これまでの美術館の「教育普及活動」では、作品とその情報を分かりやすく来館者に伝えることに重点が置かれていました。そこからもう少し踏み込んで、鑑賞者=自己と、作品=他者との間に関わり合い(Engagement)や対話が生まれる場づくりをする、そこまでを含めると「アート・コミュニケーション」という言葉がフィットしてきます。そこでの鑑賞体験から得られる自己と他者(作品や、共に鑑賞する人たち)の間の「相互主観性」(自己と他者がそれぞれ異なる存在でありながら、自らの一部として他者を感じる感覚)が生まれてくることが、作品を鑑賞する上での「ケア」の感覚ではないでしょうか。”
作品が発するメッセージに共感したり、作品を通して作家の姿を身近に感じるとき、また、共に作品を鑑賞する人との間での「その感覚は私にもある。とてもよくわかる」という思いを手渡しあったりする事。そういった体験を一度でも経験すると、そこから大きな充足感を得、美術鑑賞のファンになってしまう。この感覚は、筆者にとってもとても身近なものです。
このような、作品と自分との共感の波を生む場所として、「ミュージアムの非日常性」はとても有効であるということも稲庭さんは言います。
ー “第三の場所、聖域、神話的時間など、様々に表現される社会的な尺度や差異が溶け合っているような場所(=美術館)は、作品という言葉を発しない「モノ」との「相互主観性」を生み出しやすくする場と言えるのでしょう。ここを訪れる人々が、神話的時間の中で作品を介した他者とのつながりを感じることで、充足を得ていくという効果が美術館という場所の持つ特徴なのだと言うことができます。”
ミュージアムを、一部の限られた人たちだけでなく、すべての人にとって繋がりやすい場所にしていくことの意義がより具体的に見えてきました。
すべての人に向けたアクセシビリティ向上のための取り組みは、とびらプロジェクトでも2012年の始まりから様々な実践が行われてきました。その一部を、海外のミュージアムにおける事例とともに紹介します。
<海外のミュージアムにおける事例>
・House of Memories(回想法)@National Museums Liverpool(イギリス)
・MET Escapes@The Metropolitan Museum of Art 分館(ニューヨーク)
・meet me@MOMA (ニューヨーク)
これらは、認知症の方々を対象にしたプログラムです。プログラムの一番の効果は、作品、そしてファシリテータという中立的な人を媒介に、同じ病を持つ患者やその介護者といった問題を共有できる人々との関わりができたことではないでしょうか。作品を介することで、探究心(生きる力)が生まれ、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の向上に繋がるという事例が多く報告されています。
<とびらプロジェクトの事例>
・障害のある方のための特別鑑賞会:休室日の展示室に、障害のある方々を招待するプログラム。館内各所でとびラーが来館者を出迎え、鑑賞に寄り沿う。
・アクセシビリティ調査:リニューアルオープン後の東京都美術館のアクセシビリティの課題を実際に車椅子で移動するなどして調査したプロジェクト。
・iPad@特別鑑賞会:障害のある方のための特別鑑賞会において、作品画像を入れたタブレット端末をとびラーが持ち、見えづらいところなどを拡大して来館者に見てもらうプロジェクト。
・トーク・トーク:目が見える人と見えない人がともに作品を鑑賞するプログラム。
・knock × knock「美術館に行こう!」:児童養護施設などの子どもたちとミュージアムに出かけるプログラム。アート・コミュニケータが一対一で伴走する。
<Museum Start あいうえの の事例>
・のびのびゆったりワークショップ:障害のある子どもたちを東京都美術館に迎え、とびラーと一対一でワークショップを体験する連続6回のプログラム。
・ミュージアム・トリップ:ミュージアム・トリップは、とびらプロジェクトを卒業したアート・コミュニケータの活動へと継続しています。
ここまでで気がつくように、
ケアという体験は、どちらか一方が「する」人で、どちらか一方が「される」人にはなり得ません。これはとびらプロジェクト全体の活動においても同じ構造となっています。
とびラーはプログラムを「する」人で、来館者はプログラムを体験「してもらう」人だという従来のいわゆる「サービス」のような構造をイメージしていると、とびらプロジェクトで起こっていることは説明がつきません。
プログラムを通して人と人が、美術館という非日常の場所で「出会い」「関わる」こと、その過程の全てが「する/される」を超えて、双方の充足と価値を生み出していくという感覚は、とびらプロジェクトに関わる人々、また、社会の様々な場所で、ケアに携わる方々にはイメージしやすい感覚なのではないかと思います。
