2022.11.20
ワークショップメイキング①「ミュージアムでのワークショップとは?」
日時|2022年10月30日(日)13:00~17:30
場所|オンライン
講師|小牟田悠介(東京藝術大学)
ワークショップメイキング②「企画を立てる」
日時|2022年11月20日(日)13:30~17:30
場所|東京藝術大学 第3・4講義室
講師|小牟田悠介(東京藝術大学)
藤岡勇人(東京都美術館)
ワークショップメイキング①は、建築実践講座と合同で行われました。
ワークショップメイキング②は、アクセス実践講座を選択したとびラーが改めてワークショップを考えます。
まずはこれまでの講座をふりかえりました。それから、先日行われた「ずっとび」のオレンジカフェについて、担当学芸員の藤岡さんや、参加したとびラーから当日の様子について聞きました。
次に、グループに別れて「65歳以上で東京都美術館に来れていない方」を対象にしたワークショップメイキングを行いました。机上で考えるだけではなく、実際に東京都美術館へ足を運びます。
講義室に戻り、実際に足を運んでみてからの内容を見直します。
他のグループの意見も交えながら、フィードバックを行いました。
(とびらプロジェクト コーディネータ 工藤阿貴)
2022.09.25
日時|2022年9月25日(日)13:30~16:30
場所|東京藝術大学 第一講義室
講師|村田 陽次 (東京都 生活文化スポーツ局 都民生活部 地域活動推進課)
石平 晃子 (NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワーク)
2022.09.03
日時|2022年9月3日(土)14:00~17:00
場所|オンライン
講師|藤岡勇人(東京都美術館学芸員)「ミュージアムで社会的処方を考えよう」
小川由美子(永寿総合病院 認知症疾患医療センター)「地域で暮らす認知症の人や
その家族を応援!認知症サポーター養成講座 ~認知症についての理解を深めよう
~」
2022.07.30
日時|2022年7月30日(日)13:30~15:30
場所|東京藝術大学 第一講義室
講師|西智弘(川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンター腫瘍内科/緩和ケア内科、一般社団法人プラスケア)
2020.12.13
第5回アクセス実践講座「ウィズコロナ時代の場づくり論」
日時|2020年12月13日(日)9:30~12:30
場所|zoom(オンライン)
講師|舘野泰一(立教大学 経営学部 准教授)
12月13日、第5回アクセス実践講座では、ワークショップ的な学びの場づくりについての講義を行いました。
講師は、立教大学の舘野泰一さんです。本年度で5回目となる舘野さんのワークショップ・メイキング講座。今年度は特に、オンラインでの場づくりやコミュニティ形成にフォーカスにした内容でお話を頂きました。
2020.08.30
第4回アクセス実践講座
テクノロジーで拓く社会参加の回路 〜分身ロボット「OriHime」の事例をもとに考える〜
日時|2020年8月30日(日)13:30~15:30
場所|zoom(オンライン)
2020.02.02
アクセス実践講座・第8回
「1年間をふりかえる座談会」
日時|2020年2月2日(日)13:30~16:00
場所|東京都美術館アートスタディルーム
2020年2月2日(日)は、東京藝術大学第68回卒業・修了作品展の最終日でした。都美公募棟展示室とギャラリーには、力のある若い作家たちの作品を目撃しようとたくさんの来場者が詰めかけています。今日は、7月から12月まで半年間にわたって行ってきたアクセス実践講座の最終回です。
午前中にとびラボミーティングを行っていたとびラーや、ミュージアム・トリップで養護施設のこどもたちと活動していたとびラー、そこに午後の講座から参加するとびラーが合流し、会場はさながらオールスタープレイヤーの準備室の雰囲気です。
ざっと1年間でどんなことが起こったか、振り返ることから始めていきました。
どんな講座が行われたかスライドで確認します。
1〜3回と7回目の講座では、現在の社会が直面する課題に対し、それぞれの方法、切り口で活動を推進している団体の方に講義を行っていただきました。人々がWell-being(健康で幸せなあり方)ではない状態を作りだしている「社会が抱える課題」とは何か。そのことへの理解の解像度を上げるとともに、それぞれの団体が行う活動の実際について知ることで、活動を社会の中に実装させていくイメージを具体的にしていきます。
