2022.01.27
2021年12月27日。修了作品の最終審査を目前に控え、どこか慌ただしい取手キャンパス。忙しい時期に私達・とびラー5人をこころよく迎え入れた菅谷杏樹さん。菅谷さんは、2019年より東京都西多摩郡檜原村にある築150年の古民家に居住し、養蜂、養蚕、農業を実践しながら、制作活動を行っている。檜原村での生活は、まず家を直すことから始めたという。生活・制作拠点を整え、満を持して制作された修了作品《霧を縫う-Sew the haze》藝大入学から檜原村での生活、お祖母様のご実家で養蚕を行っていたという自身のルーツに影響を受けて制作された修了作品への思い、修了後の展望をうかがった。
―なぜ藝大に入学されたのですか?
「美術史が昔から好きで。美術から各時代・各土地の人間がどんなことを考えていたのか、どういった感覚だったのかを実践的に学びたいと思い、高校卒業後、絵画修復・保存の道に進みました。
長い年月を経て劣化した作品を発表時の状態に近づける絵画修復・保存は、もちろん必要な分野です。ですが、絵画修復・保存を学んでいくなかで、作品が風化していく、自然に還っていくことをおもしろいと捉えるようになり、自分が目指す道とはちょっと違うなと思う部分がありました。そこで絵画修復・保存の道を離れ、原点に立ち返り、美術史を学ぶべくドイツに留学しました。ドイツで2年、美術や哲学を学ぶなかで、インスタレーションに興味を持ち、学びたいなと思うようになりました。ただ、どこの大学で学んだらよいのかわからなかったので、帰国後、瀬戸内国際芸術祭で制作ボランティアをしながら、作家のみなさんに、私のやりたいことが実現できそうな、おすすめの大学はどこかをうかがいました。そこで東京藝術大学美術学部先端芸術表現科をすすめられまして。
芸術祭終了後、そのまま藝大に受験票を出して、今に至るという感じですね。」
―高校から藝大を目指して、入学されたというわけではないのですね。現在は古民家で暮らしながら制作されていますが、それは偶然なのでしょうか?それとも何かきっかけがあるのでしょうか?
「私はもともと、農業や養蜂に興味がありました。学部生の時から畑を借り、農業をやってみたり、取手キャンパス内でミツバチを飼い、卒業制作を行ったりしていました。生活と創作、そして養蜂や農業を同じ場所で行いたいと思うようになり、それに適した場所を探していたところ、檜原村に行き着きました。」
―檜原村の古民家での暮らしはいかがですか?
「私が暮らしている古民家は、築150年で、本当にボロボロでした。柱も腐っていて、床も抜けていて…。修士課程を2年間休学して、家をまず直しました。
檜原村は、すごい山奥で、暗くなると、何も見えなくなってしまう。他の動物は外の状況が、自分以外の動植物がどこで何をしているかが見えているけれど、人間だけは何も見えない。火を焚かなければ、死んでしまう。ちょっとしたことから人間は非常に弱い、無力な存在だなと感じさせられます。
山で人間は、動物や植物、異種と共生しなければならない。自身の音や匂い、身体性を否応がなく共有する。都会では同種である人間に囲まれて生活しているため、なかなか気がつきませんが、山では自身の身体性を再認識するとともに、人間優位ではない世界の存在を日々感じています。
人間中心である現代において、私は異種と新たな関係性を築く必要性を感じています。ただ昔に戻るのではなく、彼らと共生していた時代、昔を見つめ直すことで、新たな関係性を築きたい。異種、とくに家畜化された生き物と人間の関係のありかたを制作から模索し、次の世代に繋いでいけたらと考えています。」
―なぜ今回、養蚕を修了作品で取り上げたのでしょうか?
「はじめから養蚕を修了作品のテーマとして取り上げると決めていたわけではなく、檜原村への転居、祖母から養蚕を行っていた高祖母のエピソードを聞いた、という2つの事象のタイミングが重なったことから、今回の制作に至りました。
檜原村は戦前までは養蚕が盛んに行われていた場所で、私が暮らしている古民家でも養蚕が行われていたことがわかりました。そこから私が今、暮らすこの家で、昔はどんな風に養蚕を行っていたのだろうと想像するようになり、養蚕のことを少しずつ調べていくようになりました。
また今年の3月に他界した私の祖母の実家でも養蚕を行っていたことがわかりました。祖母が亡くなる前に、養蚕を行っていた祖母の祖母、私にとって高祖母にあたる人、が繭を口に含み、口から糸を出して、それを巻き取る光景を目にしたという、祖母の幼少期、4歳ぐらいの時の記憶を話してくれました。私はその光景を不思議に思い、繭を口に含み、糸を巻き取る行為についても調べるようになりました。」
―実際に蚕も育てられたのですよね?蚕を育ててみて、いかがでしたか?
「大変でした、とても…。私は初心者だったので、1回に50〜70匹を育てることを何回か行ったのですが…。蚕は非常に手間が掛かる、なかなかわがままな生き物で、餌として新鮮で濡れていない桑の葉をこまめにあげないと死んでしまう。体に光を当ててもいけない、温度湿度管理にも気をつけなければいけなくて…。
蚕は、人間が快適だと思う温度湿度で過ごすことが最適な生き物で、昔は人間と同じ居住空間のなかで育てられていたそうです。この手間が掛かる養蚕を、高祖母の時代には40%近くの農家が行っていたことを知りました。昔の人達の大量の虫を育てて一緒に暮らすという異種への距離感、彼らが異種との密接な暮らしを受け入れていたことが非常に興味深いなと思いました。
養蚕は「お蚕様(おこさま)」と称され、聖徳太子も「子どもを育てるように、蚕を育てなさい」という言葉を残していています。
近代以前、蚕は多くの人間にとって近しい生き物であった。一方、現代、多くの人間は蚕だけでなく、虫を子どものように育て暮らす感覚をあまり抱かないのではと思います。その隔たりから、私の創作テーマである家畜化された生き物と人間の関係についても改めて考えました。「家畜」と聞くと、人間が搾取している印象が強いし、そういった側面が実際にあると思います。この搾取構造は必ずしもいいものとは言えず、変えるべきだと思います。
しかし馬や牛を見ると、原種は絶滅しているけれど、家畜化された種は人間による種の繁栄に成功している。もはや可哀想だとか、私達人間が抱く一元的な印象だけで、家畜化された生き物と人間の関係は捉えることができないものになっていると考えながら、作品を制作しました。」
― 修了作品《霧を縫う-Sew the haze》(とくに映像、壁に掛けられた喪服に関して)を紹介しながら
「高祖母は祖母が9歳の時に亡くなりました。
今回、高祖母が幼い孫である祖母にむけて残してくれた喪服を私が着て、こちらの映像に出演しました。この喪服は、高祖母が育てた蚕の糸から作られています。私は、蚕が繭を作るまでの行為と高祖母がこの喪服を作った行為を重ねて捉えています。
蚕が口から体液を外に出し、外に出された体液が繊維化することで糸となり、やがてその糸が繭へとまとまるように、祖母は繭を口に含み、その祖母の唾液が含まれた蚕糸が外に出され、紡がれ、喪服となった。この喪服は、いわば高祖母にとっての繭であると。
私は、祖母の葬儀で初めてこの喪服を身に纏ったのですが、不思議な感覚に包まれました。そこで私は高祖母の行為をなぞるように、繭を口に含み、外に出す行為を映像に残したのですが、これは高祖母と蚕が近しかった感覚を体感的に理解すると同時に、私もまた次の世代に自分の繭を残したいと思ったからです。なので、あえて今回はこの糸で何かを作るのではなく、糸だけを残して、作品としました。」
―映像制作で苦労されたり、悩まれたりした点はありますか?
「私は今回初めて映像作品に出演しました。それに関して葛藤がありました。本当は制作だけで、映像出演はしたくなくて、他の方にお願いしようかなとも思ったのですが、この映像は私の家族のお話なので、私が高祖母を演じることに必然性を感じて、出ることにしました。
実はこの撮影はすごく難しくて…。暗い部屋で黒い喪服を着て、細い糸をうまく光らせることができず、何回も撮り直しました。糸を光らせるためには部屋を暗くする必要があるけれど、あまりに暗いと、今度は喪服が同化して見づらくなってしまう。私の映像技術では難しかったです。」
―ご自身が育てた蚕が作った繭から糸を紡いで作品を作られた思い、感想はいかがですか?
「卒業作品でミツバチを扱った時にも感じたのですが、私だけでは確実に作れないものを作ってもらっている、私一人が完全にコントロールすることはできない生き物に関わる作品制作のプロセスが私にとっては楽しかったです。
ミツバチの時同様、蚕を飼いだした時も私が蚕をしっかり飼えるのか、どういう感情が湧くのか、全く未知数の段階ではじめました。実際に飼い、養蚕について調べていくなかで、昔の人が抱いた“お蚕様”、子どもを育てるように蚕を飼う感覚を確かに実感し、養蚕はこの心理的な近さがなければ成り立たないものだなと思いました。高祖母が繭を口に含んだという行為もこの距離感でずっと暮らしていたのならば、自然な流れによるものだったんだなと納得できるようになりました。」
―家畜化された生き物のなかでも、ミツバチや蚕、虫を作品に取り上げられてきたのはなぜでしょうか?
「哺乳類は比較的コミュニケーションがしやすいため、家畜、家族として受け入れられやすいと思いますが、虫はコミュニケーションがしにくく、異種としての印象が強いと思います。虫とどのように繋がり、家畜としてきたのか、それが非常に興味深いなと思い、作品に取り上げるようになりました。」
―お祖母様もまた養蚕を行われていたのでしょうか?
「いえ、行っていません。ただ高祖母の繭を口に含んだ行為は、本当にあったことか、それとも祖母の記憶違いなのか、気になって、親戚にも確認しました。親戚はみな「見たことがある」と言っていて。ただ見たことはあるけれど、それぞれ、高祖母の行為に対する意見が異なりまして。「あれはただの子どもの遊びだ」、「そうやってちょっとした縫い物をしていた」という人もいて。本当のところは分からず。他にもいろいろな史実資料を調査したのですが、祖母のような行為をしていたという記録は見つけることができませんでした。
「日本書紀」には養蚕起源神話が残されています。月夜見尊(つくよみのみこと)は、天照大神(あまてらすおおかみ)に命じられて保食神(うけもちのかみ)を訪ねました。保食神は自身の口からごちそうを出して、月夜見尊をもてなそうとしました。しかし月夜見尊はごちそうではなく汚れた吐物を出されたと思いこみ、保食神を殺してしまいます。天照大神は、月夜見尊に代わって天熊人(あめのくまひと)を殺された保食神のもとへ派遣したところ、保食神の体の各部位から牛や馬、さまざまな穀物が生まれており、繭からは蚕が生まれたことがわかりました。天熊人は天照大神のために保食神から生まれたものをすべて持ち帰りました。そこで天照大神は蚕を口に含んだところ、口から糸を引き出すことができ、ここから養蚕がはじまったとされています。この起源から考えるならば、高祖母の行為もありえなかったものではなく、起源に近い行為であったのかなとも思うようになりました。」
―学部から大学院前期課程まで8年、藝大で過ごされてみて、いかがでしたか?
「長かった…。ともに制作して、いろいろ言い合える仲間ができたことはかけがえがないですね。やっぱり同期生、一緒にやってきた仲間が、私のやってきたこと、やりたいことを一番わかってくれる。「こうしたいなら、もっとこうすればいいんじゃない?」と的確にアドバイスをくれることはありがたいです。」
―修了後の展望は?