この感覚のことを、稲庭さんはWin-winからGift-gift(お互いに贈り合う、ギフトし合うこと)へ、と表現します。どちらも勝つのではなく、どちらからも与え合うことによって自己と他者双方が肯定される場所、美術館がそんな場所として機能していくことも、そう遠い未来ではないのかもしれません。
とびらプロジェクトでは、今後取り組まなくてはならない社会的な課題に対する取り組みを、多様性の尊重とそのネットワーク化の2つであると考えます。1つは人々の価値観や文化背景の違いなどを尊重することであり、2つ目は個々人の生き方を孤立させず、社会の中で関係づけていくことと捉えています。
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《後半》
続いて、講座の後半でお話をいただいたのは、
NPO法人PIECESの小澤いぶきさんです。
NPO法人PIECESは、孤立や貧困の状態に置かれた子どもたちに「コミュニティ・ユースワーカー」と呼ばれる保護者でも、先生でもない第三の大人の存在との関係を作り、子どもを孤立させないための道筋を社会の中に作っている団体です。
児童精神科医として働いていた小澤さんは、病院を受診する子どもたちがいくつもの複雑に絡み合った問題を背負っていることに気がつき、このような状態になるもっと以前にできることがあるのではないかと、NPO法人PIECESを立ち上げたのだそうです。
子どもの貧困という社会課題は、近年メディアでも多く取り沙汰されています。
日本における「貧困」という状態は、「相対的貧困」とされ、いわゆる「貧困のイメージ」だけでは括れないものであると小澤さんは言います。それは、頼る人がいない・頼れる人がいないと言った精神的・物理的孤立と結びついていることが多く、自分の周りを取り囲む「溜め」が極端に少ない状態と定義されます。
日本国内の7人に1人の子供が相対的貧困状態であること、虐待相談件数が増加の一途をたどっていることなどは、ニュースでも目にすることができます。ですが、「なぜ、そのような状態に陥ってしまうのか」については、私たちの想像力が追いつかない部分もあるのではないでしょうか。
今回の小澤さんのお話から、子どもが孤立していく過程と「自分の力ではどうしようもない」やるせなさが、ありありと心に迫ってきました。
子どもが亡くなるような悲しい事件が起こった時、私たちの心にはつい「どうして誰かに相談しなかったのか」という気持ちがよぎってしまうのではないでしょうか。しかしこの「誰かに相談する」という行為は、実はとても主体的な行為であり、これ自体が難しいことなのだということが、小澤さんのお話を聞いているとよく分かります。
誰かに相談するという行動に出るためには、まず、「自分が困っている」ということを自覚する必要があります。あまりにも当たり前に困難が身近にある環境で育つと自分が「困っている」ことに気づくこと自体が難しく、また、誰かに相談するためには、自分の抱えている困難の内容が言語化できなくてはならないというハードルもあります。次に、相談しようと思った時にでも、相談する「誰か」の顔が思い浮かび、その人の所に出向くことということは、より主体性を求められる行動となります。自分を大切にされた経験が少ないと、自分への信頼感、人への信頼感が乏しく、そのように主体的な行為を行うこと自体が困難を伴うのです。
それを<孤立のループ>であると小澤さんは言います。
孤立に陥る原因は、子供の成長の様々な段階で異なる形で現れます。
・乳幼児の孤立の原因
こども(未就学児~6歳):親(養育者)を通して社会とつながっている時期。虐待、精神疾患、若年妊娠(中卒で就労できない、支援を受けられない)など、養育者が孤独に陥っていると社会と断絶されてしまう。
・青年期の孤立の原因
家庭以外学校現場が社会の入り口になる。社会の居場所を自分たちで作っていく時期。自分で新しい場所、選択肢を探す手立てがない。
子どもはその養育者の社会との関係性を自分の意思によらず受け継いでしまいます。
そのため、社会的に孤立した養育者の元では、簡単に子どもも孤立のループの中に巻き込まれていってしまうのです。こういった現状をつぶさに見ていくと、現状の公的支援が届かないのは何故なのか、その理由も自ずと見えてきます。ここからは、現状の社会課題に対しPIECESがどの様に考え、行動してきたのか、小澤さんの具体的なお話を紹介します。
<現状の公的支援の課題>
1)申請主義なので、そもそも支援が届かない
・申請主義:困っていることを自覚していて、行政までアクセスできる人にとっては有効