後半4〜6回の講座では、プログラムメイキングについて体験型の講義が行われました。社会が抱える課題に阻まれて文化に接続できない状態、美術館に来ることが出来ない状況にある人々に美術館へのアクセスの回路となる「プログラム」はどのように作るのでしょうか。どんな人たちが、どんな状況の中で美術館に来館するのか、その人たちが美術館でどのように文化に接続し、孤立しない状態になってもらうのか、プログラムを創ることは、「ここからは見えないもの」への想像力を駆使し、「人々が文化に接続する体験」という実を作り出すことです。アクセス講座の後半では、そのためのプログラムメイキングの基本となる考え方をとびラーと共有しました。
講座は講義と実践のサンドイッチ構造になっています。
実践の場で、とびラーはプレイヤーとして来館者とアートの出会いに伴走することができます。
実践の場でどんなことがどんな気づきがあったのか、3人のとびラーの「語り」を聞きながら紐解いていきました。実践の場として設定されている「障害のある方のための特別鑑賞会」とMuseum Start あいうえの のダイバーシティ・プログラムに参加しているとびラーの中から、3人に公開インタビュー形式で話を聞きました。
【障害のある方のための特別鑑賞会】
東京都美術館特別展ごとに一回開催される鑑賞会。特別展休室日を利用して行われる。障害のある方とその介助者が招待される。毎回1000名程度の来館者をアートコミュニケータが迎える。
【ダイバーシティ・プログラム(Museum Start あいうえの)】
家庭等の状況によりミュージアムを利用しにくいこどもたちと、その保護者をミュージアムに招待するMuseum Start あいうえのプログラム。とびラーがこどもたちの活動に伴走する。
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7期とびラー:西原香さん
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6期とびラー:大谷聡子さん
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8期とびラー:森奈生美さん
3人のとびラーからは、普段美術館へのアクセスが難しい方々が美術館でどの様に過ごしたのか、とびラーとどんなコミュニケーションがあったのか、1つ1つの思い出として語られました。
講座や実践の場を経て生まれた一人一人の出来事や変化はごく個人的なものかもしれません。けれど8期目を迎えたとびらプロジェクトに参加したとびラー全員の変化や活動が集積すると、1つの文化が生まれてくるように思いました。そして美術館・文化施設を舞台にすべての人の権利として文化的体験を位置付けようと試行錯誤をしているとびらプロジェクトの活動は、実は同時代的に全世界で起こっている流れの中にあります。
2019年9月のICOM世界大会(世界中の博物館関係者が集まって行われた1週間の会議)で、新しい「博物館の定義」について議論がなされました。(採択は延期されています)
この新しい「博物館の定義」の案を参加したとびラー全員で読み、議論する時間を持ちました。
以下に新定義案の原文と稲庭彩和子さん(東京都美術館学芸員)の日本語訳を掲載します。
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原文
Museums are democratising, inclusive and polyphonic spaces for critical dialogue about the pasts and the futures. Acknowledging and addressing the conflicts and challenges of the present, they hold artefacts and specimens in trust for society, safeguard diverse memories for future generations and guarantee equal rights and equal access to heritage for all people.
Museums are not for profit. They are participatory and transparent, and work in active partnership with and for diverse communities to collect, preserve, research, interpret, exhibit, and enhance understandings of the world, aiming to contribute to human dignity and social justice, global equality and planetary wellbeing.