「修了後も引き続き檜原村を拠点に活動していきたいです。檜原村では『ひのはらアートプロジェクト』という現代アートの展覧会が今年初めて開催され、私も作品を出展しました。今後もこのプロジェクトに出展したり、現在の家はすごくいいロケーションなので、お宿を営めたらと思ったり…。
檜原村を一時的な祭が開催される場所としてではなく、細く長く、そこにいくと誰かが何かをやっている状態にしていけたらと考えています。」
—インタビューを終えて
お話を聞けば聞くほど、菅谷さんが描く世界に魅了され、「もっともっとお話を伺いたい!菅谷さんの他の作品も見てみたい!」と思った1時間半。私達とは異なる視点で、この世界を捉えている菅谷さん。一度、菅谷さんの目になってこの世界を見てみたら、どんな風に見えるのだろう。養蜂、養蚕、農業も実践し、作品制作にとどまらない菅谷さんの活動。彼女の今後が楽しみでたまらない。
(インタビュー・文・とびラー)
取材:有留もと子、安東豊、佐々木杏奈、竹中大史、松本知珠
執筆:松本知珠
9期、活動2年目のとびラーです。
私も幼少期に蚕を飼っていたことがあります。蚕が小さい箱のなかで立てていた「カサカサ、カサカサ…」という音は今でも耳に残っています。山と海に囲まれた伊豆で育った私は、登下校中に猿や野犬、ヘビなど様々な動物と遭遇したこともあります。台風が発生した時には、家から見える波の高さに驚き、安全な場所に逃げたいけれど逃げることはできない…、なんとも言えない恐怖を感じたこともありました。菅谷さんの作品とお話から、いつもは気に留めていない幼少期の記憶がふわっと浮かび上がりました。ぜひ菅谷さんの作品を実際に鑑賞し、多くの方にも、「いま・ここ」を離れて、自分自身しか思い描くことのできない情景を描いていただけたらいいなと思っています。(松本)
2022.01.27
第7回鑑賞実践講座|「1年間のふりかえり・この活動の目指すところ」
日時|2022年2月14日(日)13:30〜16:30
会場|オンライン
講師|稲庭彩和子(東京都美術館 学芸員・とびらプロジェクトマネジャー)、三ツ木紀英(NPO法人 芸術資源開発機構(ARDA))
内容|
・「作品選び」について
・1年間のふりかえり・この活動の目指すところ
―――――――――――――――――――――
今年度の鑑賞実践講座最終回となる第7回では、稲庭彩和子さん、三ツ木紀英さんを講師に迎え、あらためて1年間の学びと実践をふりかえり、この活動の目指すところについて、みなさんで考える時間になりました。
稲庭さんからは、歴史的な流れの中で「対話的な学び」が必然性をもって生まれてきた背景について、また、ミュージアムが今なぜ「民主的な対話の場」として価値づけられようとしているのかについて、とびらプロジェクトのあり方と結びつけてお話しがありました。
とびラーは、稲庭さんからの話を受け、「とびらプロジェクト」で対話的に学び、アートを介して民主的な対話の場を生み出していく活動がどんな意味をもつのか、あらためてこの「活動」の目指すところについて、この1年の体験をもとに話し合いました。
とびラーは、1年間の講座やとびラボやプログラムでの活動の中で、とびラー同士やプログラム参加者とともにモノを見つめ、対話する実践を繰り返してきました。
その中で、固定化しがちな一方向的なモノの見方に自ら気づき、
他者と一緒にさまざまな視点からもモノをみつめる楽しさや、
そこから生まれるウェルビーイングな状態を実感したとびラーも多かったと思います。
後半は、2〜6回の講座を担当してきた三ツ木さんと、稲庭さんによる対談を行いました。
コロナ禍で一般化したオンラインでの作品鑑賞とホンモノの作品を前にした鑑賞との明確な違いについて、また、アートを鑑賞することの魅力の本質について、実感をもって語られる三ツ木さんと稲庭さんのトークにとびラーが耳を傾けました。
講座の間、Zoomのチャットには、とびラーからの声がたくさん届けられました。それぞれの体験から講座での学びを振り返る言葉の数々に、とびラーが一年間体験してきた場の一つ一つが「民主的な対話の場」となっていたことを実感できる最終回でした。
オンラインでの学びと、美術館での実践の積み重ねてきた2021年度鑑賞実践講座、これにて解散です。みなさん、ありがとうございました!
(とびらプロジェクト コーディネータ 越川さくら)
2022.01.25
12月23日、年末にしては暖かな日差しの東京藝術大学取手キャンパスのバス停で小佐川さんと落ち合ったのは、とびラー4名とスタッフ1名。校舎内に入り奥まったアトリエの扉を開けると、床に置かれた絵と色とりどりの絵の具皿が目に飛び込んできました。小佐川さんには、1月28日から始まる卒業・修了作品展に向けた締め切りが迫るなか、私たちの質問に笑顔で真摯に答えていただきました。
―まずは自己紹介をお願いします。
出身は、北海道の旭川です。小さい頃から絵を描くことが好きでした。学部は金沢美術工芸大学で日本画を専攻していました。日本画を専攻した理由は、美大受験の際に日本画専攻だと水彩画を描くのですが、油絵よりも水彩画が好きだったからです。今もスケッチは水彩画でしています。大学院から藝大の美術教育に入りました。美術教育に来たけれど教員免許は持っていませんし、研究内容も美術教育とは関係ありません。じゃあ、どうして来たかというと、色々な専攻の人がいて、フラットに芸術ってなんだろう、教育って何だろうと考えられる場所だと思ったからです。
―インスタグラムの写真を見ると、家具や、缶詰のカンなど家の中のものをモチーフとした作品が多い印象ですが、何かこだわりがあるのですか?
他人の部屋を描くのが趣味なんです。(スケッチブックを見せてくれながら)人の生活に合わせて絶えず動き続けるモチーフに魅力を感じています。他人の部屋を観察していると、配置の癖に気が付いたりして、人となりが見えて面白いと思いました。私と同世代の部屋を中心に15軒ぐらいは訪ねたでしょうか。半日ぐらいかけて、彩色までその場でさせてもらっています。
―修了制作の作品について
作品タイトルは『矩形の外』です。タネ明かしをすると、この作品は絵がはけた(搬出された)後の絵で、元々は中央の空間に絵がありました(実は壁に立てかけてあった『ほおずき』がその絵だそう)。作品の中には描かれていませんが、中心にあったはずのものがこの絵の主役みたいなものだと思っています。今はまわりに散らかっている絵皿など、絶えず動いていくものにインスピレーションを貰いながら、描き進めているところです。絵を描いている現実世界から、絵の中にフィードバックしていく過程が楽しいです。現在のところ、トータルの制作時間は1ヶ月。絵と対話する中で構図や色を整理して描いています。
壁に立てかけられた、左から二枚目が「ほおずき」
―日本画の画材
絵皿に出した顔料を温めた牛の膠(にかわ)で溶いて、絵の具をつくります。金沢にいたときは寒さで膠がすぐに固まってしまいましたが、取手の寒さはそれほどではありません。(所狭しと袋や小瓶に入った顔料が散らばったあたりを見回して)顔料はここに何色あるか、ちょっとわかりません。石をトンカチで砕いてすり鉢で粉々にし、水に沈殿させることを繰り返すと、粗さの異なる絵の具ができて面白いんですよ。現在は購入した顔料で描くことがほとんどです。支持体の和紙は楮紙(こうぞし)が多いですね。和紙のふわふわな質感がとっても可愛いなと思っています。今回のパネルは大きいですが、水貼りは一人で行いました。
―どういうふうに絵画を描いているのでしょう?
小さなプロトタイプみたいなものを作ってから、気楽に描いたスケッチをきっかけにしてスタートするのが好きです。最初から力作を描こうとするのではなく、力を抜いて気軽に取り組みたいと思っています。締め切りに追われて辛い時もありますが、やっぱり描いているときは楽しいです。普段はラジオを聴きながら描いています。絵をどこで終わりにするかは、絵を描く人間にとって永遠のテーマですかね…。とりあえず、締め切りというゴールに向かいます(笑)。この絵を描く時はスタイロフォーム(発泡断熱材)に乗りながら座布団に座るような格好で描いています。
―好きな作家はいますか。
画家の神田日勝が好きです。日本画を描いていると、出身地や日本人としてのアイデンティティを問われることがありますが、神田日勝は私と同じ北海道出身でもあるため、好きになりました。ベニヤ板に油彩で絵を描く神田日勝は、馬の作品が有名ですが、画室のシリーズがあるんです。私は学部の卒業制作でも自室のアトリエを描きましたが、そのころから気になっている作家のひとりです。
―どのような修士論文を書かれたのでしょうか。
絵画の空間表現について調べて論文にしました。私達が見てリアルだな、うまいなと思う絵は科学的な遠近法とか立体視が使われて描かれていると思います。例えばビルを見上げた時の傾きをどう表現するか。今では当たり前となっている空間を表現するための手法も、人の長い歴史の中で発見されてきたものです。昔の人には世界がどうみえていたのか、ということに興味がありました。昔の日本の古典絵画は、人の顔がベタッと描かれ、建物も全部斜めだったりして、その違いもどうして起こったのか。東洋と西洋では空間のリアルさを追究する過程もだいぶ違っていて、その違いもどうして起こったのだろうと考えながら論文を書きました。こうみえるという思い込みや正しさが先行してしまい、昔の人が本来みていたような見方ができずに悩みました。美術教育の専攻ですが、理論研究も一つの教育と解釈しています。どのように知見を活かしていけるか、これからも考えていきたいです。
―今まで制作してきた中で、お気に入りの作品はありますか。
やっぱり学部の卒業制作です。今制作している絵と似ていますが、当時は使い慣れたアトリエを描きました。シミや絵の具の溢れた跡や同級生の制作スペースもあるなかで、丹念に描き上げました。とっても上手い作品というわけではないと思いますが、アトリエで過ごした時間も描いているようで、思い入れのある作品です。もしも絵を手放すことになったら、買ってもらうのは有り難いですが、ひとつひとつの作品に時間をかけて制作していて愛着もあるので、嬉しい反面切ないです。
―これからについて
一般企業に就職が決まっていて、働きながら絵を描いていくことにしました。仕事と描きたいものは完全に分けたかったからです。これからも作品を公開していきたいと思っています。
小佐川さんの他の作品が見られるインスタグラムアカウントはこちら:@osagawa0
■インタビューを終えて
制作中の絵をみる機会はほとんど無いので、インタビューは貴重な時間となりました。修了制作は、今回話を伺ったアトリエそのものが描かれているので、制作途中であっても細部までよりリアルに感じることができました。時間の経過とともに絵の制作過程を動画で追っても面白そう。小佐川さんの作品には、繋がったストーリーがそれぞれあるようなので、いつかラフスケッチから、全ての絵を並べてみてみたい、そんな気持ちになりました。
実は、とびらプロジェクトの「鑑賞実践講座」で「対話型鑑賞」に出会っていた小佐川さん。(東京藝術大学の履修科目「美術鑑賞実践演習」では、とびらプロジェクトの鑑賞実践講座を履修することができる。)これまでの美術教育での学びとはことなる作品との関わりに衝撃を受けたとのこと。作品のプロフィールによらない”様々なバックグラウンドを持った複数人で作品をじっくりみて話して、作品と関わりを持つ”ことが、作品への深い理解につながる。この経験をしたことから、展示室で自分の作品をみている方を見かけると、「この人は何を思っているのだろう?」と気になる様になったとか。自分の作品で対話型鑑賞がうまれたら面白いかもしれないと語ってくれました。
卒業・修了作品展でどのように作品が展示されるのか、今から楽しみです。みなさんも作品を前に様々な思いを巡らせていただければと思います。
取材:岡庭正行、朴咲輝、篠田綾子、三宅典子(アートコミュニケータ「とびラー」)
執筆:岡庭正行、朴咲輝、篠田綾子、三宅典子
編集:三宅典子
定年退職し、ボランティア活動、新しい学びや農業に取り組んでいます。インタビューでは面白い、好き、楽しいという言葉が何度も出てきて、本当に描くことが好きなんだなと感じました。(岡庭正行)
NPO法人にて保育園運営業務に従事。インタビューでは自身の好きなことに真っ直ぐ取り組み続ける作家の姿に胸を打たれました。子どもも、親も、「自分の好き」とじっくり向き合える機会を作り続けたいです。(朴咲輝)
とびラー1年目です。描くことを仕事にするのではなく、仕事と描きたいものは完全に分けたいとのお話しが、ずっと絵を描いていく人なんだなと印象深かったです。(篠田綾子)
仕事では、小学生に図工を教えています。小佐川さんの絵画と現実世界の境界が曖昧になるような感覚にワクワク。子どもたちにも紹介したくなりました。(三宅典子)
2022.01.25
昭和生まれの私たちとびラーが訪れたのは、昭和感が漂うショッピングセンターを改修し2007年にオープンをした「井野アーティストヴィレッジ」。東京藝術大学と茨城県取手市が連携して、若いアーティストのための共同アトリエとして貸し出している。
その一室が絵画科 油画専攻・学部4年の奥村研太郎さんの創作場(アトリエ)です。
床一面に平置きされた大きな卒業制作の作品の前でお話を聞きました。
印象的な黒くすすけた柱が3本不規則に並んでいて、周りを囲む額縁のような板の上全体には隆起した山や蛇行した線がついた白い砂が枯山水のように広がっています。
「これが卒業制作の作品ですか?」
「そうです、これに映像を重ねます」
と挨拶も早々に、部屋の電気を消してプロジェクターからの映像を重ねて見せてくれました。
次々と変わる地図のような映像が映し出され、「おおおおっ」と声が出てしまった。
(私たちの)この反応は正解ですか?と、問いかけると、部屋は暗くて表情は見えませんが、「えぇ、はい…」と照れたように答えてくれました。そして静かな口調で丁寧に作品について語ってくれました。
―作品の材料を教えてください。
砂・木材・映像です。
砂は「寒水石」といって日本庭園や枯山水で使われる砂の一種です。この柱は藝大の上野キャンパスの近くの木造アパートを解体しているところからもらってきました。柱は不規則に削って表面を焼いて、設置しています。映像は都市や銀河の名前や場所などを板の上に投影しています。柱の木材としての物質性や、解体前の記憶をいくつかの地図の映像と組み合わせて、展示したいと考えています。作品の舞台部分は、大きな4つのパネルが組み合わさってできています。卒業・修了制作展では、これを解体して持って行き設置します。
―その都度、イメージが変幻していく感じですか?
はい、この砂は撒いてあるだけで固定していません。規則を作るのではなく、自らの身体の変化や環境の変化が間接的にこの砂の部分に現れます。絵を描く行為と似た感覚で、箒を使って形をつけています。
―柱をそのままでなく、黒く焼いたのはなぜですか?
