秋の余韻を残したさわやかな風が吹き抜ける12月17日。取手駅から15分ほどバスに乗って行くと、広大な敷地に木々に囲まれるようにしてキャンパスが立っていました。
大学と地域の人々で飼育しているという2匹のヤギに出迎えられ、取手キャンパスのグローバルアートプラクティス(以下、GAP)スタジオに向かいました。
「こんにちは!ハンちゃんって呼んでください」と笑顔で手を振る藝大生が、今回の主人公です。
――これまでの経歴について教えてください。
藝大に入る前は、アメリカの美術大学で2つの専攻で卒業しました。1年生の時はイラストレーションを学んでいました。2年生の時にジュエリーデザインに出会い、金属の柔らかさや可鍛性※に魅力を感じて、ジュエリーデザインも専攻することにしました。私は、おばあちゃんの影響で元々手仕事が好きでした。おばあちゃんの家には織り機があって、服やソファーカバーを作ってくれていました。
――アメリカの美術大学を卒業後、なぜGAPを選ばれたのでしょう?
それまで中国とアメリカに住んでいたので、それらと違う文化や言語に触れてみたくて日本の大学を調べました。調べていく中で、鋳金専攻を修了されている藤原信幸先生を見つけ、藝大に興味を持ちました。中でもGAPは英語で授業が受けられますし、オンラインで面接ができたので受けてみようと思いました。
――実際に入ってみていかがですか?
GAPは “藝大のアイランド(孤島)” ですね。一般的な藝大生は、授業も会話も日本語ですし、藝祭やイベントに向けて活動をしていて、いわゆる“藝大生”という感じがします。
一方GAPは、専門も言語もバックグラウンドもばらばら。グラフィックデザインが専門の人もいれば、パフォーマンスアートが専門の人もいる。言語も、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語……と本当にいろんな人がいます。
――GAPの仲間同士でコミュニケーションをとることはありますか?
初めて会った時から距離が近く、コミュニケーションも活発で、冗談を言い合えるくらい仲良しです。それぞれ専門が違うので、互いに学ぶことも多くあります。
例えば、誰かの作品で金属が必要であれば私からアドバイスすることもできますし、逆に、私がグラフィックデザインや3Dモデリングについて知りたいと思えばみんなからもアドバイスがもらえます。先生以外からも学ぶことが多いところがいいですね。
私はGAPに入るまで、現代美術もインスタレーションも全くやったことがありませんでした。現代美術は強くて怖いイメージがあったのですが、先生や学生たちのアドバイスやコメントを聞いているうちに、どんどん慣れていきました。様々な分野との出会いがあったので、私もこれまでと異なる分野に挑戦したいと思いました。
――修了制作のテーマは何ですか?
作品のテーマは「私とおじいちゃんとおばあちゃんの記憶」です。これまでジュエリーを作り続けるなかで「ジュエリーとは何だろう?私にとって大切なジュエリーは何だろう?」と考えていました。問い続けた先に、26年間の人生で一番大切なジュエリーは「私とおじいちゃんとおばあちゃんの記憶だ」という答えに行きつきました。
この作品は、工芸でも、インスタレーションでもなければ、アートプロジェクトでもありません。どのカテゴリーにも属さない「記憶の相手と対話する」作品です。例えば、おじいちゃんの日記を見ながら「どんな気持ちで書いていたんだろう」と考えて自分なりにまとめたり、おじいちゃんとおばあちゃんの写真を見ながら「二人はどんな会話をしていたんだろう」と想像を巡らせてみたり。「記憶の具体的な相手」と対話できる作品を作りたくて制作しました。
――おじいちゃんとおばあちゃんとの記憶や思い出について教えてください。
私は、“隔世教育” 、つまり両親に育ててもらったわけでなく、おじいちゃんおばあちゃんに育ててもらいました。多くの時間をともにしてきたおじいちゃんが、ある時アルツハイマー型認知症を患い、日を追うごとに家族との記憶を忘れていきました。 家族の名前だけでなく、妻(ハンさんのおばあちゃん)のことさえ誰だかわからなくなり、一人で恐怖や不安を抱えていたのだと思います。おじいちゃんは家族のことを忘れまいと自分だけの「秘密の日記」を書いていました。日記の内容は、妻の名前や仕事のこと、孫の誕生日や学校のことなど。ひとつひとつ書き記していました。おじいちゃんは社交的な人ではなかったので、私たちのことを日記に書いているなんて思いもよりませんでした。日記に綴られた内容はとても基本的な情報ですが、これを読んで「おじいちゃんはたくさんの愛情を注いでくれていたのだ」と胸がいっぱいになりました。
大きな布(下の写真)に書かれている文字は、おじいちゃんの「秘密の日記」です。
――よく見ると、ところどころ文字の上が白く刺繍されていますね。
おじいちゃんが忘れてしまったことや名前に白い刺繍を施し、文字を消しています。私の名前も忘れてしまったので、おじいちゃんの書いた「高晗(ハン・ガオ)」の筆跡をなぞるように、一画一画刺繍で消していきました。
消された私の名前とつながっているたくさんのボタン(下の写真)は、おばあちゃんが長年持っていたものです。
――これはおばあちゃんのボタンだったのですね。ボタンにはどんな意味が込められているのでしょうか。
私のお父さんは、1966年文化大革命※が起こった年に生まれました。食べ物も日用品も手に入らず、非常に厳しい時代でした。
そうした中でおばあちゃんは家族の服からボタンをとって集め、新たな服に作り変えてくれました。(お父さんの)弟のボタンを妹の服に付けたり、私が幼い頃にはお父さんのボタンを私の服に付けてくれました。
だからボタンは「家族をつなぐジュエリー」なんです。おじいちゃんは、白い刺繍で消された言葉をすべて忘れてしまいましたが、おばあちゃんが家族みんなをボタンでつなげてくれています。
――おじいちゃんの日記。おばあちゃんのボタン。そして近くには趣のある机がありますね。机の上にあるのは家族写真ですか?