稲庭彩和子訳(意訳)
博物館は、社会的な排除をせず多様な人々を迎え入れ、さまざまな声に耳を傾ける、民主化をうながす空間である。そこは過去・現在・未来について、物事の前提や内容、判断が本当に正しいか、なぜそうなのかを多角的に検討し思考する対話のための場所である。博物館は、現在の利害関係の対立や課題を認め、それらに対処しつつ、社会から信託された遺物や標本を保管し、未来の世代のために多様な記憶を守る。また、そうしたものに対する平等な権利とアクセスをすべての人々に保証する。
博物館は、営利を目的としない。博物館は、参加性・透明性が高く開かれたもので、多様なコミュニティと積極的に連携・協力し、収集し、保管し、研究し、解説し、展示し、世界についての理解を高める。そうした活動は、人々の尊厳や社会的正義、全世界の平等と、地球全体の幸せな状態(ウェルビーイング)に貢献することを目指している。
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とびらプロジェクトが目指して、アート・コミュニケータが活動を行ってきたことが、まさに新しい定義の案として盛り込まれている内容に会場のとびラーたちの議論にも熱が入りました。
講座の中で、活動団体のお話を通して見えてきたのは、活動と社会が相互に関係し課題が取り払われていく様子でした。社会が抱える課題に対してまず市民の活動が起こります。その活動が法整備を促し、法の整備が行われることがさらに活動を後押しするという形で大きな流れとなり社会は変わっていきます。
一人一人のとびラーが講座や活動を通して芽吹かせた芽が、草原となり、森となってこの世界の景色を変えていく。そんな未来が見えるような講座最終回でした。
「講座という体をとった社会を変えるミーティング」。これは、講座の初回で伊藤達矢さんが言った言葉です。
今年度のミーティングは、これをもって一旦解散です。
(東京藝術大学美術学部 特任助手 越川さくら)
2019.12.01
アクセス実践講座・第7回
「ろう文化と手話」
日時|2019年12月1日(日)13:30~16:30
場所|東京都美術館アートスタディルーム
講師|斉藤道雄(明晴学園前理事長、ジャーナリスト)
本年度アクセス実践講座、最後の外部講師となる斉藤道雄さんをお迎えし、第7回を行いました。テーマは「ろう文化と手話」。まだあまり知られていない「ろう」の世界について、ジャーナリズムの視点からご講義をいただきました。講義は、斉藤さんが制作したいくつかのドキュメンタリー映像を観ながら進行されました。
とびらプロジェクトでは、2018年度から聴覚に障害のあるとびラーが活躍しています。本年度のアクセス実践講座の内容は「UDトーク」という音声を自動で認識し文字化するアプリケーションを使い、モニターを通して逐次テキストでとびラーに伝えられます。今回の講座の記録は、このUDトークが文字化したテキストを元に、一部を引用する形でお伝えします。テキスト量が多くなりますが、示唆に富んだお話の内容をできるだけ記録できればと思います。(お話の一部分だけを引用しています)
斉藤道雄さんについて
(UDトークのログより一部引用)
越川(とびらプロジェクトコーディネータ アクセス実践講座担当):今日の講師の先生をご紹介したいと思います。斉藤道雄さんです。私が、『手話を生きる』という斉藤道雄さんの本を読んですごく感銘を受けて、お話をぜひ聞きたいと思ってお呼びしたんですけれども、昨年度から、聴覚障害のあるとびラーをお迎えして、聞こえないってどういうことなんだろう。言葉が違うってどういうことなんだろう。手話ってなんだろう。そのことをずっと考えていた1年半でした。今日はろう文化と手話という題でですね、斉藤道雄さんにお話いただきます。斉藤道雄さんはジャーナリストでいらして、テレビの業界でろうの世界について取材をされる中で、ろうの学校をつくるというところまで来て、明晴学園という日本で初めての、手話で子供たちを教育する学校です。あいうえのにも明晴学園の方々が来てくれてたり(2014年度活動ブログ、2017年度活動ブログ)しました。
斉藤:皆さん、こんにちは斉藤です。よろしくお願いします。僕はろう学校の校長をしてたんですけれども、校長といっても小さな学校なんですよ。幼稚園から中学まで全部合わせて子供が60人ぐらいという学校ですから、学校というよりは塾みたいなもんなんですけど、そこの校長をやってました。その後、学校の運営の手伝いをしたりして9年ほど関わったんですけれども、今はもうやめてます。聾学校に関わったのはなぜかというと、もう20年以上前ですかね。前から手話という言語に興味があって取材してきた、だからろうの人たちの中に入り込ませてもらって、いろいろと取材してきたという経緯があります。