“表面的な死”という意味を込めています。燃やされる前も、建物の一部だった柱が解体されて、機能面での生を失ったものと言うことができます。柱の表面のみを燃やした段階では、木材の芯の部分はまだ生きている。この柱が生きているのか死んでいるのか、どちらとも言い難いような、揺れ動く状態に持っていくために燃やしています。
柱の上部だけを彫ってあるのは、角材から人のカタチを彫り出すようないわゆる彫刻作品とは違って、一部だけ自分の生々しい手つきが入っているようにしたくて行いました。実際に彫ってみて初めて柱が自分のものになるみたいな気がします。
―柱は最初から構想にあったのですか?
そうですね、過去に作った作品でも欠けて折れたりした上で燃やされた木の柱を白いバックグラウンドに貼り付けて、映像と組み合わせています。そのような過去作品の流れで、卒業制作でも炭になった柱という物質を使っています。
《森森流熵(しんしんるしょう)》というタイトルの作品になります。この作品は遠くから見ると平面として映像が見えてきて、近くから見ると木材の質量感があり、2つの視点での見え方を狙いとしています。タイトルの最後の一文字の「熵」は中国語でエントロピーという意味です。エントロピーは熱力学で使われている概念で、簡単に言うと物のランダム性の度合いを指しています。たとえば、同じ容器の中で温度の高い水と低い水が仕切りによって隔てられているとします。その仕切りを取ると自然と中くらいの温度に落ち着きますよね。この状況を説明する際に、分子の運動の激しさが高いことを「エントロピーが高い」とし、逆をエントロピーが低いとするような表現方法です。時間的にマクロの視点で見ると分子の乱雑度がどんどん増大して発散していくと言われています。
人にしても木にしても、生まれてからしばらくしたら死んでいきます。最終的には燃やされて、煙になって空に登っていく。人が自然に感覚できるスケール感からすると、空に登っていく時点が同一の生命に関して最もエントロピーの高い状態だとも言えます。死してもなお、この体を構成していた分子は他の生命の一部になる。それは、エネルギーによってエントロピーが再び低い状態にもどる現象が起きているということです。タイトルについて説明すると、「森森」で森羅万象のイメージ、そして森羅万象が「流」れるという意味になっています。柱を燃やし、映像によりその欠落を補完するという行為で、生と死に直接アプローチできるのではないかと思います。
―焼いた柱に惹かれるのは?
細長く立っているという形態が大事で、ポツンと屹立しているとじっと見てしまう。人も同じく細長い形をしていて、柱が擬人的に見えるっていうのもあるかもしれないです。一個の生きているもしくは死んでいるものの象徴として、僕には人に見えてしまいます。
―記憶のうつり変わりや時間の流れみたいな感じですか?
そうですね、確かにその部分も大事です。しかし、一番大切にしたいのはある対立なんです。どんどん移り変わっていく儚い要素と、それに対する素材の重さや、質量。どうしてもその儚い部分として、炭の柱を使う必要がありました。
展示では、映像を床に投影するのと同時に、壁にも投影して全体感が見えるようにしたいと思っています。
―今回の作品のタイトルはなんというタイトルですか?
長いタイトルを付けてしまいました・・・笑
《写像形式的沖火―Ⅲ.消去の論理像 Animortem of Pictorial Form―III.Logical Picture of Delection》といいます。
一つのシリーズとして自分の最近の制作を捉えたいなと思っていて、「写像形式的冲火」というシリーズの「Ⅲ」番目に位置付けました。先ほどお話しした《森森流熵》よりさらに前に、同じく炭の柱を使った作品があります。それをこのシリーズの最初とし、《森森流熵》がⅡで、今回の作品をⅢとしました。
―この作品のデッサンとかはしましたか?
構想の段階ですね。最初は小さいスケッチブックにドローイングして、こういう景色を見たいというイメージを描くということをしました。一番始めのドローイングの段階では、「白い海みたいな砂が柱に打ち寄せていたらいいな」みたいなぼんやりしたイメージを持っていました。そこから時間をかけて、パソコンで3Dを使って試してみたりして、シミュレーションしていました。
―生と死を取り入れようと思ったのは?
この主題を扱おうと思ったのは大学に入ってからです。もともと、粘菌みたいな生物の複雑性やビジュアルが好きでした。粘菌というのは、少量をシャーレに放置しておくと自然と東京の路線図みたいな複雑な形に派生していくような不思議な生物です。絵を描くときもそのように複雑な視覚効果を求めて作品を作ることが多かったのですが、他のメディアの魅力にもだんだんと触れるようになりました。
メディウムから出発した実験を色々している中で、複雑性を持つということ、また、情報という概念自体が、生命に特有のものであることに自覚的になったんですね。そこで、DNAというモチーフを使って制作をしてみた作品があります。DNAは、A、T、C、G四種類のシンプルな塩基で構成されながらも、その組み合わせによって物凄い種類のアミノ酸やそれをさらに組み合わせてタンパク質が生成されています。精巧なシステム自体の素晴らしさもありますが、やはりこの複雑性は生命であるからこそ可能なのだという気づきがありました。このような過程を経て、「生命とは、非生命とは何だろう」という改まった問いの立て方をしてみるようになりました。
―生や死を身近に御経験されたのですか?
祖母が亡くなったことは大きなきっかけの一つでした。長男として、お葬式で初めてお骨を拾うという最後のところまで参加しました。その時、人が死んでしまった後の儚さを感じました。拾えるぐらいのお骨は遺るけれど、他の物質はほとんど全て無くなってしまったように思えた。しかし理性的に考えると、無くなるというより、見えないぐらい細かくなって移動して、他の物質とつながっていくと言った方が正しいですよね。物理的に人間を捉えるなんて言うと冷たく聞こえますが、お骨と空に登っていき拡散する物質に関しては、そのような視点が救いになることもあると思います。
―油絵専攻ですが、この形に進化した経緯はなんですか?
色々なメディウム(媒体)を試したいという思いが強くありました。油絵具も、様々な表現方法があって楽しいのですが、重量、質量をそのまま扱う立体や、時間軸が付加される映像など他のメディアを作品に使いたいと思いました。
―現在は制作のために取手に引っ越したそうですね
井野アーティストヴィレッジの近所に住んで制作をつづけています。上野キャンパスのアトリエは、時間の制限もあってそれに左右されてしまうので、時間を気にせず制作したいと思って借りました。今年の初めに4ヶ月ほどシンガポールのラサール芸術大学へ交換留学で行きましたが、本格的な一人暮らしは今回が初めてです。
―シンガポールでの留学生活は作品作りに影響はありましたか?
今回、地図を立体物の上にマッピングしようと思ったのはシンガポールでの気づきが大きい影響を持っています。シンガポールではCOVID対策の一つで国民の位置情報を把握するアプリを国民全員がスマホにダウンロードしていて、感染者が出た場合の追跡を可能にするために、建物やお店の入退場時刻などを毎回記録するというのがスタンダードになっていました。そのアプリで常に動きが俯瞰的に把握されているのだなというなんとなくの実感をもとに、現地では地図を重ねてドローイングしていました。「地図」、というのがキーワードになりそうだ、というくらいの感覚です。そこから、「マッピング」=地図を描くという行為が、「投射する」「写像する」という動詞に翻訳されることもあるということを知り、今回の作品で地図を扱う根拠になりました。ある情景を文章に起こすのも、写像の一種と言えます。通常の地図は、私たちが歩きまわっているこの立体的で五感的な環境を、必要な道路・建物などの要素だけを抽象して二次元に写し出した像です。つまり、現実世界から像に置き換わる時に、ある解釈が必ず入っているわけです。この、地図に代表されるような写像行為における解釈のレイヤーを見つめていきたいという思いがあります。
今流している映像では、地図は4種類あって、コロンビアのどこかの都市だったり、いくつかの銀河の名前を宇宙マイクロ波背景放射という画像に重ねて「宇宙の地図」と自分で呼んでいるものがあります。さらに、消防用のマンハッタン市街地の地図と、金星の地表の航空写真にグリッドや架空の地名を加えて自分の頭の地図と呼んでいるものがあります。このようにスケール感が違うのは、地図行為、写像行為の恣意性を意識したためです。都市の地図がゆらゆら写っているところから、パッと銀河規模の地図に移り変わるようになっているのですが、一瞬でこのようにスケールを飛び越えられるのは、いくらでも細かく、あるいは大きく世界を写像することができるということに起因していますよね。この不確かさ、世界を「解釈する」というレイヤーが、そのままで見えるわけではないけれど確実にあるということをこの作品の根幹としています。
―日々入ってくる情報によって作品は変化していきますか?
関心があることは勉強していくようにしています。今、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインというオーストリアの哲学者が大事だなと思っています。《消去の論理像》のマッピングという行為に彼の「像理論」が深く関係しています。
ウィトゲンシュタインは、数学や論理学をバックグラウンドにした哲学者です。『論理哲学論考』という有名で賛否両論な著作があるのですが、その中で彼は、語りえることだけを語ろう、語り得ないことは確実にあってそれは語ろうとしない方が良い、という主張をしています。その際に中心となっているのが、「像」の理論です。数学の集合論の一番基礎で紹介されるような概念ですが、集合論が数学の根っこであるということもあるくらい大事な概念です。ウィトゲンシュタインよりも前の哲学者も似たような概念を使って世界を説明していましたが、その記述の正確性と、言語によって語り得ないことの線引きをしたという点において重要な哲学者だと言えます。像理論を、リンゴを例にして説明してみます。目の前にリンゴがある。そこで僕が、「リンゴがある」という文字を書いてみたり、発声してみたり、その光景を絵を描くというのがリンゴを写像するという行為です。現実世界という状況がまずあって、そこからリンゴという事物を切り出して何かしらの表現をすることで、表現された結果の方が像と呼ばれます。そして、この行為が写像と呼ばれます。ウィトゲンシュタイン自身はこの像を命題と言って文章のみで考えていましたが、とりあえず今は絵で考えてもいいと思います。さらに、現実のリンゴからリンゴの像が作り出される時、どうやって変換されているのか?少しゴツゴツした球体のような形態を持って、赤い色彩、斜め上の光源から生まれる陰影が、そのように捉えられる時、どうやって絵として変換されるのか?この形式のことを写像形式といい、写像形式は言語自体では(絵を描くという言語の中では)語ることができない、形式自体を描くことはできないということです。この像理論が大きな重要性を持っています。
(奥村さんのKindleから)
―写像はこの作品の裏テーマですか?
はい。むしろ、作品の根幹になっています。「写像」という言葉は、数学や哲学の文脈で出てくることが多いため小難しく聞こえますが、元の英語だと「Mapping」なんですね。つまり、地図のことなんです。さらに、「像」というのも、元は「Picture」なんです。リンゴをみて、リンゴのPictureを作る。それがMappingです。だから、地図を作り、地図を投影することも、マッピングしたものを改変しさらにこの現実世界に再びマッピングするという行為なんです。
ただ、ウィトゲンシュタインは「語り得ないものについては沈黙するしかない」と言いながらも、『倫理学講話』という講演の中では語り得ないものについて必死に語ってみようとする、語り得ないということは知りつつもなんとかつかまえてみようとするような、ひたむきな姿勢を支持しています。《消去の論理像》においても、写像形式が、示されるだけではなく、語られ、立ち上がってきてくれたら、という思いを持っています。
―制作をしていないときは何をしていますか?
本を読むことが多いです。理系ではありませんが、科学的な世界の捉え方と、その限界に興味があります。
―将来は?
外国に拠点を置いてみたいと思っています。計画では、再来年ロンドン芸術大学のセントラルセントマーチンズに行こうと準備をしています。英国英語が好きなのと由緒ある大学で学びたいと思いました。1年半ほどフリーターをし、準備を整えてマスターを取りたいと思っています。今のような形でやっていけるのかわかりませんが、何かしらお金を得て制作を続けられるようにしたいです。
―インタビューを終えて
奥村さんとインタビューしながら穏やかで落ち着いたその口調から語られる熱い思いはまさに彼そのものがエントロピーのようだと思いました。目の前の作品とそのプロセスの複雑さは、説明されても容易にはわからないかもしれない。けれど、わかったふりはしなくていい。それだけはわかった気がします。
(インタビュー・文・とびラー)
取材:藤田理子、中島弘子、水上みさ
執筆:藤田理子
ものすごいスピードでいろいろなことを吸収して消化していく奥村さん。静かに語る口調の中に秘めたる情熱を感じ、アトリエの冷えも相まって青い炎のように感じました。私の生きている時間とは違う速度で暮らしているのではないかと思っていたら、得意料理は豚バラキムチと聞いてほっこりしました。(藤田)
2022.01.25
12月の寒空の下、校舎の前でにこやかに出迎えてくれた趙さんは、保存修復という少し硬いイメージとはかけ離れたやわらかい雰囲気の女性でした。案内された地下の研究室でまず目に入ったのは顕微鏡やその後ろの壁に貼られた元素周期表。奥の部屋には電気コンセントに繋がれた超音波洗浄機や保温槽が並び、何だか理科の実験室のよう。そんな中でインタビューが始まりました。
■保存修復・日本・藝大、それぞれとの出会い
―保存修復を専攻しようと思ったのはいつ頃ですか?
