年明けの寒い1月6日、人がまばらな藝大上野校地美術学部内。建築科のアトリエを目指し、エレベーターで上がっていくと、原田栞さんが、柔らかな笑顔で迎えてくださいました。
案内されて入った研究室で、「この研究室は建築意匠ではなく、建築理論専攻の研究室です」と一言。机の上には、学科内発表が終わったばかりの80数ページにわたる分厚い論文と、大きな図表や本の等の資料を用意してくださっており、早速、修士論文の内容について、熱く語ってくれました。
―修士論文はどんなテーマを扱っているのですか?
論文のタイトルは、「氏子かり帳に記録される木地師の時空間 江戸時代における木地師の所在地とその変遷の空間的分析」です。江戸時代から明治維新までの間、定住せず、山の中で移動生活を送っていた “木地師”という人々の生活を、研究テーマにしました。
―木地師とは?
“木地”とは、お椀やお盆等の漆を塗る前の素地の状態のこと。“木地師”はそれを作る人々です。木地師は山の中で、原木を切り倒し、分割し、ろくろや鉋を使って木をひき、あら型を作ります。できたあら型は、定期的に都市部に運んでいました。これを、さらにろくろできれいに仕上げる都市型木地師もおり、その後、あら型は塗師に渡され、漆を塗って仕上げられていました。
―原田さんが木地師を知ったきっかけは?
宮本常一という民俗学者の「山に生きる人々」を読んだことです。
「平地から距離をとって、山の中に、自分たちだけの、7合目より上という世界観を形成して、その間を街道を使わずに、自由に行き来していたようである。」というのを読んで、ロマンチックだなと思って、惹かれました。
―そんな“木地師”をどういった視点から研究されたのですか?
10年に1度、滋賀県の木地師を管理する立場にある人達が、全国の山の中に散らばっている木地師のもとを、一人ひとり訪ね歩いていき、金銭を徴収する代わりに、身分を保証する“氏子かり”という制度がありました。この“氏子かり帳”は、その際に、誰からいくら徴収したかということが、位置情報と共に記録されたものです。
通常、江戸時代の人々は、人別帳という定住している村のお寺や神社で管理する戸籍のようなものに、記録されていますが、木地師たちは、定住していないので、戸籍のような形は残っていません。しかし、お金のやり取りとともに、位置情報が氏子かり帳に記録されています。その250年分、34回分の位置情報を、地図上に可視化することで、その生活領域を再現しようと思いました。すでにあるものをこれだけの量の情報が残っているので、民俗学や農業経済学などの他の専攻の人と被らないような建築学的手法で、木地師の生活を再解釈できるのではと、考えました。
―この“氏子かり帳”は、どこで手に入れられたのですか?
木地師が面白いなと思い始めた2019年の秋、どういったアプローチをするか悩みながら、とりあえず、氏子かりをしていた人々の拠点であった、滋賀県の永源寺に、行ってみました。レンタカーで、京都から1時間半ぐらい、田んぼの間を運転していたら、急に山が現れて、さらに、森の中の細い道を30分位進みます。木地師の二大拠点である蛭谷、君ケ畑は、永源寺よりも、さらに上る究極の山奥で、ほとんど人が住んでいませんでしたが、立派な境内の神社があり、きれいに手入れされていました。今でも1年に1回、木地師フォーラムが開かれており、木地師にとっては聖地です。当時の会津の木地師たちは、お伊勢参りをしながら、永源寺にも行っていた記録があります。そんな場所にある資料館を開けてもらい、そこで、この永源寺町史を購入しました。
―そんな滋賀県の山中が、なぜ木地師の中心地として残り続けたのでしょうか?