ろうの家族
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:ろうといっても実はそのたくさんいろんな方がいるので、十把一絡げには言えないんですけれども、小さいときからろうとして育った、つまりろう文化に馴染んで育ってきた人たちの中にはですね、(自分の)子供もろうであってほしいと希望する人が結構な数いるんですね。僕は最初にそのことを知ったときにとても驚きました。本当にそんなことがあるんだろうかといって取材したのが最初のビデオです。家族全員がろうの家族。つまり、親も子供もろうというそういう家族の映像です。
(映像1:1997年2月7日、TBS報道特集『手話の世界』 )
斉藤:僕自身は、こういう世界に出会うまで、おそらく皆さんと同じようにですね、聞こえないっていうことは不幸なことそれは避けるべきだというか、聞こえた方がいいと考えてました。
聾学校の誕生
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:1755年、世界で初めての聾学校ができました。このときの聾学校は手話で子供たちを教える、あるいは子供たちも手話で暮らすという学ぶというそういう聾学校であったわけですね。フランス手話はその後いろんな経緯があって、アメリカに持ち込まれてアメリカ手話が発展していきました。だからフランス手話とアメリカ手話っていうのはかなり共通性が高いので、アメリカのろう者とフランスのろう者は手話で話をして、音声語でイタリア人とフランス人が話をして同じくらいは通じるということが言われてます。ところがその後成立したイギリス式は、アメリカ手話というのは全く違った形で出てきた言葉なので、イギリスのろう者とアメリカのろう者が手話でで話そうとしても、うまく通じないという。つまり手話っていうのはそれぞれの社会でそれぞれの地域で独自に発展してきたということですね。
聾学校というところで、手話がだいたい固まって成立するんですよね。ろう者がたった1人で生きてると手話は生まれないんですよ。正確にはホームサインというものがあってその家族だけ、あるいは身の回りにいる地域の限られた人だけがちょっとだけわかる手話というのができるんですけれども、ホームサインというのは言語とは違って一般的な言語とそれ以外のものの中間みたいな。そういう言語になってます。れっきとした言語になるのは聾学校なんですよね。世界で最初の聾学校、それがパリでして、パリから手話、ろう文化というものが広まっていきました。いつでも、小さなコミュニティのろうの人たちが手話を使い始めてた。それが子供たちがろう学校に行くことによって、手話として完成していったということであると思います。
日本はですね、1878年に京都に聾学校ができました。京都盲啞院、見えない人と聞こえない人両方のためのが学校があったんですけれども、そこができたことによって、日本の手話ができ上がったというふうに言われてます。なんで聾学校で手話ができるかというと、ろうの子どもたちが集まるんですね。子供たちが集まって子どもたち同士で話をしてると、そこで言語として次第に固まってくる。とても面白いですけれども、最初の子どもたちが使う手話は、言語にはまではいかないんですね。その後に入ってきた子どもたち。最初の先輩の生徒たちが使ってる手話を見て、小さな子どもたちが入ってきて、その手話をまねて使い出すと、そうするとそれが本当の言語になります。言語学的な意味で日本語とか英語とかフランス語と同じ意味となるわけですね。そういう意味で聾学校というのは非常にろうの人たちにとっては生活の場以上に、自分自身の人格そのものができる場、言語ができる場という意味でとても大切なところだったわけです。
ろう文化宣言
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:1995年にろう文化宣言っていうのが日本で出されてます。実はこのろう文化宣言というのは、アメリカのろう者が起こした運動を引き継ぐ形で日本で発展させた形になるんですけれども。木村晴美さんっていう方が中心になって出したんですけれども。ろう文化宣言がこう言ってます。「ろう者とは、日本手話という日本語とは異なる言語を話す言語的少数者である」と。