高校3年生の時に中国の文化財修復の展示で修復前と修復後の写真を見て、こういう専門分野もあるのだと初めて知りました。それまで文化財には特に興味がありませんでしたが、展示を見た後に興味が湧き、上海視覚芸術学院に入学して陶磁器の修復の勉強を始めました。卒業後、将来文化財保存に関わる仕事につきたいと思い、知識を深めるために藝大の大学院に進みました。日本に来たのは、(修復に対する考え方も様々なので)中国だけでなく他の国の方法も知ったほうがいいと思ったからです。文化財は後世に伝えていくべき貴重なものなので、それを修復することは重要だと思います。
―日本語がとてもお上手ですね。どれくらい勉強されたのですか?
大学3年生の時に日本に留学することを決めて、それから日本語の勉強を始めました。
―日本と中国の修復に対する考え方の違いはどういうところですか?
私が大学で学んでいた頃は、中国では作品を欠損がなく完璧に、オリジナルと同じように戻そうとしていました。それに対して、日本やイタリアでは、修復した部分がわかるように色を少し変えておくようなやり方が主流でした。中国も今ではそのようなやり方になってきています。完璧に直すにしても、修復部分がわかるように直すにしても、文化財に対する考え方は同じ、後世に貴重なものを伝えたいということだと思います。
■修了研究について
―卒業・修了作品展(卒展)に出展する作品について教えて下さい。
「瀬戸美濃鳥形陶器皿」という東京都千代田区有楽町一丁目遺跡から発掘された陶器のお皿を修復したものです。藤井松平家の武家屋敷で実際に使われていたお皿で、江戸時代の明暦の大火[注1]で焼かれて処分されたものです。「御深井(おふけ)釉」という尾張徳川のお庭焼き[注2]にも使われた釉薬がかけられた陶器で、素地が白くて釉薬をのせると青っぽくなるのが特徴です。
大学に持ち込まれた時のお皿
―面白い形ですね。
鳥が翼を広げた形をしています。真ん中には頭を下げて毛づくろいをするようなポーズをしている鳥の絵がついています。
現在修復中−補填箇所を補彩 よく見ると鳥の絵が…
―かわいい鳥の絵が描かれていますね。いくつかの破片が繋ぎ合わされていますが、保存修復の作業は、バラバラになった破片をつなげるところから始めるのですか?
これは出土した文化財で、発掘された時の状態も重要です。まず、考古学の専門家が発掘状態を調査記録し、破片はなくならないように仮止めされます。その後、修復が必要とされて研究室に来ました。土の成分である鉄分が素地に染み込んでいて、出土したことでそれが酸化してちょうど鉄さびのような色が付いてしまっていたため、この作品の修復では洗浄が最も重要な作業になります。私の研究課題が多孔質の陶器の洗浄方法だったので、私が担当することになりました。
―多孔質?
磁器は1200〜1300℃の高温で焼かれるので内部が磁器ほど緻密ではなく隙間があるのです。汚れを取り除く方法は磁器でも陶器でも同じで、取り除きたい汚れを溶かしてくれる溶剤を選んで使います。ただ、内部の状態が異なるので使い方に注意が必要になるのです。陶器の場合は汚れを溶かした溶剤が素地の隙間に染み込み、溶剤の揮発するタイミングによっては汚れだけが素地の奥に残る恐れがあります。特に今回のような表面の状態に問題がある場合は、溶剤を繰り返し使用するのも避けたいので、溶剤をゲル状にして上にのせて洗浄します。私はその方法について研究しています。磁器と違って多孔質の陶器の洗浄は処置が難しいですが、それを解決することに興味があります。
多孔質の陶器の断面と表面についてパソコン画面を使い
丁寧に説明してくれる趙さん
―破片が仮止めされたお皿を一度バラバラにして洗浄するんですね。具体的に洗浄はどのように行うのですか?
「アガー」という精製された寒天の粉末とEDTAという金属(イオン)と結びつくキレート剤という薬剤の粉末を混ぜたものを精製水に溶かしてゲル状にしたもので洗います。ゲルによる洗浄は液体による洗浄よりも素地への染み込みのコントロールがしやすいので、多孔質の陶器にも安心して使えます。ゲル状にしたものだと、汚れがひどいところだけ部分洗浄ができるし、一度洗って落ちないところにもう一度乗せて洗浄することもできます。このお皿の鳥の絵も出土した時は見えにくかったのですが、洗浄を繰り返していくうちに、絵がはっきり出てきて、御深井釉の特徴的な淡い緑色が再現されました。
破片を接着する前の作品
洗浄に使う薬剤
―洗浄したあとは何をするのですか?
洗浄した破片を接着し完全に接着されたら、欠損したところを樹脂入りの石膏で補填して彩色します。補填は、シリコーンで補填する部分の型をとり、その中に樹脂入り石膏を入れて乾かします。そこにオリジナルと近い色のアクリル絵具をエアブラシで吹き付けます。修復したところと作品のオリジナルのところがわかるように、オリジナルと全く同じ色にはしません。この作品は同じ形のお皿が他に2枚出土されたので、そこから欠損する前の形がわかりました。
■本当に大変なのは修復方針の決定まで
―ここまで修復するのにどのくらいかかったのですか?
作品を実際に調査したのは昨年の12月ですが、作品が藝大にきたのは今年の4月です。まず、作品の情報を調べて計画書を書き、夏休みから洗浄の実験を開始しました。3ヶ月間のテストを経て、10月に洗浄に使う薬剤を決定し、その後、1ヶ月ぐらい先生と諸々の確認をして、実際に洗浄を開始したのは12月に入ってからです。
―調査や実験に随分長い時間をかけるんですね。一番たいへんだったのはどこですか?
今回の研究の中心となっている汚れが一番よく落ちるゲルの温度を見つけるための実験です。本物を使って実験することはできないので、鉄さびの汚れをつけた陶器のテストピースを用意して、ゲルの濃度や温度を変えて洗浄を繰り返す実験を数ヶ月間行いました。昨年行った理平焼のお茶碗の修復で、初めて今回と同じETDAを含んだ洗浄ゲルを使用したのですが、室温のゲルで洗浄したら汚れが完全にとれなかったんです。そこで温度をあげたらもっと良くとれるのではないかと思いつき、温度の実験を始めました。洗浄ゲルの温度を40℃〜55℃の間で4段階にわけて、それぞれの洗浄効果を調べました。20分ごとにゲルが乾かないように新しいゲルをのせる作業を、ひとつのテストピースにつき5回ずつやりました。その結果、50℃〜55℃の洗浄ゲルを使用したときに汚れがいちばん良く落ちることがわかりました。
テストピースを使った洗浄効果の実験−緻密なデータがぎっしり詰まっています
―修復には決まったマニュアルがあるわけではなく、作品ごとに使う薬剤の配合のレシピや温度などを考え、実験を重ねて修復の方針をたてなければいけないのですね。テストピースを用意するだけでも大変そうですね。
テストピースの制作は、先輩にも手伝ってもらいました。方針が決まれば作品自体の修復作業は早いのですが、その前にいろいろと準備をしなければだめなんです。
これはテストピースのほんの一部です
―破片の接着はどのように行うのですか?
アクリル系樹脂であるパラロイドを2種類、B72とB44を溶剤で溶かして混ぜたものを接着剤として使います。このパラロイドは透明感が高く、あまり変色しない利点があります。B72は伸びがよく、B44はB72より硬く、融点が高いものです。この接着剤は世界中の文化財の保存修復に使われている可逆性のある接着剤です。
―可逆性?もとに戻せること?
はい。一度修復されたものはもう二度と修復されないというわけではありません。時が経って修復材料が劣化したら修復し直さなければならないし、将来、もっと技術が進んだら、また解体して最新の技術で修復して次世代に伝えることができます。そのため文化財の保存修復には「可逆性」が重要です。
可逆性のあるアクリル接着剤
ビーズみたい…左側(パラロイドB44)はキラキラしていました
―ご自分が修復した後のことまで考えて作業をされているのですね。修復作業の中ではどれが一番楽しいですか?
楽しいのは実験です。たいへんだけど、効果があがった時とか自分の仮説が正しかったことが実験で証明された時がうれしいです。
■卒業、そして将来
―卒展では作品はどのように展示されるのですか?
欠損部分を補填してオリジナルと同じ形になった作品と、修復前の写真や修復の工程を記録したパネルも展示します。修復の工程はすべて記録を取っておかないとならないし、作品自体を修復すると同時に論文も書かなければならないので、やることが多くてたいへんです。
―作品のどこに注目してほしいですか?
洗浄してはっきりと見えてきた鳥の絵です。出土直後の写真と比べて、どれくらい鮮明になったのか見てほしいです。
―卒業後の進路は決まっているのですか?中国に帰ってしまうの?
具体的には決まっていませんが、できれば日本で文化財修復に関わる仕事に就きたいと思っています。日本の文化も好きだし、せっかく留学したので、中国に帰るにしても日本で仕事をして自分の経験を積んでからにしたいと思います。
―以前の中国ではオリジナルと同じように完璧に修復するのが一般的だった、というお話もありました。趙さんは作品を完璧に修復したいですか?
修復の目的によりますね。展示して皆さんにその作品の元の美しさを見せたいのであれば、きれいに完璧に直さなければいけないけれど、作品の時代背景や歴史を知らせるためには、オリジナルと後から修復した部分がわかるように直さなければならないと思います。どちらが良くてどちらが悪いということは言えません。何を伝えたいかによって修復のやり方は違うと思います。
―将来、どんな作品を修復してみたいですか?
そういうことは、あまり考えたことがありません。中国の宋時代や日本の江戸時代の作品などに興味がありますが、修復してほしいと言われたものなら何でも修復します。
何やら理科の実験室にありそうな研究室の備品の数々
■インタビューを終えて
今まで保存修復の作業は、バラバラになったピースをうまく繋げあわせたり、なくなったところを継ぎ足して完成させるところにいちばん力を入れるのだと思っていましたが、それは最後の仕上げの部分で、その前に最適な修復方法を見つけるために長期にわたる地道な実験が繰り返されていることを初めて知りました。「その実験の過程がいちばん好き」と微笑みながら断言する趙さん。貴重な文化財を次世代に伝えていくことを誇りに思い保存修復に励んでいる姿に、筋の通った芯の強さを感じました。
修復が終了したお皿がどのようになるのか、今から卒展が楽しみです。皆さまにもぜひご覧いただきたいです。
取材・編集:岡野三恵、長尾純子、脇坂文栄(アート・コミュニケータ「とびラー」)
執筆:脇坂文栄
とびラー3年目にして初めての藝大生インタビューに挑戦しました。作品を創作するだけでなく、文化財を後世に伝えていくという藝大のもう一つの役割と、それに真摯に取り組む人たちについて、少しでも多くの方に知っていだだけると嬉しいです。
2022.01.25
12月中旬にしては暖かな午前。とびラー3名で東京藝術大学総合工房棟に訪れました。キュートな笑顔で迎えてくださったのは、デザイン科4年生の小河原 美波(おがはら みなみ)さん。案内してもらった広いホールのような部屋には、人の背丈くらいの高さの段ボールで、仕切りが作られています。コロナ対策で、各生徒の制作場所を区切っているそう。なんだか秘密基地みたい。そんなことを考えながら小河原さんの制作スペースに到着すると、机の上にはカラフルな模様が描かれた、大きな長方形の紙が置いてあります。こちらが小河原さんの卒業制作の作品。作品タイトルは『When the wind blew, the story of the sea in Hayama.』。
■自分が育った土地に取り残されたものたちを空に葬る、祈りのようなプロセス
作品づくりに正直に向き合う姿勢が魅力的な小河原さん
―素敵な色合いですね。どんな作品を制作されているのでしょうか?
私が育った、神奈川県三浦郡にある葉山町の海岸で拾ったペットボトルなどの人工の漂流物のシルエットからコラージュをし、このグラフィックをもとに凧をつくっています。葉山町には8つの海岸があるのですが、浜で拾った漂流物の形をとって、浜ごとに1つの凧にのせています。そしてこの凧を、漂流物を拾った浜で空に揚げるという作品です。
凧の隅には『from Isshiki beach to the Heaven』“一色海岸から空へ”というように、海岸の名前も記されている
―漂流物の形だとは気づきませんでした!言われてみれば、文房具のような形もあります。
海から流れてくる漂流物には、流木や石などの自然のものもあれば、ペットボトルや歯ブラシ、お菓子のパッケージ、釣り具など、ごみと呼ばれる人工物もありますよね。自然物は浜に流れ着いて、いずれ砂の一粒になって自然に還っていくという自然が本来持っている循環にのっていますが、人工物はその循環の流れに乗れずに取り残されてゆく存在です。波に流されてきて、地面に残された人工の漂流物を、私が拾い、それを凧にのせて空へ飛ばすという、自然の循環にのれない彼らを“葬る”試みです。作品名は『When the wind blew, 』“風が吹くとき”といいます。風が吹いて、漂流物が流れ着く。私が拾い上げて、そしてそこに吹いた風が凧を空へと連れてゆく。地面と空とを一本の線で繋いだ一連のプロセスを通して、私を育ててくれた海に祈りを込めるというのが1つのテーマとなっています。「海岸にごみを捨てないで」という、環境保全にまつわるメッセージではなく、葉山町で起こる私の手を通したひとつの循環の話なのです。
中間講評の時の写真。8つの凧が天井に吊るされ、その下に石や地図が置かれている。写真手前には、凧をあげた実際の写真や、漂流物を拾ったときの出来事をまとめた本も
―これが中間講評の時の写真ですね。凧の下に石や地図が置かれています。
「卒業・修了作品展(卒展)」では、葉山にある8つの浜ごとに、海岸線の地図、浜で拾った石、実際に私が拾っている間に出会ったできごとを綴った文章、そして凧を展示する予定です。その文章には、拾っている間に町の人からふいに話かけられたことなど、“地面”と“地面の上の漂流物”、“拾い上げる私”、“空”の4者の間に起こった出来事が書かれています。石は、海岸に残り自然に循環していくものとして、空へと昇ってゆく漂流物たちを見送っているようなイメージです。
―会話の節々から、葉山町への愛が伝わってきます。
幼稚園の頃から葉山で育ち、この町も海も大好きです。今も実家から、藝大のある上野まで2時間弱かけて通っています。大学の工房でしかできないことは大学で行いますが、家で作品づくりをすることも多いです。
―最初から凧で表現しようと考えていたのですか?
