2019.12.27
学生食堂前の紅葉も綺麗に色づいた12月11日。油画・学部4年の山縣瑠衣さんを訪ねて絵画棟の7階に上ります。すると、山縣さんがエレベーター・ホールまで迎えに来てくださっていました。早速、アトリエになっている部屋まで案内してもらいます。
【卒業制作はインスタレーション】
山縣さんの部屋は、天井から吊り下げられている作品、壁に掛けられているキャンバス、積まれている作品など、作品でいっぱいで、いかにも作家さんのアトリエです。窓際に置かれているベッドも気になります。
ー どれが、卒業制作の作品なのですか。
「ほとんどが卒業制作用のインスタレーションで使う作品です。ベッドも使います。こっちにある小品は以前の作品で、ここに場所があったので置いてあるのですが、それも文脈やコンセプトが合えばインスタレーションの中に組み込むかもしれません」
【岩の写真とECRITUREの文字】
― インスタレーションに組み入れる作品の説明をしていただけますか。
「正面の窓のところに掛けてある大きいのは、布の上にプリントした写真です。旅行で熱海に行った時に撮った岩の写真ですけれど、岩の亀裂が、岩に彫ってある線のように見えて、それが昔の甲骨文字のテキストのようにも見える。それが面白いかなと」
ー そう言われてみると、引っ掻いたような線も見えてきます。その写真の前に「ぬいぐるみ」のような、布でくるんだ文字が吊り下がっていますが、これは何でしょうか。
「『ECRITURE(エクリチュール)』という言葉になっています。フランス語で話し言葉に対する書き言葉という意味です。この言葉を吊り下げることで後ろの写真の岩の亀裂から、エクリチュールという意味を引き出しています。この文字の書体は、ペンで書くためのゴシック体とは違った、ドイツで文字を石に彫るときに使われていたフラクトゥールという書体です。これも岩を彫るということと対応しています。この文字を、布を縫って作ってみたら、フニュとした肉感のある形態がいろいろな所に出てきました。ミシンや手で布を縫う行為に、彫るという体の動きの痕跡みたいなものが反映されてきたのが、面白いなと思っています。
キャンバスの張っていない木枠は、木枠の向こう側にある現実(自分の外側にあるもの)をフレームで切り取ります。特に、受験の時期にそういった絵の描き方をしていましたが、その中では現実がこちらに迫ってくるような感覚があります。そのような描き方の中では、対象を見ているのに見落としていたり、錯視が起きていたりする。生の現実に触れることができない、という壁にぶつかります。
それでは作家は現実に対して何もできないのかというと、逆に、こちらから外に向かって働きかける行為はできるなと思いました。例えば外の石ころに署名すると、その石の現実にはない意味を、署名により引き出すことができる。あるものに私の名前を書けば、それが私のものだという意味が出てくる。そうすれば、こちらから向こう側の現実への働きかけの方向性が出てきます」
「木枠にECRITUREという文字があれば、それを頼りに向こうの岩に書かれた文字を探ることができるのではないかと。岩にキュッとある三本の傷から意味を引き出してくることができる。そうすると、現実へは触れ得ないと思っていたのとは逆に、現実を作っていくようなプラスの働きを作り出すことができる」
山縣さんの作品は、現実って何だろう、意味が生じるってどういうことだろうという、問いかけになっています。
【確かだと思った触覚にも錯覚が】
左を向くと、ミケランジェロの《アダムの創造》を思わせる絵画が置かれています。
ー これはどういう作品でしょうか
「これは《アダムの創造》を基にしているんですけど、テーマは錯覚になっています」
「元々の絵は、神が人間(アダム)に命を吹き込もうとしている瞬間ですが、神と人間がしっかりと見つめあっていながらも、指は触れていない。触覚がより本質的な立場にあると思わされる絵です。私の作品では、左側から出てきている手の指をクロスさせています。これはアリストテレスの錯覚の図なんです。二本指をクロスさせてその間に細い棒を一本挟むと、人はそれを二本の棒として感じるという錯覚です。この絵では、より根源的な感覚と思われている触覚にも騙されることがあると言おうとしています」
【皮膚をストリッパーで剥がす】
右の方には大きな人間の顔が描かれた作品が置かれています。
ー こちらはどんな作品ですか
これは、卒展用に制作したものではないので、インスタレーションの中に入れて出すかどうかわからないのですが、白い傷のような跡が特徴となっている作品です。これは油絵の表面の絵具をストリッパーという油絵具の剥離剤で剥いであります。ストリッパーは劇薬で、かけたところの絵の具が布地から剥離して浮き上がってくるので、それをナイフでこそぐんです。ストリッパーが消しゴム的な役目になります。これを描画材として使うことに、消すことと描くことを同時に行っているという両義性を感じるようになります。その両義性を生むような行為を大事にしたいと思っているんです。
― 描かれた人の顔の上にストリッパーをかけているのですね。
「そうです。そのとき油絵具が浮いてくる様子が、すごくよくない病気の皮膚のような感じになるんです。絵の病気のように思えます。剥離して浮いた油絵の具をナイフでこそぐ時、皮膚を引っ掻いているような感じがして、そしてその剥がれた絵の具は「排泄された」ような汚さを持っています。以前から、絵に皮膚感覚のようなものを見出すことがあったので、そんな皮膚感覚の自覚とも、たまたまですが、つながりました。エクリチュールには引っ掻くみたいな意味もあるので、エクリチュールつながりにもなっています。
実は私の肌は厄介で、引っ掻いてしばらくするとミミズ腫れみないに浮き上がってくる体質なんです。思春期の頃は、知らない間に引っ掻いた痕のことを、他の人に見られたり言われたりするのがいやで、肌に対してすごく敏感になっていました。そんな記憶もあって、肌ってしっとりしているよりも、プクプク腫れてきたり擦れたりする方がリアリティがあります。それで、この絵の、表面の感じが気に入っているんです」