ここで木村さんたちが言ったことは、聞こえるか聞こえないかではなくて、どういう言葉を使うか、自分たちは手話という言語を使う、そういう人間なんだというそういうことを宣言したわけです。障害論で言うと、医学モデルから社会モデルへっていうそういう展開になるんですね。医学モデルっていうのはその人の体を医学的に見て、そして聞こえるかどうか、聴力はどのぐらいか。聴覚障害者と呼ぶかどうするかっていうそういうわけですね。でもろうの人たちにするとそうじゃないんだと本当の違いは言語なんだと。自分たちは手話って言語を使う少数派なんだということを、1995年に宣言したわけです。
聴者とろう者を分かつのは、聴力ではなく言語というところです。それを踏まえた上で次のビデオをご覧いただきたいんですが、このビデオは2004年に放送してました。ビデオを撮ったときはですね、まだ明晴学園っていう僕が勤めたろう学校はまだできていませんでした。その前段階の龍の子学園っていう名前のフリースクールなんですね。ここにろうの子どもたちが集まってきて、手話覚える。そして手話で学ぶっていうことをやってました。そこに赤ちゃんがやってきて、手話を獲得していくというそういう過程を記録したものです。
(映像2:2004年1月25日、TBS報道特集『赤ちゃん手で話す』 )
斉藤:日本では100年近く前からろう学校は口話教育といって、音声を聞くこと喋ること、これを子供たちに訓練するということをずっとやってきました。
努力してそれが報いられればいいんですけれども、大部分の子供にとってはうまくいかない。そしていつの間にか子どもたちは手話を覚えてしまう。もちろん手話を教えてるところなんていうのはどこにありませんから、ろう者が寄り集まると手話を使う。その手話っていうのは、日本手話というのがあるのでそれを子供たちは覚えてくるわけですね。
基本的には聞こえない子に聞こえさせるっていうそういうアプローチはやっぱり限界があるということで、少しずつ全体が手話に変わってきたっていうことがありました。
(中略)
斉藤:手話っていう言語はやっぱり日本語と全く同じように厚い壁に囲まれてるっていうことなんですね。
壁なんていうとね、なんかネガティブな印象がすごくあるんですけれども。逆にその手話の内部から見ると日本語が簡単に入ってこられない、あるいは他の言語と混じり合って別のものにならない。これはとても大切なことなんですよね。そうすることによって手話はずっと手話として生き続けて子どもたちの手の中で伝えられていくというそういうことが繰り返されて手話として生き残っていくわけですよね。それは日本語が生き残ってきたのと全く同じメカニズムだと思います。
こういうお話をするのはろう文化というものがあってですね、それを僕らは理解したいと思う。その中に入っていきたいと思います。かなりの程度はできます知識を知っていれば、こういう見方をすればいいんだなっていうことはわかると思うんですよね。だけれども、本当の中の中まで入るというのはとても難しい。
手話の表現
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:次のビデオでご覧いただきますけれども、これはろう文化の内部に僕がいろいろとその当時歩き回って中に入れてもらって、そして記録したものの一部です。ろうという人が、手話という言語はどういうふうに使うかとか、彼らの中で何が起きてるかっていうことはね話し始めると際限がない部分があるんですけれども、1人ろうの世界の中で、取材した人がいました取材対象が米内山明弘さんっていうろう社会では非常に有名な方です。日本ろう者劇団という劇団を作ったりしてそしてずいぶんいろんな活動をされてきた方ですね。
米内山さんっていう人は両親もろう者だったのでいわゆるデフ・ファミリーろう家族に育った人ですね。そしてろう者の間ではとても尊敬されてるのはですね、彼の手話というのが日本の手話のお手本みたいな感じの、非常に豊かな手話であるということがあります。手話通訳さん連れてって米内山さんの手話通訳のさせるとだいたい音を上げるんです。情報量が多すぎて、ほぼ日本語に音声語に変換できないと言ってですねみんな。米内山さんが使ってる手話っていうのは全部その子の細かいところまで日本語にしようと思うと結構大変な作業になるという。複雑な陰影に富んだ手話を使う方です。同時にですね、身の周りに漂ってるろう文化というものも少しご覧いただけるかなと思います。