卒業制作では、葉山町という私が育った土地を題材にしたいと思っていて、葉山にまつわる造形物を表現する器として、紙に印刷するのか、お皿にするのか…と、色々と考えている中で、凧が思い浮かびました。作品が、美術館に置かれて終わりではなくて、別のところに居場所があってほしいという思いがありました。それに、凧は葉山の海風が吹いてこそ空へ揚がるものですし、町の人にも見えることで一緒に経験が共有できる。この町の一部になりますよね。最初は四角い平面凧ではなく、立体凧も選択肢として考えて作ったりもしていましたが、見る人に一番馴染みのある形にしようと考え、平面凧にしました。
―漂流物を扱うことにしたきっかけは何でしょうか?
もともと、地面と空との関係性に興味をもっていました。雨が降った翌日に地面を見ると、昨日まではなかったものが現れたりします。それは雨によって、空や木から落ちてきたものだったり。こんな経験から、空の機嫌が地面に影響するなという関係性に関心を持ち、この町の地面に落ちている物を観察しに行こうと思って、海へ向かったんです。そしたら、その日の海岸はゴミだらけで。。今まで「葉山の海は綺麗なんだ。」と友達にも言っていたけど、こんなにゴミがあるのかと悲しくなり、私はこの町の綺麗なところしか見ようとしていなかったんだなとも思いました。綺麗な流木や石だけ拾おうかとも思ったのですが、それだとこの町の海の現実ではなくて、美化された嘘の姿を現すことになってしまう。大事なのは、嘘をつかずに本当のことを語ること。だと思っていたので、その日の地面に残されていた、人工の漂流物だけを選んで写真に撮っていきました。そして、写真に撮ってそのまま砂浜に放っておくことはできないと思って拾いはじめ、調べたら海岸の美化団体があることを知ったので、そちらに引き取ってもらいました。多い日だと、200個以上拾ったときもありましたね。
―200個!そんなたくさんの素材の中から、どのように絵柄を決めていったのですか?
ひとまず写真に撮った漂流物はすべて出力し、形をトレースして、コラージュをしていきました。この工程が一番楽しかったです。ペットボトルや歯ブラシのようにわかりやすい造形と、抽象的で何かわからない造形のバランスが偏らないように、見る人にも伝わりやすくて自分の気持ちいいポイントを探して配置していきました。捨てられているものは機能を失っているので、もともとの物の意味合いや機能は考えず、形の面白さを味わうことにして、上から俯瞰したシルエットのみを捉えています。拾ってみないとどんなコラージュが出来上がるのかはわからない。けれどやっていくと必ず、ここ!と言う私の中でピタっとくる位置があって、その感覚を探って鍛えていく作業でもありました。拾えば拾った分だけ形が生まれていくので、いつまでも続けられる感覚はありましたね。
―逆に、制作していて大変だったことはありますか?
和凧作りが大変でした。いろいろと調べて、初めて凧作りをしたのですが、骨の強度や糸の張り方も試行錯誤の連続で、いざ外で揚げても綺麗に安定しなかったりと、本当に苦労しました。あまりにもうまくいかないので、いっそヘリウムガス風船を使って飛ばそうか…という思いもちらつきました(笑)。でも、それだと自分の作品に嘘をつくことになって、自分で作品を愛せないなと思ったので頑張りましたね。
■日々の「おう!」が作品の源
要素と要素をつなぎ合わせて、他の人にも魅力が伝わるように編集してゆく
―凧も、絵柄も、作品制作の過程をまとめた本も、とても温かみのある素材です。小河原さんの過去の作品も、光や素材の繊細さが感じられるものが多い印象でした。魅せ方にこだわりはありますか?
素材や肌触りにはいつもこだわっています。今回は、凧が太陽の光を受けて透けた時が一番綺麗に見えることを目指しました。普通のアクリル絵の具で刷った場合、白が混ざっている分、光に透かすと一段色が濃くなってしまいます。それを避けるために、手間はかかりますが、黒色・赤・オレンジなどは透明度の高いインクで刷り、その他の色はほとんど厚みのない薄い紙を凧に貼っています。デジタル印刷でも色合いを工夫すれば近い表現はできるだろうし、そのことに気づかない人も多いとは思うけれど、光に透けたときに物理的に下のレイヤーの色が透けて見えるといった微妙なニュアンスは出せない。平面作品とはいえ、奥行きはとても大事にしています。
凧を日光に透かすと、インクの黒色が薄く透けて、紙を貼っている部分の重なりも楽しめる
―小河原さんは、日常の小さな気づきを大事にされているなと感じます。
大事ですね…。いかに身の回りで自分の面白いと思う現象を見つけられるかだなと思っています。日々「おう!」と思った現象に出会ったらスマホで撮影して記録しておく「おう」という名前のフォルダがあります。例えば、この作品づくりの休憩時間中に積み重ねて遊んでいた材木と石の動きが面白かったから撮った動画とか、「この光の当たり方は素敵だなぁ」と思ったら写真を撮っています。藝大のクラスの友人と居る時も、いい現象を見つけると「これ私が最初に見つけた!」と取り合いになることも(笑)。このフォルダの中から、卒業制作が終わったらこれを作りたいなというアイディアはいくつかありますね。次は「あ、この現象おもしろい。きれい。」という個人的なワクワクを作品につなげられたらと思っています。
実際に「おう」フォルダに入っていた動画
―作品をつくる中で楽しかったり、ワクワクするのはどんな時ですか?
作品の題材となる要素と要素が、ピンっとつながったときですね。今回の作品でいうと“凧”、“葉山”、“循環”、“空と地面の関係性”などの要素があります。例えば葉山の町の歴史や地形だったり、和凧の役割・機能など。最終的には作品には表れない部分がほとんどなのですが、要素の背景は徹底的に調べていきます。集まった膨大な情報から、自分が表現したいことに結びつけて編集していくという作業はとても時間はかかりますが、ここだ!と、うまくつながったときは嬉しいですね。元から用意されていた情報の中に私が入って、今まで出会ったことのないもの同士を繋げて、新しい線を引いていくような作業です。
■小河原さんはなぜこの大学に。そして、今後どのような活動をしていきたいか
―なぜ東京藝術大学(藝大)のデザイン科に進もうと思ったのですか?
昔から、絵やイラストを描くのは好きでした。大学の進路選択の時に、文系も理系もやりたいことがなかったので、美術選択コースへ。その時、高校の美術の先生が藝大の絵画科日本画専攻出身で、一緒にデッサンの朝練につきあってくれたりして。その恩師の存在は大きかったです。
―大学を卒業後は、どのような活動をしたいですか?
藝大の大学院に進学したいと思っています。もともと自分のことを、器用貧乏だなと思っていたのですが、最近ようやく作品をつくっていく上での思考のプロセスを掴めてきたような気がしています。
けれど、まずは目の前の物を真摯に観察すること。そして例えばそれを、真上から見たらどうなのか、しゃがんで見たらどうなのか、どういう角度で切ったら見たことのない断面が見えてくるのか。私自身が実際に動き回ってその対象と向き合うことを、しっかり地に足をつけてやっていきたいです。その上で、見る人の感覚に訴えるものをつくっていきたい。頭で理解できるだけじゃなくて、ちゃんと物質が持っている震えみたいなものを大事にしていきたいです。
■インタビューを終えて
今後どんな人になりたいですか?と尋ねたところ、「いいデザイナーになりたいですね」と笑顔を見せてくれました。事実を美化せずに受け入れて、まっすぐに向き合う小河原さんなら、これからも心あたたまる素敵な作品を生み出してくれるのでしょう。大学院に進学したら、葉山を離れて一人暮らしをしようかと考えているそう。葉山に育てられ、葉山を巣立ってゆく小河原さんが祈りを込めた作品。ぜひ、作品を観に卒展へ足を運んでみてください。
小河原さんの他の作品が見られるインスタグラムはこちら:@miiiinyami
取材:小屋迫 もえ、中嶋 厚樹、草島 一斗(アート・コミュニケータ「とびラー」)
執筆:小屋迫 もえ (こやさこ もえ)
アートを通して、新たな発見・わくわくが生まれる瞬間をたくさん生み出したいと思いながらとびラー活動をしています。インタビューを通して、作品づくりへの向き合い方、普段から自分の中に起こった小さな気づきを大事にしている姿に感銘を受けました。
2022.01.23
快晴の青空が広がる2021年12月23日、東京藝術大学取手校地を訪問。食堂に設置されたギャラリーに工芸科 陶芸専攻 修士2年 萩原睦さんのガラス作品は置かれていた。その大きさ、美しさ、清逸さに、私たちとびラー3名はインタビューアーとしての役割も暫し忘れてただ見とれていた。
底辺部は深い青紫から群青色へと変化し、少し視線を上にあげるとピンクとオレンジの混ざりあったあたたかい色に引き寄せられる。空一面の表情のようでもあり、水が揺らめいているような風景にも見える。作品中央部には金色に輝く三日月と金星が浮かび、上層部は薄水色や乳白色のグラデーションの空がどこまでも広がっていくようだ。
さらに「うつわ」の外側と内側では、光の入り具合で表情が異なる。どこを切り取ってもその風景に吸い込まれていくかのような感覚。このなかに身体ごと入ったら、どんな景色が広がるのだろうか。
《16:23》ー 萩原睦
はじまりとおわりのはざまで
わたしたちは時を歩む
透き通った優しい風が
水平線から海を渡って
髪の隙間を通りすぎ
世界の影を取り払いながら
そこら中を透明に満たしていく
記憶の底の重たい影も
こぼれ落ちた溜息と共に
空に向かって溶けていった
三日月の背中に意識を巡らせ
小石の歴史に思いを馳せる
ポケットの中の小枝さえ
光に透かすと透明だった
気づけば金星が瞬いている
空はオーロラの欠片を身に纏い
これから続く夜へのはじまりへと
足音を立てずに向かうのだ
世界に影が満ちるとき
ひとすじ流れた星の光を
そっと両手ですくいとり
再び地球に舞い戻ろう
はじまりとおわりのはざまで
わたしたちは時を歩む
確かにこの光を手渡すために
ー 思わず覗き込みたくなる作品です。空みたいな色にみえました。
《16:23》というタイトルなのですが、大好きな季節である「冬」の空に感動した時の景色です。地平線まで見える建物の屋上でこの写真を撮りました。撮った時の気持ちや感じたことをメモしておいて、それを詩にしています。ガラスと写真と言葉という3つをあわせて表現しました。「うつわ」の形をしていて、中に入ったらその時の空の下にいるイメージです。
ー 3つで1つの作品なのですか?
はい。ずっとガラスの表現を追求していたところに、写真や言葉を足すというアドバイスを先生からいただいて…大学院になってから始めました。写真は自分の見たものをそのまま写せるものですが、言葉はそれを読んだときに視覚以外の感覚を想像してもらえるものだと思います。これらをガラスという素材に立体的に表したときにどうなるのか。3つのバランスがうまく揃ってこの情景が浮かぶといいなと思っています。
写真は日々、記録として撮っていました。言葉については…大学院に入ってから、考えをエッセイや文章にする授業がありました。そこで、言葉や写真も記録でなく表現として扱ったらどうかというアドバイスをいただき、実際にやってみるととても大きな反応がありました。見た人に、より深く世界観を感じてもらえたのです。それがとても面白くて、手の中に納まるような小さな「うつわ」の作品にも全部言葉と写真をつけています。
ー 作品を最初につくり始めるのはどこからですか?
日々過ごす中で感動した景色や光を写真で記録しています。フィルムカメラを使っているので、時間が経って現像から戻ってきた写真を見て、どの瞬間を作品にするのか決めています。言葉は景色をみた瞬間に浮かんできてメモする場合もありますし、写真を見て改めて書くこともあります。言葉より先にガラス制作に入ることもあります。
ー 写真とガラス作品を見比べると、忠実に写真の景色を写し取っているようで、そうでないところもあるようにみえます。
ガラスの色は絵の具のように多様な色ができ、ガラスの粉の割合を調整しながら混ぜて作ります。すべての色を実際に作って試したのですが焼成温度や時間によって色が変わってしまい、思っていたのと違う部分があります。また表現として再現したい色を出しているところもあります。この作品の下の部分の青い色は写真よりも青を強くして地球の影の色を表しています。ガラス作品でより記憶に近づけたいと思って制作しています。
ー 作品づくりにどのくらいの時間がかかるのですか?