家族写真と言っても、これは「おじいちゃんの家族写真」です。中国にいる家族や親戚に電話をして集めました。
おじいちゃんとおばあちゃんの若い頃の写真や、おじいちゃんの兄弟の写真、おじいちゃんのお父さんの写真……。写真の中には私が一度も会ったことのない人もいますが、「おじいちゃんの目に映る家族はこんな感じ」というのを表現しています。私にとっての家族のイメージと、おじいちゃんにとっての家族のイメージが大きく違うことを感じます。
実際の展示では、この机の前に椅子を置いて観客に座ってもらい、机の上の家族写真や引き出しの中を自由に見てもらいます。
――「記憶」を大事なテーマとしているのですね。そこには何か背景があるのでしょうか?
私とおじいちゃんの間には、二人で共有していた記憶がたくさんありました。でも、アルツハイマーを患ったおじいちゃんはそのほとんどを忘れ、さらにその後、私が学部を卒業した日に亡くなりました。かつて、二人で共有していた記憶は、私だけのものになり「この記憶は確かなものなのだろうか」と疑問を抱きました。こうした経験から、「記憶」を大事なテーマとして、作品にすることにしました。
アルツハイマーでなくても、人は歳をとればだんだん忘れてしまいます。今回作品で使った古い写真なども、私が作品を作らなければ、捨てられて忘れ去られていたかもしれません。
――卒業後はどのような活動をしていく予定ですか?
日本で働きたいです。芸術家としてすぐに仕事をするのは難しいので、まずは日本で美術関係の仕事に就いてビザを取得して、その後は自分の作品を作っていきたいです。
――最後に、この作品を観にきた方へどんなことを伝えたいですか?
展示場所は上野キャンパスの図書館内にあるラーニングコモンズです。図書館は客観的な資料が収蔵されていますが、私の作品はとても個人的な資料です。そんなパブリックな図書館の真ん中に座って、個人の秘密や経験のアーカイブと向き合ってもらいます。
制作過程では、私と作品との間に、「おじいちゃんおばあちゃんの記憶とのコミュニケーション」がありましたが、実際の展示では、そこへ観客が入ります。
家族の記憶が並ぶ風景は、皆さんのものではないかもしれませんが、自分のおじいちゃんやおばあちゃん、自分の幼少期を思い起こしてもらえたらと思います。自分の家族でなくても、「こんな人もいるかも」とか「同じような風景があったな」とか、この作品が誰かの「記憶の”鍵”」になれば幸いです。
ハンさんのお話を伺い、写真や作品を見せていただいて、自分の家族や故郷のことを思い出しました。まさしくハンちゃんのいう「記憶の”鍵”」が開けられたような感じがします。ぜひ皆さんにも実際の展示をご覧いただきたいですね。
お話を聞かせていただきありがとうございました。
取材:小木曽陽子、林由美、荒井由理
執筆協力:林由美、荒井由理
執筆:小木曽陽子
撮影:平野みなの(とびらプロジェクト アシスタント)
小木曽陽子
気さくで親しみやすく、一見穏やかそうに見えるハンさん。しかし「家族の記憶」と真剣に向き合う姿からは、おじいちゃんおばあちゃんへの真っ直ぐな思いや芯の強さが伝わってきました。ハンさんの創り出す世界をぜひご堪能ください。
林由美
作品を見せていただきながらファミリーヒストリーを聞き、ハンさんとご家族の絆を強く感じました。ぜひラーニングコモンズで自分の記憶とじっくりと対峙するような体験をしてみたいです。
荒井由理
インタビューを通じ、作品はもちろん、ハンちゃんの人柄に魅了され、あっという間にファンになりました。まさに”知る”は、”好き”になる始めの一歩。このインタビューを読んだ方が一人でも多く、ラーニングコモンズに足を運んでくださったら嬉しいです。
2024.01.23