(映像3:2000年5月18日、TBS・NEWS23『ろう者米内山明宏』 )
斉藤:音声言語と視覚言語というのはかなり違うところがあって、目で見たものを再現するという力においてはですね、音声語は圧倒的にかないません。僕よく彼らの手話を記録したり横で見てたりするんですけれども、手話通訳さんがだいたいこう嘆くのがですね、私は日本語にそれを直すんだけれども彼の言ってることを表現していることの10分の1も表現できてないな。っていうそういうことをよくですね。逆に手話の弱いところもありますけれども、目で見た光景を再現するというこの力においては音声言語は圧倒的にかないません。
明晴学園
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:次にご覧いただくのは僕がいた明晴学園というろう学校なんですが、日本で初めて全ての授業を手話で行うというそういう学校にその授業の模様を一部ご覧いただこうと思います。
(映像4:2014年5月21日・明晴学園小34クラス社会「八潮」 )
斉藤:今のが小学部の3年生の。授業の中身だけ見ればね日本中のどこの小学校でもやってる授業と全く同じだと思います。ただ言語が違いますよね。そして先生は子供たちの言ってることは完全にわかってます。子供たちも先生の言ってることがそれなりにちゃんとわかってますね。こういう授業は日本のろう学校で過去80年、あったことがありませんでした。つまり先生が口で喋ってるのを子供たちは聞くわけだから聞こえないんですよね。先生が何言ってるかわかんない。先生は子供たちが話す口話。つまり喋る言葉を聞き取るわけですけど、子供たちの声はやっぱり不十分ですから、何を喋ってるのかよくわからない。仮に子供たちが手話を作っても使っても先生達は子供達の手話を読み取ることができません。だからこういう授業は、日本の学校のろう学校の教育ではありませんでした。
(中略)
CODA
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:CODAというのは Children of DEAF adultsなんですけれども、ろうの両親から生まれた聞こえる子供です。数は非常に少ないんですけれども、つまりこの人たちは耳は聞こえるけれども、生まれてまず両親の手話を見て育つんだから第一言語が手話になるわけです。そして同時に幼稚園に行くころから近所の子供たちと一緒に遊ぶようになると、なんかわかんない言葉喋ってるか口がパクパクしていって何言ってんだかわからないっていう状況から初めてでも日本語を習得していくわけですね。そして、手話と日本語の両方の言語のネイティブ、バイリンガルになってきます。
僕が一番ろう文化手話のことを教わったのはこの人たちからなんですね。有名なCODAの人たちが何人かいるんですけれども、そういう事情は日本でも外国でも全く同じでですね。CODAという人たちというのはある意味では極めて便利な存在だし、貴重な存在として話をしてくれます。ただCODAといってもいろんな人たちがいるので、全員がネイティブというわけではないんですね。CODAの中には音声言語の習得が遅れたので日本語がちょっとたどたどしいなんていう人もいます。耳は聞こえるんだけれども、もうだから手話はまったく流暢さのものネイティブのろうと何ら変わりはないんだけれど、音声が少しというような人もいれば、もちろん逆の人もいます。
(中略)
ろうと聴をこえた「人間の文化」
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:ブリストル大学のパディ・ラッドが書いたことの中で面白かったったのが、パディ・ラッドはイギリスのろう者のエスノグラフィ(行動観察調査)って言うかその聞き取り調査をずっとしてきたんですね。普通のそこら辺の町にいるろう者がどういう経験をしてきたか、どんな人生を送ってきたのかっていうそれをビデオにとってそして記録してくるっていう、そういう作業をずっと続けてきた人でした。
その中で僕は非常に印象に残ったのはジェームスという1人のろう者の言ってることだったんですね。ジェームスはもちろんイギリスで普通のろう教育を受けたので。英語音声語はほとんど使いません。なおかつですね、使えないだけではなくて読書も十分にできない、そういう状態でろう学校卒業してます。ジェームスはそれにもかかわらず、一生懸命自分で勉強してパブに行って筆談でパブに来たいろんな人たちとですね、話をしながら少しずつ英語を勉強していった。ろう学校のときにはわかんなかったけどそうやって話を筆談で話をしてると少しずつわかるようになってきた。