この作品は、9月中頃から作り始めて12月中頃まで、3か月くらいかかりました。
60kgの大きな作品なので、石膏の型にガラスを詰めて窯に入れてから2週間の焼成、出してから磨くのに1週間かかりました。窯は鋳金用の大きなものを借りてつくりました。
ー 今回の作品はとても大きなものですが「うつわ」の形をしていますね。「うつわ」という形にしたのはなぜですか?
いつか1回は大きなものを作ってみたいという思いはありました。同時に「使うものをつくりたい」という思いもずっとあります。特に大学院に入ってからは実用性と自分のコンセプトを両立させたいと思ってきました。「うつわ」は手に取ってすぐに触れられる、身近なものです。使うものとして手に取るときに同時に想いを感じてもらえて、生きる希望になるような…例えば「うつわ」をみて景色を思い出して勇気づけられるとか、日常にそんな想いのこもった美術作品を置いてほしいと思って「うつわ」をつくってきました。
「うつわ」の形には“使うための形”という側面のほかに “空間を切り取るもの”あるいは“外と中の境界線をつくるもの”という側面があります。修了制作の作品では“使うもの”というよりも、“空間を切り取って内包する”という「うつわ」の性質に重点を置いて空の時間を切り取りました。空は人間が及ばない大きなものなので、空から受けた大きな感動を表せる、できる限り大きなサイズでつくりたいと思いました。切り取って内包した空間を感じてもらうために、ぜひ覗き込んで外と中のそれぞれの色のグラデーションを見てもらいたいです。今回はそのコンセプトに「うつわ」の形がぴったり合ったと思います。
ー 萩原さんの記憶のなかの風景、心象風景で思い起こされるのは何ですか?
自然の景色とか、海・山・川など自然の景色にとても惹かれます。日常生活の中でもコップを通る光や、自然光、とくに光に目が行きます。小さい時から家族と一緒に長野や北海道で夏休みや冬休みを過ごしていたので、そこで見た山の景色や自然がいつのまにか自分の中に染みこんでいたのかもしれません。自然に触れると懐かしさや安らぎを覚えます。
夏、早起きして散歩に行ったときに見た緑の美しさや、冬、雪が輝く風景など、都会では見られない景色に触れたこと、それらが蓄積され感動の種となって自分の中に残っています。時間を経た今、その種にひっかかるものがあり、改めて感動しています。長野や北海道の美しい風景、木漏れ日などのきらめく光が自分のなかにあるのだと思います。
ー 美大に進むのにご家族の影響はありましたか?
中学までは音楽に興味があり、小学2年生から中学2年生までは合唱をやっていました。合唱に通わせてくれた家族にとても感謝しています。中学2年で合唱を辞めてこれから何をしようかと考えていた時、女子美術大学(以下、女子美)の夏休み体験クラスに参加しました。とても楽しく、そこから一気に美術への道に入っていきました。デッサンを学び始めたのも遅かったのですが、そこから女子美の付属高校に進学しました。
長野や北海道での体験もそうですが、家族から様々なことを教えてもらいました。植物の名前、星の名前・・質問したら全て答えてくれるような家族でした。知識だけでなく、実際の体験も大切にしてくれて、学校の行事以外でも家族でキャンプに行き、実際に火を起こすところから飯盒炊飯を体験したり、夜空の星を眺めながら、あれは白鳥座のベガ、あれはアルタイルと教えてもらったりしました。そういった環境で育ててくれたことを感謝しています。
ー 最初は陶芸からスタートされたのですか?
高校卒業後は女子美の工芸科に入学し、1年目に陶芸・ガラス・染色・刺繍・織りの全てをひと通り履修しました。2年生になり、陶芸とガラスのコースかテキスタイル(染色・刺繍・織り)のどちらかを選択するにあたって、染めとガラス両方がとても好きで迷いましたが、その時に強く惹かれた陶芸とガラスを選びました。
ー 女子美から藝大に進学した理由は?
藝大の大学院へ進学するとキャンパスが取手になるため、一人暮らしも含めて環境を変えてみたかったというのが大きな理由です。最初はホームシックにかかり辛い期間も長かったのですが、今は制作を含めて自分だけのことに使える時間が増え、集中できています。考えの幅も広がったと感じています。
ー ガラスの魅力は?
ガラスの魅力は、その透明性 ― 光が透過する素材だからです。光に魅せられています。写真もポジとネガで光を写し取るメディアです。パート・ド・ヴェール(ガラスの粉末を型の中で熔融して成型するガラス工芸の技法 )の作品も一見不透明に見えますが、光が透過するのでいろんな角度から見ると色合いが変わります。
ー ご自身とってガラスとは?
今はガラスのことしか考えていないです。生活のすべてといっていいかも。ガラスの制作が出来ていることがとても幸せです。学部時代、教育実習に行っている間は、制作から離れる時間があって、その時は「ガラスに触りたい、ガラスを作りたい」と、ガラスのことばかり考えていました。ガラスがなくなったらぽっかり穴があいた感じでしょうね。生活どころか自分の一部になっています。今とても幸せな環境にいます。
ー これから、どんな作品をつくっていきますか?
今後も「うつわ」という形は継続して作っていきたいと思います。テーマは引き続き、記憶や自然、日々感じている光がモチーフになってくるのかなと。そこに、写真や言葉・詩以外の、音楽や映像など違う素材や媒体も組み合わせてみたいです。陶芸も好きなので是非挑戦してみたいと思いますが、釉薬はとても深い世界でのめり込んでしまいそう。まずはガラスを納得いくまで突き詰めたいです。
女子美時代も、そして藝大生の今も、周りから受けた影響は大きいです。周りの人のおかげで今の自分があります。先生や先輩のガラス作家さんから教わった技術がすべて。お返しできる作品をつくっていきたいです。
― インタビューを終えて
ギャラリーでの作品紹介から、工房に移って窯や機材、吹きガラスや削りの作業の説明、さらに食堂に戻っての長時間にわたるインタビューに、一つ一つ言葉を選びながら、答えてくれた萩原さん。私たちに正確に伝わっているか確認する度に、言葉をとても大切にされている姿勢を感じた。夏は炉の熱で40度以上になる工房。今回の作品制作では、冬の寒風ふきすさぶ中で1週間以上水をつかって磨いたとのこと。どの過程も時間と手間がかかる作業で、過酷な環境のなかから作品が生まれてくることを知った。萩原さんのはにかんだ表情の中に、謙虚でありながら自分の好きなものを追求していく真摯さと強さを感じた。光の透け具合で表情が変わる 《16:23》 は、『卒業・修了作品展』期間中(2022年1月28日 – 2022年2月2日)、東京藝術大学 大学美術館の地下2階に展示される予定であり、是非その目でみてほしい。
関連リンク:
■インスタグラム
https://www.instagram.com/mutsumi_hagiwara
■ホームページ
https://mutsumihagiwara.wixsite.com/-site
(インタビュー・文・とびラー)
取材: 卯野右子、河野さやか、豊吉真吾
執筆: 卯野右子、河野さやか 編集:豊吉真吾
とびラー8期、3年目の最後のインタビューで、こんな素敵な作品と作家さんに出遭えるとは!「うつわ」も「ガラス」も、そして「写真」も「詩」も大好きなので、忘れられないインタビューとなりました。同期3人で取手校地を訪れ、藝大食堂でチキンカツを食べたのもよい思い出になりました。(卯野)
昔からガラス工芸が大好きなので、そばで作品をみて、作家の想いとそれを形にするプロセスについて詳しく伺うことができ、とても幸せなインタビュータイムでした。生き生きとお話をしてくださって、これからどんな活動をされるのだろうかとワクワクしました。今後も注目しています。(河野)
2022.01.23
都心よりいく分か気温が低く、澄んでキリリとした空気の東京藝術大学取手キャンパス。ドキドキしながら向かうとびラー3人を、中川麻央さんがパフォーマンスに使う機材を念入りに準備しながら待っていてくれました。美術学部専門教育棟内、2体の彫像の置かれた吹き抜けの大空間には3台のモニターが置かれています。インタビューの前に、修了制作のパフォーマンス作品の一部を見せてもらいました。
まず二体の彫像の間に身体を置く中川さん。身体の一部が映されたモニターの裏側で、しなやかな動きで身体を動かします。やがて、モニターを持ちながら彫像前を離れ、中央棟内のエレベーターや、階段付近へと身体を進めていきます。学生や先生方が行き交う専門教育棟内が、中川さんのパフォーマンススペースへと変わっていきました。
―「変容する身体」
作品のコンセプトは「変容する身体性」です。私の表現のバックグラウンドにはダンスがあるで、常に身体(からだ)に耳を傾けるという行為が主軸になっています。その行為は、作品を作ることだけでなく、生活の中でも影響があります。環境が変わると無意識でも自分の身体に反応が出てきて、そこが身体の面白い部分だな、と思っています。みなさんも同じように身体を持っていますが、個人個人で全然違う。環境が変われば、質や存在感も変わります。身体の状態や様子は、毎日違います。2年前の自分の身体と、今の自分の身体とでも違う。自分の身体に耳を傾けていくと自然と変わってきているのが分かって“身体”への興味は尽きません。
―物質としての身体
身体は、すごく流動的でありながら確立した物質である、という面でも面白いな、と思っています。映像の中に、身体のある部位をすごくズームインしたり、逆にフォーカスがぼけているシーンを入れています。それをすることによって、身体の一部だという認識が曖昧になり、すごく物質的に、オブジェクトになってくることを表現しています。また、映像の中にある物質的に見える身体と、実際に私が動いている身体の対比をパフォーマンス全体で表現しています。
―オブジェクト(モノ)と身体の存在感
今回のパフォーマンスでは、人形浄瑠璃の主遣いの方の身体の使い方をヒントに、アプローチしています。伝統芸能の人形浄瑠璃の人形遣いで、「主遣い」という、姿が見えたまま人形を遣う方の身体の存在にずっと興味があります。実際には見えているのに、鑑賞していると人形に意識が集中して、主遣いの姿が見えなくなっているように感じる。人形(モノ)の存在感と主遣いの存在感の関係性が変わってくる。そういう身体の存在のさせ方が気になっています。モノと人が存在する場合、どうしても「人がモノを使う」という主従関係になりがちです。それに対して、モノの存在感と身体の存在感の主従関係を曖昧にする、もしくは同等になるような身体のアプローチのさせ方、それによって見え方が変わる、ということにすごく興味があります。
―コロナの影響は?