この場所に、ろくろの発見がきっかけで、神聖視されたという人物がいて、ここに住む人たちは、その人の家臣の子孫であるという伝説があります。それをもとに、木地師たちの一体感が、全国で形成されていきました。永源寺から他の場所へ移っていった記録は多く、全国にも別流派がいくつもありましたが、次第に統合されていきました。そこには、人別帳に入れなくて困っている木地師から、お金を徴収し、身分を保障するという永源寺の氏子を、遠方で獲得する仕組みがありました。
―木地師や氏子かりの制度について、だんだんわかってきました。
では、250年分の膨大な資料の調査は、具体的にどんなところから着手されたのでしょうか?
まず初めに、江戸時代の木地師たちの移動情報を、日本地図に点で落とし込んでいき、位置情報を可視化しようと思いました。250年分の中から、奇数回20年に1回分の情報を、赤い点にして書き入れています。お金のやりとりを、250年分追いかけるのは、きついなと思ったこともありましたが、圧倒的な資料だったので、この調査をメインにすると決めて、コツコツ取り組み、一年かけて完成させました。
―この図が、位置情報を可視化したものということですか?
そうです。最初、氏子かりは、滋賀県琵琶湖東側で、西日本中心のネットワークとして出発するのですが、東日本にも徐々に参加者を獲得して、全国に広がっていきました。
江戸時代の木地師たちは、「私たちは、古来からこの活動をしているから、由緒ある活動として認められるべき」と主張していました。それが、社会にもある程度認められていて、日本人が世界のどこにいても、日本のパスポートを携帯しているように、住んでいる土地に関わらず、木地師のネットワークに所属しているということが、認められていました。明治維新以降、戸籍制度が厳しくなり、木地師たちも戸籍に編入されていきますが、昭和初期まで山の中で暮らしを続けていた人の記録が残っています。
―実際にやってみて、どんなことがわかりましたか?
まず、地域による木地師の移動スタイルの違いです。中国山地では、山林が管理されていたため、持続的に伐採を行い、同じ場所に住み続けることができました。一方、紀伊半島では、広大な森林面積に対して、木地師の数が少なかったからか、その場を放棄する前提で、木を伐りつくしては次の場所に移っていました。こちらの方が全国的な特徴です。
次に、氏子かりの巡回ルートについてです。江戸時代、移動を制限された社会制度の中で、特異な例として、木地師たちは、自分たちの生活を、なんとか持続していました。氏子かりを行う廻国人は、特別に、藩領の境界に関係なく、移動することができました。平地の人間にとっては、田んぼが切り開けない、畑にも向かないという価値のない場所からは、正反対の土地を、木地師たちは、生活の場に選んでいました。彼らにとっては、見不便な山地こそ価値のある空間でした。
廻国人の移動の点を追っていく中で、奈良、三重から滋賀県の日野に、急に北上し、また戻っている部分がありました。不便で合理的でないのに、なぜと思いましたが、そこには、高すぎず低すぎない布引山脈の尾根が日野まで連なっていました。平地の人から見ると山地は難所でも、木地師にとっては歩きなれた道であります。また、木地師は、山地と平地の社会を、はっきりと区別し、技術者というプライドを、高く持って生活していました。木地師は、平地に行くと目立ち、地域によっては、差別されることもなかったわけではないのですが、山の中の道は、誰にも会うことなく、快適に歩くことができる道でもありました。これは、木地師の領域、移動の特徴的なことを表していて、面白いと思います。
―氏子かり帳から、木地師の活動範囲だけでなく、移動ルートまでわかるのですね。他にも発見されたことはありますか?