これもすごいなと思うんですけどね。そうやっていろいろ聴の人たちとね話をしてると聴文化というのをもちろんわかってくるんだけれども、タブロイド紙は読めるようになったので、世の中のことはいろいろわかるようになったんだけれど。よくよく話してみると、聴の人とたちの向こうにもう一つ別な世界があるんだな。ということなんですね。それまで聴者の世界でと思い込んでいた物の下にもう一つの別な世界がある。彼はそういう言い方をしてないけれども、ろうも聴も超えた「人間の文化」っていうそういう意味だろうなっていうふうに僕は思ってるんですね。ろう文化・聴文化というふうに区別されるところはもちろんある。それはすごく違うところもあるけれど、ろうも聴も共通して持ってる人間の文化みたいなものがあるんだなっていうところに、彼はたどり着いてると思うんですね。そこは僕はなかなかね、味わい深いなと思って。
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斉藤:固い壁に阻まれて遮られているろうと聴の両方なんですけれども、しかし壁があるっていうだけで諦めるわけではなくていろいろな回路をたどるあるいは助けてもらう。というふうなことをしながら、いわゆる異文化理解っていうふうなことはですね、僕は不可能ではないだろうなと思います。ただわかったつもりになってもわかってないっていうことはしょっちゅうあってですね。そういうときにろうの人たちがどういうふうにすれば僕らを受け入れてくれるのかなと。向こうにもちょっと開いてほしいんだけれども、こちらもう自分を開いていくというそういうことかなっていうふうに思ってます。本当に自分が開けていったかどうかはわかりませんけれども、開こうという気持ちだけは僕はあったつもりなので、それで多少受け入れてもらえたかなと。そして、彼らの中の世界を記録することができたのかなっていうふうには思ってます。
(UDトークのログより一部引用おわり)
マイノリティ(少数派)にずっと興味があったという斉藤さん。マイノリティの世界にマジョリティ(多数派)の立場として入っていくのではなく、逆に自分が一人で入っていって「心細い思いをする」ことが大事だったのではないか、とご自分のジャーナリストとしての活動を振り返る姿が印象的でした。
斉藤さんは言います。
「そういうふうにして立場が逆になるとね、初めてわかってくることはいっぱいあるので。多文化理解とかなんとかいろんなこと言いますけれども、基本は入っていくっていうことではないかな。しかも自分たちが多数派の立場として入ってくるっていうことをやってどうしても限界があるので。少数派になっちゃうというそれが意外と面白い結末になるんじゃないかなというふうに思います」
とびラーはこれまで、少数派であるがゆえに社会的な不利益にさらされる方のお話を講座の中で耳にしてきました。その方々に「何がしてあげられるか」という視点からではなく、どのように「入っていけるのか」そんなことを考えさせられるお話でした。
講座の後半では、今年度からとびらプロジェクトに加わった伊東俊介さんのインタビューを行いました。きき手は、プロジェクトマネージャの伊藤達矢さんです。
伊東さんは、大学院で博物館のアクセシビリティについて研究されています。
アメリカのスミソニアン博物館で、手話を使うろう者、手話を使わない聴こえない人、聴こえる人が一緒に参加しているプログラムを目にし、そのプログラムが学芸員ではなく一般の学生(ギャローデッド大学)による企画であることを知った伊東さん。自分もそんな活動がしてみたいと、とびらプロジェクトに参加したと言います。
口話の中で育ってきた伊東さんは、大学に入ってから手話を覚え、すこしずつろうの世界も知るようになりました。ろうの文化、難聴者・中途失聴者の文化、聴者の文化、自分がどこに属すかというのは曖昧な部分があると言います。むしろそういったカテゴリーにこだわらずに生きていっても良いのではないか、と考えているそうです。
たくさんの異なる文化が一つのところにおさめられている博物館こそ、多文化理解について考える格好の場所と考え、とびらプロジェクトに在籍している間にも活動を作っていければとお話をしてくださいました。
(東京藝術大学美術学部 特任助手 越川さくら)
2019.11.03