私の中での作品作りは、パフォーマンスする空間に観る方が一緒にいて、その時間を一緒に体験してもらうというのが基盤にありました。パンデミックという状況に陥って、自分の創作や、パフォーマンスの仕方など、大切だと思っていたことを一から見直して、向き合う機会になりました。人と距離をとって、人の波動を感じられない時間を過ごしたことは、やはり身体の中に記憶として残っていると思います。身体が覚えている。自転車は象徴的で、どうやって乗るか身体が覚えていて、全然乗ってなかった期間があっても乗ってみたらやっぱり乗れる。身体自体が記憶をとどめているコンテナみたいな印象ですね。コロナ渦の経験は、この先何かを表現するのに、無かったことにはできないだろうな、と思います。コミュニケーションがリモートでスクリーン越しになる中で、相手の身体と相手の発している言葉がなんだか噛み合わずバラバラだった印象や、スクリーンに映っている自分の身体と今ここに存在している身体が繋がっていないという違和感など、身体に対する認識の試みをパフォーマンスの中でアプローチしています。
―パブリックな場でのパフォーマンス
以前はシアターでパフォーマンスすることが多かったのですが、今は、パブリックスペースに自分の身体をおいて何かを表現する、ということにすごく魅力を感じています。シアターでは観客との間にどうしても壊せない隔たりがあって、物理的な距離と心理的な距離がどうしても埋められなかったんです。それで人々が行き交うようなパブリックスペースで試しています。私がパフォーマンスをしたことによってパブリックスペースの日常的な時間や空間が壊れる、という関係性や、見ていただく方にどうやって/どこから見ていただくかという選択肢があるということも私の中では大きいです。
―パフォーマンスとは
私はパフォーマンスの身体の動きだけがコレオグラフィー(振り付け)だとは思っていません。身体に関わっている空間全体、モノとの関係性、その空間に身体を置くことで何が起こるのかということ、全て含めてコレオグラフィーだと思っています。パフォーマンスは、時間の流れをベースにした芸術、表現方法だと思いますが、音、時間、光、身体、匂い、空気感など、いろんな要素が詰まって出来上がっている総合芸術だと感じます。その魅力として、その時に起こったことを、その実感する瞬間に体験する、ということがあると思います。
―パフォーマンスの途中で中川さんの手のあたりにちょうど光が落ちてきて、とても美しくて、「光」というものを今ここで感じて改めて意識する、というような体験をしました
そうですね。そういう具現性も、パフォーマンスではとても大切になってくると思います。ただ、スクリーン越しには中々お伝えできない部分だな、というのを痛感してもいます。パフォーマンスをしている私自身も、自分の身体と空間の間でその時その時に起きていることをリアルタイムで判断して、反応していく。耳を傾けて、それを汲み取ったり汲み取らなかったり、選択しています。私は、物事を理解して体験する、ということに関して時間を要する人間で、自分が今何を体験して動いているのか、ということにも時間がかかります。ただ、それをちゃんと聞いて、耳を傾けて動いているのとそれを聞かずに動くのでは、出てくる動きや質感が全然変わってきます。私は身体と空間の間で起きていることを、感じながら動きたい。それによって伝わることがあると信じています。
ー日常の動きとパフォーマンス
身体の構造自体にすごく興味があるんです。外側がどう綺麗に動いているか、というよりは、身体の構造が動きにどう影響しているか、ひねりの構造はどうなっているのか、ということに興味があります。身体は皮膚一枚で繋がっているので、ある部分をひねったら違う部分に影響が出ていたりとか、どこかの一部が動くと連動してどこかが動いたりして、本当に面白いです。パフォーマンスの中の動きは、普段何かしていて身体の反応、動きがおかしいな、といったような、日常生活の中で体験した、感覚的なものから派生して出てくる動きなので、日常とパフォーマンス制作をしている時の自分の身体とは繋がっているな、という実感はあります。
ーオランダから藝大へ、そしてその後は…
私は幼少期ものすごい人見知りの子どもだったんです。心配した両親が、人前で何かできるような手段として、クラシックバレエを習わせてくれました。身体を使って表現する楽しさもありますが、いろんな人と関わって何かを作っていくという魅力に取り憑かれてここまできている感じです。
オランダには振り付けの勉強をしに行っていました。アムステルダムに住んでいましたが、本当にコスモポリタンな都市で、あなたはあなた、あなたらしく、というのが自然に身についている。そういう雰囲気が、「許容範囲が広い」という感じの印象を受けました。
ヨーロッパでは、ヴィジュアルアートの方がパフォーマンスやダンスの方へ作品の傾向が移っていったり、ダンスの方がビジュアルアート的な要素でパフォーマンスを作ったり、というのが最近10年くらいすごく活発に入り混じっていて、私もすごく共感しました。アートの境界っていらないんじゃない?というような。GAPがまさに境界がなく、そういう意味でグローバル。いろんな国籍、いろんなジャンルの人がいて、そんな中で自分のアーティスティックな部分をより深めたりするような環境がすごく魅力的に感じたのでGAPに進むことにしました。
今まで属していたのがシアター、演劇というジャンルだったので、藝大に来て、GAPでの環境はすごく新鮮で、刺激的でした。オランダの時よりもっと色が濃い感じです。卒業後はまだ具体的な予定は何もないんですが、「身体表現に関わること」で、私が今まで経験してきたことを何かしらの形でシェアするということをできたら、ということは考えています。
ー身体表現を続けているのは?
パフォーマンスはすごく抽象的なものだと思います。その分、いろんな理解の仕方、見方ができるのがすごく魅力的だな、と思っています。パフォーマンスを見て、その方の経験を通して自由に解釈していただく、それが私はすごくうれしい。
作品を見せることで伝わる、理解していただけるという経験をたくさんして、それが心に強く残っています。国籍や文化背景に関係なく、身体表現を通してコミュニケーションできる、人と「何かしら繋がれた」という経験ができる喜びが私を身体表現に向かわせているんだと思います。
ーインタビューを終えて
現地で実際に観るパフォーマンスは本当に素晴らしかった!こちらまで身体の感覚が研ぎ澄まされるような感覚がありました。やはりこの体験は、現地で観ないと体感できないと思います。中川さんのパフォーマンスは、東京藝術大学 上野キャンパス 美術学部中央棟1Fロビーにて、展示期間中毎日14:00〜15:00に実施される予定です。ぜひご覧ください!インタビュー前、パフォーマンス作品はちょっと難しそうだなと思っていましたが、パフォーマンスを観た上でお話を聞いて、私たち誰もが持つ身体をメディアとした表現、という視点を得て、なんだか親近感を感じることができました。
■中川麻央さんHP
https://maonakagawa.tumblr.com/
■中川麻央さんインスタグラム
https://www.instagram.com/__mao.nakagawa__/
取材:梅浩歌、門田温子、滝沢智恵子
執筆:梅浩歌
とびラー2年目、3才になる息子を通して世界と出会い直し中。とびらプロジェクトでの素敵な出会い、体感を伴う学びに感謝しつつ、それを還元していけたらと思っています。まずこの藝大生インタビューでの興奮・感動をお伝えしたい!(梅)
2022.01.19
「実は、コロナが流行り出した年(2020年度)に、一年間の休学をしていました。
その間に、本を200冊くらい読んだんです。一番影響を受けたのは、フリードリヒ・ニーチェ。自分の「身体」というものは、どれだけ社会が変わろうといつも確かな出発点なんだ、と気付きました。
そこから、もう一度建築を考えてみようと思いました。」
柔らかく、言葉を、想いを、丁寧に紡ぐ伊藤健さん。その修了制作に迫ります。
「今欲しいものは、コーヒーミル!」と微笑む、伊藤さん。「日常行為の中の儀式的な時間が好きなんです。コーヒーミルを回して、ぼーっとする。そんな五感で楽しめる時間っていいですよね。」
「生まれは、サーキットで有名な鈴鹿です。昔は、世界一速いF1のエンジンを作りたかった。
でも、小説やSFが好きな自分もいた。好きなことを両方できる分野ってないかな……そう考えていたときに出会ったのが、建築でした。」
伊藤さん曰く、建築とは《工学的なものとポエティックなものが融合しているジャンル》なのだとか。
学部生時代は京都大学工学部・建築学科で学び、東京藝術大学・大学院美術研究科建築専攻に進学。
その集大成となる、修了制作では『強調譚(きょうちょうたん)』をテーマに、その実践として、「歪形集合住宅(デフォルマンション)」という建築物を構想・設計し、制作されています。
はじめに、伊藤さんが修了制作のテーマ『強調譚』に辿りつくまでのプロセスを伺いました。
取材日は、修了制作講評の翌日。中央には大きな作品模型と資料、そして壁一面に図面が張り巡らされていた。
◼重なり合った思索から紡がれる、『強調譚』
きっかけは、「視る」という“行為”に特化した深海生物
「東京に来て1年目は、何をやってもうまくいきませんでした。休学していた2年目は、やりたいこととか、これからの人生とか……生き方を含めて悩んでいたんです。」
休学期間中の伊藤さんは、「人間とは何か、生きるとは何か」と問いを重ねていたといいます。
「古典哲学、社会学、生物学など——さまざまなジャンルの本からインプットを重ねる中で、奇妙な深海生物と出会いました。」
「この生物は、ギガントキプリス – Gigantocypris agassizii。
こいつが泳いでいる映像を見て、すごく興味を抱きました。どうしてこんなにも「歪」で不格好なのに、過酷な自然界で生きていけるんだろう、と。それと同時に、この生物に対して、ある種の憧れや共感を覚えている自分がいたんです。」
—— ギガントキプリスは、体長3cmほどのウミホタル科の深海生物。身体のほとんどが目でできており、人間の8倍ほどの集光能力をもつ。泳ぐ姿は、とてもキュート。
「彼らは、ひたすらに「視る」ことに特化して、身体を強調しています。その代わりに、多くのものを失いました。「視る」ためには最適化されているけれど、ひどく不器用で歪な姿をしています。」
しかし、伊藤さんは「歪でも、何かに特化して生きられたら、すごく幸せなんじゃないだろうか」と考えました。そこで、建築を学ぶ中で身に付けた、図面化することで、彼らの“身体”の特徴を紐解くことに。
「図面にしていくと、《強調された生物は、“身体”と“行為”の距離がとても近い》ということがわかってきたんです。」
生物における、身体の強調と行為の意味とは?
求愛行動に用いる大きな手、己を誇示するための巨大な眼——
「試しに他の生物も図面化してみたところ、ギガントキプリスと同じような特徴が確認できました。」
—— “行為”と“身体”の関係を調べるために、生物の強調を図面化した。
“身体”を強調することで、何らかの“行為”を手に入れた生物たち……その姿をつまびらかにするなかで、伊藤さんの関心は、「人間の強調」へと移っていきます。
「人間の進化を調べたところ、およそ3.5万年前を境に、“身体”の大きな構造上の変化は止まった、ということがいえます。
しかし同時に、この頃から道具すなわち“建築”が大きく多様化しているということも、わかりました。」
「歪なかたちの生物は、“身体”のかたちを変えて強調したけれど、人間は第二の身体である“建築”を変化させることで、強調しているのではないか」と、伊藤さんは考えます。
—— 多様化する建物の変遷は、生物の強調した身体のようだ。人間の場合、身体のかたちは変わらないけれど、外縁化された身体(建物・道具など)が進化しているという。
さらに、人間の“行為”についても調べていったとのこと。
「“身体”は進化しましたが、“行為”の数はどんどん減っていますよね。
例えば、昔は『洗濯』をするために、川に行く・洗濯板で擦る・叩くなど、いろいろな動きをしていた。けれど、いまでは放り込んでピッ!で終わりです。そこで僕は、人間にとっての、“行為”とは一体どのような意味を持つんだろうと考えるようになりました。」
伊藤さんが特に注目したのは、古から連綿と続く『儀式』という“行為”。
「哲学者のウィトゲンシュタインは、あらゆる人間を “儀式的動物”であると定義します。
なぜなら、あらゆる時代に人間は『儀式』をおこない、同時に文化そのものを形成するのもまた、
『儀式』であるからです。
そこから、『儀式』の持つ2つの属性——共同体としての連帯感を生む『横のつながり』と、法悦を生む『縦のつながり』こそが、人間の失いかけている “行為”の意味につながっているのではないか、と考えました。」
伊藤さんは、その一例として『入浴』という“行為”について語ります。
「人は入浴という“行為”を通して、身体の感覚が鮮明になる感覚を味わいます。
それは、儀式における法悦の感覚に似ている……そこで、入浴という“行為”を強調してみよう、と考えました。その強調した“行為”のことを、僕は『擬儀式』と呼んでいます。」
—— コロナ禍で「お風呂に入りたくて入っているのか、それとも入らなければならないから入っているのかがわからなくなった」という伊藤さん。そのことを、「“行為”に消費されている感覚だった」と語っている。
こうした歪な生物から始まった膨大な思考のプロセスを経て、修了制作のテーマ『強調譚』が生み出されました。
◼️ 思索の結実として誕生した、『デフォルマンション』
強調された“行為”を、歪な集合住宅に
「人間は、“行為”に溢れた、いわば《行為の集合住宅》です。
その“行為”の一つを取り出して『強調』してみる——すると、人間とは何か、生きるとは何かということが、浮かび上がってくるのではないかと考えました。
人間にとって遠くなってしまった“行為”と“身体”の距離を近づけようとすること、それを一つの物語にすること——それが僕の修了制作のテーマ『強調譚』です。」
—— 『強調譚』構想資料より。
「生物の姿にのっとり、この家は『歪』であることを前提にしています。
その名も、マンションならぬ、『デフォルマンション(=歪形集合住宅)』。
住人は、それぞれが愛する“行為”を持っています。」
—— ネーミングは、フランス語のdéformationに由来。それぞれの部屋に住む住人は、書道家・茶道家のように、『〇〇家』と名付けられている。
「例えば、下の図面は『洗濯』が大好きな『洗濯家』の部屋。洗濯の中に含まれる“行為”を分解し、“現象”に左右される“行為”だけを強調しました。ここでは、「干す」ことが特化されています。