木地師の所在地がわかるということは、標高についても、ある程度、特定できるということなので、17C位の木地師の所在地を、すべて標高の分布図に表してみました。
木地師たちは、「山7合目以上の土地は、自由に移動して自由に木を切っていいと、昔から約束されている」という根拠のない主張をしているのですが、山7合目というのは、あくまで表現上のことで、350~1200mまでの間で生活していたことがわかりました。
また、その350~1200mまでの間だけを図示したら、木地師の世界が見えてくるのではないかと思い、日本列島の図を作りました。青いあたりが350mから始まって、赤くなるほどに高く、1200m以上のところは表示していません。
平地の生活から距離を置いて、自分の生活を築いているといっても、あら型を出荷する必要があり、街道から離れすぎてしまうと生活に支障が出るので、標高にも限度があったのかなと思います。
山の民と言われる木地師やマタギなどの人たちの、「秋田から奈良まで平地に下りずに移動することが可能だった」という証言が残っていて、本当に行けたのかなと、ずっと思っていましたが、この図の上で確認してみると、確かに山地は秋田のあたりから奈良まで山の民が暮らした特徴的な標高の空間が連なっていることがわかり、嬉しかったです。
一個一個、地図に落とし込むという地道な作業ではありましたが、7合目というぼんやりと表現していた高さを確かめられたのが、自分の中ではこの研究でやりたいことだったと思っています。
―原田さんの建築理論的なアプローチで、仮説に裏付けができたのですね。こちらの図は何を表しているのですか?
これは、個人の木地師の移動を追ったものです。木地師は、土地を所有していないので土地の相続問題がなく、技術を子どもたちに平等に与え、継承していました。氏子かり帳の大きな特徴として、長男、次男という記載はなく、子何人ということだけが記録されています。
氏子かりごとに木地師の名前を追い、とある一家3世代の100年間にわたる移住を、青の折れ線で表しました。この家族を追っていくと、属する集団が、移り変わっていきます。最初の、移動3回分は、ある家族と行動を共にしていますが、その後離れて、自分の家族だけで住んでいる期間もあれば、また他の家族と一緒に暮らして、別れたり、さらに、違う集団を形成したり、自由に移動を繰り返しています。平地で継承されている家は、子どもが生まれなければ、相続者を得るために、養子をもらい、完全に血縁のない人が、跡を継ぐことがあると思いますが、木地師は一旦解散した後、しばらくしてまた一緒になったり、100年後位に、また孫の世代が一緒になったり、個人主義ながらも、血縁が意識されているのが、面白いところだと思いました。一人ひとりが技術を持った人なので、土地に縛られる必要がなかったのでしょう。
―学科内発表での先生方の講評はいかがでしたか?
今まで見えてこなかった社会層をお見せできたので、先生方の反応は良かったです。建築家として面白がっていただけました。どうやってこのテーマに至ったのかの話が多かったです。
―最後に、原田さんの今後の展望について聞かせていただけますか。
藝大生あるあるですが、就職活動はこれからです。これまでやってきたことは、頭の中にあるので、咀嚼し、一旦距離をとって、また考えを広げていければいいなと思います。論文を出版する予定はないですが、自分で短い冊子にまとめて残そうと思っています。
謎が多く残る木地師のネットワークですが、また、続きのような感じで、次の人がやってくれると、違う視点が入るので面白いなと思います。木地師研究の面白いところは、いろんな学問の分野からできるところだと思います。
インタビューを終えて
原田さんには、知らない世界を開いて頂き、お話を聞いていて、その世界にどんどん引き込まれていきました。興味を持ったものに自分の専門性を活かして、アプローチされた研究結果は、驚きと感心することの連続で、大変面白かったです。話の一言一言に、研究への熱い情熱を感じ、木地師の世界に浸ったあっという間の1時間半でした。
取材|石山敬子、井上夏実、山中みどり(アート・コミュニケータ「とびラー」)
執筆|石山敬子 編集|井上夏実、山中みどり
アートを通じて、多くの人たちと関わりたいと思い、とびラーになって2年目。あいうえのやラボで、都美等の建築に触れることが多かった今年度は、その奥深い魅力に、すっかりハマってしまいました。(石山)
インタビューに思いがけず登場した滋賀県出身。歴史や思想など、目に見えない情報も詰まった建築の魅力を伝えられるよう、日々活動中です。(井上)
とびラー1年目。発見と学びの1年でした。このインタビューで、またもや、今までとは違う視点や捉え方が新たな発見につながり、素晴らしい結果が生み出されることを学びました。(山中)
2021.01.28