・困難な中にいるとき、混乱しているときは「どうしていいかわからない」「なんかしんどいんだけど、、」相談しづらい→よろず相談が受けられる・受容できる媒介者が必要
2) 専門機関の逼迫により、十分なケアがされていない
・専門機関も逼迫している現状
・保護している存在(養育家庭、児童相談所、児童養護施設)も100%以上の稼働率
・十分なケアがされないまま地域に戻されてしまう
3) 行政によるケアが縦割り
・こどもたちの課題は複雑に絡み合っている
そこで、PIECESでは、子どもたちにとって信頼できる他者が社会にたくさんいれば、子どもの孤立が減るのではないかと考ました。
コミュニティユースワーカーとは、特定の信頼できる大人(親ではない他者)であり、その理解ある大人との関係を通して、子どもたちは徐々に社会や人への信頼感を培っていくという取り組みです。
<PIECESの具体的活動>
子どもにとって信頼出来る他者を増やし、社会の受容性を高めることで、子どもが孤立しない仕組みをつくるために、PIESESが手がける事業は次の3つです。①人材育成②子ども支援③社会提案
①人材育成:非専門家「コミュニティユースワーカー(CYW)」を育てる
6ヶ月の育成プログラムで、子ども達1人1人に合わせた関わりを作ることができる支援者の育成を行う。
・4期生がスタート!育成人数35名(1期8名+2期8名+3期19名)⇒研修生47名
②子ども支援:CYW卒業生の活動など
・クリエイティブガレージ:中高生のものづくり体験拠点
20名くらいの小中高生が参加できる。自分がはまっていたゲームの製作者に出会ったことがきっかけで「ゲームを作りたい」と思うようになった。クリエイターが自主的に声を掛け合い、集まってきた。
・もえかん家:シングルマザーとなっている若年妊娠した人たちを対象に、ある家に招きお話をしたり交流したりする場所。
・不登校サポート
・クッキングイベント
・CYWにきたある女の子の例:
お母さんがうつ病である。こだわりが強く友達とうまくいかない、学校に行けない、医療機関の支援を受けていた。
→専門家の紹介でCYWにつながる。
→空想の世界、ストーリーを考えるのが得意。ゲーム制作イベントに参加し、グループでの活動に参加できるようになった。
→自分の役割を見出したり、そんな自分を認めてもらいたいと思い学校に行き出した。
→現在:CYWの活動に通うのではなく、別の活動に参加するようになったり、学校に通い出し、特待生で大学進学をした。
CYWという、親ではない特定の信頼できる大人との関わりが、社会との接点を広げ、自分の可能性へと繋がる大きな力になった例です。
③社会提案
自分のための場所が「家」以外にもあってもいいのでは。
その子のための場所が社会の中に複数あることが大事。
↓
どんな環境に生まれ育っても、孤立することなく豊かに生きていける社会
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CYWが持っていたい姿勢や包摂に向かう価値観は、とびラーが身につけたい振る舞いとも共通する点が多くありました。
その子の「今」を大切にすること。
関わる自分自身が安心している状態で、余裕あること。
二項対立ではとらえない。この子自身が何を学びたいのか、本当に何が必要なのか、他者を想像するために「あらゆる物事の前提を疑うこと」
<社会の受容度を促進・拡張していくために>
・いかに人の想像性を広げられるか:目に見えないこと(invisible)なこと・もの・人への想像性。想像力を狭めてしまう原因はこりかたまった信念・価値観があること。それを解きほぐす。
・価値軸の多様性を尊重する。
・自分の日々の振る舞いが社会の受容度・変化につながる
・出会いに行く=孤立している状態(目に見えない状態)に橋をかけていく必要性
<海外での取り組み>
移民、難民の方々は言語的、文化的な選択肢が少なく孤立・貧困などの困難な状況に陥りやすい方々ということもできます。PIECESでは世界における子どもの孤立・貧困にも目を向け、テロ組織による子どもたちのリクルーティングの阻止にもできることがあるのではないかと、当該国との交流を始めたところだそうです。
*
稲庭さんと小澤さんのお話を聞き、私たちがミュージアムへのアクセシビリティを向上するために行動する意義と、そこに向かう態度をイメージできた、アクセス実践講座1回目となりました。
様々な見えにくさの先を想像し、美術館へのアクセスに困難を抱えた方々の状況を知り、そこにリーチしていくことは、アクセスをしてもらう美術館という構図ではなく、美術館の方から困難を抱えた方々へアクセスする回路を作る不断の努力をしていくということなのかもしれません。
(東京藝術大学美術学部 特任助手 越川さくら)
2018.07.01