洗濯物がよく乾くように、左側の壁には風が通り抜けるための大きな空洞が、右側のベランダには洗濯物を干すベランダが。いわゆる生活空間は、真ん中の小部屋だけです。『洗濯家』は、「干す」ことを優先して、生活空間を手放してしまいました。その姿は、まるであの小さなギガントキプリスのようです。」
—— 風という“現象”を優先し、風洞実験装置のような形状をとった『洗濯家』の部屋。生活をするには、とても歪だ。
「今回、一般的な建築の設計とは異なる作り方をしました。“行為”のために必要な“現象”を軸に設計したんです。強調する生物たちと、同じ作り方ですね。
そこで、人間の一日を12個の“行為”に分解し、部屋としてまとめました。」
歪な『強調』が生む、豊かな『協調』
「この家の面白いところは、『強調』を寄せ集めた結果、『協調』が生まれたということです。」伊藤さんの言葉とともに、『デフォルマンション』の断面図を見ると、部屋の構造とともに、光や風などの“現象”のつながりを見ることができる。
壁を無くし、“行為”を支える“現象”でつなげた『デフォルマンション』。そこに住むと、人間は無意識に関わり合ってしまう——不思議な空間について、具体的に話を伺った。
——『デフォルマンション』の断面図。『洗濯家』の部屋で生まれた風は、タービンを回し、電力を生み出す。その電力を蓄電するための、おもりは『筋トレ家』の筋トレ道具に。『照明家』が電気をつけると、その重りが下り、水道のポンプが開く。すると『植物家』の部屋で、植物の水やりができる。そして、その水はろ過されて、『睡眠家』の部屋にあるプールの水へと落ちていく。
「世界は、人と人の関係性によってできています。この家も、それぞれの部屋の動きがつながって、関係性を生んでいるんです。光がさす、いい匂いがするなど……誰かのちょっとした動きが、家中に影響を起こすようになっています。」
—— 伊藤さんが一番住みたいのは、『照明家』の部屋。大きな電球が一つ、壁はスリット状に。その光は屋外に溢れ、『デフォルマンション』の常夜灯となっている。なお、これらの図面は、実際に建てられるように設計されている。
それぞれの強調された“行為”と、それを支える“現象”はつなががりあい、大きな円環を生み出す。
「住人はお互いのことを知りません。
性別も国籍もわからないけど、相手が生み出す“現象“からの影響で、何を愛しているかだけは知っている——風呂が好きな人がいるから、流れてくる蒸気によって、自分の部屋のカーテンが揺れる、というように。」
—— 右の図は設計の着想の発端となったもの。住人それぞれが愛している12個の“行為”の動きを分解し、そこで起きる“現象”のつながりを図式化したもの。これを建築物の設計に落とし込むと、左の断面図になる。
「ここで大事なことは、その人が何を愛しているのか、ということ。
お互いの愛する“行為”を前提としてつなががっていく——これって来るべき多様性の社会で、お互いの個性を激しく認め合っていく姿と似ていると思いませんか。」
歪な『強調』が、豊かな『協調』を育んでいく——とても素敵な未来が見えますね。
「実際に『デフォルマンション』を建てるとしたら、都会のビル街に。
ホテルのように、数日過ごしてもいいですね。日常に戻ったとき、一つ一つの日常の“行為”の意味を考えるようになるでしょう。一日住むだけで、人生が変わるかもしれません。」
—— 木漏れ日のような笑顔が印象的な伊藤さん。「藝大の仲間は、みんな秀でたところがあって、一緒にいて楽しくて、大好き。でも、歪なやつばかり。彼らと一緒に生きるためにも、デフォルマンションを作らなきゃと思いました。自分自身を肯定するための家でもあるんです。」
◼️これから
究極的には、意図せざる“現象”建築に向き合いたい
就職活動は、これから。
こういった作品や考え方に共感してくれるアトリエ事務所で修行したい!と考えているそう。
「こういう作品を評価してくれるという点が藝大の良さだと思います。面白いと言ってくれて、最後まで評価してくれる……幸せですね。そんな大学に、とても感謝しています。」
—— 「僕自身がcomplicatedなことを考えてしまうので、わかりやすく伝えることを意識しました」と語る伊藤さん。模型に図面、アニメーションを駆使して、説明をしてくれた。徹底的にろ過された思考から紡がれる言葉は、豊かで説得力がある。
そんな伊藤さんに、「これから作りたい建築は?」と聞いてみたところ興味深い答えが。
「今この瞬間に興味があるのは、『強調』の原理でできるもの。
ただ、一番作りたい空間は、沖縄の“御嶽(ウタキ)”のようなものです。そこには何もないんだけど、ただ“現象”がある……僕の中では究極の建築の姿です。」
—— 右下の画像が、沖縄にある“御嶽”。祈りのための儀式空間だ。人工的なものは何もない……自然があり、移ろいゆく“現象”があるだけ。『強調』について考え続けた伊藤さんは、「儀式という“行為”を『強調』する場合、何もない空間が一番という結論にたどり着いた」と語った。
「木陰にいると、風が吹いて気持ちがいいですよね。でも、木は人間を気持ち良くしてやろう!とは考えていません。そういう人を心地よくしてやろうとしたわけではないけれど、そよ風が吹くように心地よくなれる空間を作りたいです。」
これから伊藤さんが、どのような経験を積み、インプットを重ね、アウトプットに昇華していくのか ——『強調譚』の先にある物語、その未来がとても楽しみです。
◼️ 伊藤健さんWEBサイト https://it-itoken.tumblr.com/
取材:鹿子木孝子、林賢、大石麗奈(アート・コミュニケータ「とびラー」)
執筆:大石麗奈
『デフォルマンション』に住むなら『読書家』の部屋がいい、2年目とびラー。藝大生インタビューは、作家の思考の海を巡る旅——私の身体はひとつだけれど、相手の経験も、その思索の結実も、じっくりたっぷり味わえる。そんな追体験の価値を広めるべく、とびラボを立ち上げ、奮闘中!(大石)
2022.01.13
イチョウの葉がきれいに色づく11月29日、期待に胸を膨らませ東京藝術大学美術学部にある彫刻棟を訪ねたとびラー3人に、彫刻科 学部4年生 小島 樹さんがやさしく声をかけてきてくれた。
さっそく、
―これが卒業作品ですね。テーマや素材も含めて作品について教えてください。
「素材はすべて鉄です。テーマは、自分が彫刻科でありながら銅版画を作っていることと関係しています。銅版画は銅板の削った線の溝、凹版にインクを詰めて刷ると印刷物として出てきます。つまり、プラスとマイナスが逆転します。彫刻は複製するものであって、原型の立体物から型を取り、別の素材に置き換えます。作品のメインになるのは、銅版画は原版ではなく印刷物、彫刻は原型の方が作品と言われるものです。彫刻と版画は作品と型の扱いが逆転していて、そこが強くリンクしていると思います」
「この立体の作品に、水を含ませやわらくした楮(こうぞ)(※1)をかぶせます。その楮の水分によって鉄の作品が酸化した錆を版画に写しとる手法をとっています。写しとった版画をつなぎ合わせて立体と同じ大きさの版画を作ります。展示する際は、構造物を別に作ってフレームを立てて鉄製プレートの人体を上から吊り下げるイメージです。その前に紙の版画を広げて、二つ合わせて一つの作品にします」
※1…和紙の原料としても使われるクワ科の植物
(卒業制作のスケッチ 足の両脇にぶら下がるものは今回は制作しない)
小島さんのお話は、3人のとびラーの想像を超えるところから始まった。
人体のモデルは、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたウィトルウィウス的人体図にあるという。その人体図のアウトラインを立体にして、人体プロポーションを鉄で制作した。
―人体を上から鎖で吊り下げようという着想はどこから?
「大学に入って版画にすごく興味を持ちました。版画の海に飛び込むのか、それとも彫刻にまた引き戻されるのかという時期があって、その時最初に作ったのが、《バンジー オア ダイヴ》というタイトルの銅版画で、逆さまに飛び込む人物像でした。そのイメージがそのまま今回立体になったということです」
「着想は2次元的なイメージが先にあって、3cmの鉄板から、アセチレンガスと酸素で溶断する技法で鉄板を切って立体作品をつくります。フレームの立体模様も同じ技法です。今回は重いものを高い所から吊るすと見る人の恐怖心を煽る作品です。学生だからそれくらい挑戦的な作品を展示してもよいだろうと思いました。人体はどれくらいの大きさにするか、小さすぎても現実味がなくなってしまうし、大きすぎても把握できなくなってしまうので、結局人体をまず等身大に近いサイズにしました。それに合わせてフレームの大きさが決まってきます。」
小島さんは優しい語り口ながらも、制作への熱い情熱を感じさせ、私たちはさらに作品のサイズと重さに圧倒されてしまう。
フレームは溶断によって作られた細長い2枚のプレートを合わせ、断面的に見ると⊿の底辺のない形になる。そして、その立体からも版画を作るが、紙に透く前の楮(こうぞ)で彫刻から型を写し取ると(版画の)質量が増す感覚があるという。平面なのに質量があるという感覚は、版画と彫刻の両方に関心をもつ小島さんならではのものである。
―彫刻を表現手段としたきっかけは?
「受験時代はデザイン科でやろうとしていたんですが、性に合わなかった。ある時粘土に触ったらこれならやっていけると思った。粘土は感覚的で実感とともに作品が作られていくので、関係性がわかりやすい。大学に入ってからは、粘土は可塑性のある素材だけど、いつでも終われるけどいつまでも終われないところがあって責任が持てないと思った。石や木は後戻りできないが、金属なら思い通りにいかないことがあってもまた戻れる。金属を溶接して盛り付けて、また削ることができる。トライアンドエラーの距離感がすごく性に合っていました」
…彫刻棟の一室からしだいに作業音が大きく響いてきたため、3階のアトリエに行って続きの話を聞くことにした。
―卒業作品のタイトルは?
「タイトルは《アノードあるいはカソード》元々確かギリシア語で化学の世界で使われる言葉です。簡単に言うとプラスとマイナス。日本語では一応正極と負極という言葉があります。アノードあるいはカソードは、状況や置かれている場によってプラスとマイナスが逆転することがある。「場において逆転」するということが、自分の彫刻と版画にかなりリンクした言葉だと思います。彫刻でもあるし、(彫刻は版画の)原版でもあるし、版画でもあるし、(版画は彫刻のイメージの基となった)型でもある。状況、場において、プラスとマイナスを行ったり来たりする。それで《アノードあるいはカソード》にしています」
―逆転の着想は元々どんなところから?
「銅版画は、掘った溝にインクを詰めて自分の込めた力の裏側に印刷が出てきます。インクを詰めた溝が山となって、その山がぼくの中ではすごく彫刻的だなと思っています。逆転する着想はそこからですね」
―《アノードあるいはカソード》で見る人にどんなことを伝えたいですか?
「そもそもプリントされたもので量産されるものが版画ですが、ぼくは版画を再定義しなきゃいけないなと思っています。版画の技法を利用する人は多いけど、版画としか捉えていないところがあります。ぼくは、溝が山になっているのをこれは彫刻だと思いました。版画であり彫刻であるし、逆も言える。そこで、版画の領域が広がってくるんじゃないかと。このコンセプトは攻撃的なところがあり、かみ砕けていないところもありますが、簡単に言うと版画の領域を広げたい。版画と彫刻が侵食する部分、される部分がぼくの作品から見えてくるんじゃないかと思います」
―制作に当たり膨大な作業がありますが、アーティストとして一番楽しいところは?
「銅板はエッチングをやり、腐食液につけると線の部分が溝になるが、液に任せます。一度自分の手から離れて何かが起きる、出来上がりは摺ってみないとかわからない。現象にその先を見せてもらっている。彫刻にも同じようなことが言えて、鉄の溶断の時、トーチを手に持っている感覚だけなんです。ぼくと彫刻の間には空気の層があり、炎と風に任せて、その現象を利用させてもらっている。そういうところがかなり惹かれているところです。知覚しえない作業があることによって、飽きずにやっていられます」
鉄を切ったり、彫刻するには、「トーチ」という道具が使われる。アセチレンガスと酸素で炎を出して鉄を熱して、高圧の酸素で吹き飛ばす。その作業を続けると、遠赤外線がでるので結構体が焼けるという。
今回の制作は、今年6月から構想をまとめるのに取り掛かり、鉄板の切り出しを6月の終わりから始めた。朝の9時から夜の7時まで根気のいる作業だったという。
―参考にした作品や影響を受けたアーティストは?
「アメリカのジョナサン・ボロフスキーという板を寄せ集めて人体を作る作家がいますが、その辺から影響を受けていると思います。東京オペラシティの中庭に大きな像があります」
(小島さん 以前の作品を前にしながら)
―学部卒業後はどうされますか?
「彫刻科の大学院を受験します。今版画の工房も使わせてもらいつつ、彫刻科の制作をしています。院でも彫刻と版画のどっちもやってみたいので」
「鉄のイメージは、重くて固い。作品の表情はトーチから出た風が作った表情。本来なら風が鉄を削ることはほぼないが、そこに鉄のイメージの軟質化と自身の持つイメージの重量化がある」
小島さんは、これからも鉄をトーチで溶断する手法を続けていくことの可能性を感じている。
制作に当たり1.5トンの鉄材を30万円で購入したという。作品は総重量580kg、3.7mの大きさである。大型になってしまい、大学に相談して了承をようやくもらったという。
(トーチを手に持つ小島さん 左はアセチレンガスボンベ)
インタビューを終えて
鉄による彫刻とそこから取った版画の二つからなる作品が、1月28日から始まる「卒展」の会場にどんな風に展示され、どんなライトが当たるのか。「鉄の人体を吊るすインパクト、恐さで、来場者には興味を持ってもらいたい」と制作者としての望みを話してくれた。作品の完成と「卒展」の開催が今から楽しみでならない。
自らが目指す彫刻と版画の創造的な世界を真っすぐに進む小島さんの姿にはすがすがしさがあり、私たちはこれからも注目して応援していきたいと心から思いながら、藝大彫刻棟を後にした。
(左から2人目の小島さん、とびラー3人が作品のフレームの中で)
取材:森奈生美、吉水由美子、中村宗宏(アート・コミュニケータ「とびラー」)
執筆:中村宗宏
撮影:浅野ひかり(とびらプロジェクト アシスタント)
1年目10期とびラーです。今回のインタビューは、着想のイメージが立体作品となる制作過程や、現場のリアルな空気感を知る貴重な機会であり、版画と彫刻の逆転、侵食という発想がとても新鮮でした。鉄が持つ微妙なグラデーションも、実際に見て気づくことができました。今後、若い制作者によって彫刻と版画の新たなる領域が拓かれることを信じています。(中村)