そんな話を伺いながら、以前に描かれた「ミミズ腫れ」の絵も見せていただきました。
【背中に書かれた文字】
ー 映像作品も作られているということですが、それはどんなものか教えていただけますか。
「このPCの中に映像があるので、ちょっと見てください。
これは私の背中ですが、人に頼んで爪で強めに引っ掻いてもらって、だんだんテキストが浮かび上がってくるようにしたんです。10分もない映像ですが、その中で読める程度に文字が浮き上がってきます。英語で「DON’T LEAVE THE SUBJECT TO THE OTHERS」というスローガンが書いてあって、「他人に自分の主体性を委ねるんじゃない」というような意味です。そんな意味のスローガンを、人に頼んで自分の背中に書き込むという、そんな矛盾した行為を作品として展示したいと思って、この映像を制作しました。何が自分を規定しているのかとか、自分でそもそも自分を規定できるのかとか、「自分の主体を他者に委ねるな」というのはそんなに簡単ではないのではないかとか、そんなことを考えながら、不毛な失敗を重ねている感じを出したかったんです」
「インスタレーションでは、この映像はベッドの上にプロジェクターで投影しようと思っています。この発想の元は、カフカの小説『流刑地にて』で、その中では、ベッドにうつ伏せに寝せた囚人の背中に、罪状を刺青で入れる処刑機械が出てきます。その刺青の文字は読めないほど装飾されていて、ただただ時間をかけて残酷な行為が進むようになっています」
― この映像を作っている間、どんな感じだったんですか。
「自分の背中を見たいなと思っても見えないなかで、じわじわうずいてくる、痛痒く浮き上がってくるところがわかる、あー、赤くなっているんだろうなと思う、そんな感じです。これもエクリチュールにつながっています」
【藝大へ進むまで】
山縣さんの、身体感覚がいっぱいで、それでいて知的な話にどんどん引き込まれていきます。そこで、何が山縣さんの今を作ったのか、興味が湧いてきました。
ー どうして藝大へ進もうと思ったのですか。
「子供の頃から絵を描くのはずっと好きで、趣味でイラストなんかを描いていました。油絵を描き始めたのは、高校の美術部からです。高校では国際科で英語を学んでいて、日本語と違う言葉の言い回しとか、ニュアンスとかを学ぶことがすごく楽しいなと感じていました。でも英語を学習するにしても、何か表現することがないといけないなと思った時、美術に進んだら何かを表現できるのではないかと思ったんです。藝大を受験しようと考えたのは高校2年の頃です」
【藝大での時間】
― 藝大に入ってからはどんな具合でしたか。あの時から変わったというような、転機はありましたか。
「1-2年の時には、全く考えずにキャンバスに向かって反射的に手を動かし描いていましたが、3年の時から何もわからないで制作するのが辛くなって、せめて自分が何を行なっているのかわかりたいと、本を読み言葉を探すようになりました。その中で、自己言及性のある作品に自分は関心を持っているのだなと、だんだん気づいてきました。絵画自体がその構造に自覚的な形態をとっている、というような。そのため、これまでキャンバスを解体するというようなことや、絵を描くことと支持体を作ることを交互に行なっていくようなことも試してみました」
積んである作品の中から、長方形の枠からキャンバスの布がはみ出しているような作品を、取り出していただきました。
「これは、元々大きな絵の一部を平面として残して、余ったキャンバスの部分を装飾的にはみ出させて、この形にしました。これを作っていた時には、「なんだそれは」と引っかかるようなものに興味があったのです。でも、そういう視覚をハックするというようなことは、私のやりたいこととはちょっと違うかなと思いました。今は、その方向ではなく、いろいろな見方を提示するようなことに興味があります」
― 気になる作家や作品はありますか。
「趣味として観るなら、フランシス・ピカビアが好きです。顕微鏡やX線の技術が出てきた時、透過するような絵を描き出して、それが格好良いと思います。自分の絵の参考にするのは難しいと思いますけど」
「マネは、描き方が気になっています。写実的で、立体的に捉えているはずなのですが、立体視できないところがあります。立体的な平面のような感じです。そうなる理由が何か分からなくて、模写してみたこともあります。《オランピア》では、画中の娼婦がこちらを見返していて、視線の転換が絵に現れています。これもすごいなと思います」
「去年の秋に見たマルセル・デュシャン展も衝撃的でした。メチャクチャに見えるものも、作家には作る権利があるというということに、ちょっと感動しました」
― 今回の卒業制作では多様な画材が使われていますが、画材に対してどんな考えをお持ちですか。
「アクリルも使いますが、油絵具の方をよく使います。油絵の方が肌の質感が出てきます。多分昔から人を描くのに使われてきたからだと思います。水彩で描くこともありますが、濡れていた時の方が綺麗だったなというようなことになります。油絵だと濡れた感じが消えないので、そこは良いなと思っています」
― 2019年の3月に「trinity」という個展を開催されていますが、その時のテーマはどのようなものだったのですか。
「あれは『.trinity』で頭にドットが付いているんです。今の卒業制作とは違った気分で、内的な経験に基づいて制作しました。その頃、私の家は女3人家族だったんですけど、その家族が自分を形成する根本的な要因になっているなと思って、それがテーマになっています。『.trinity』は私が出力するものの拡張子のようなものです。私が何を出力しても、その拡張子がついてしまうように思えました」
山縣さんの机の脇にはハル・フォスター、ジル・ドゥルーズ、ロザリンド・クラウスなどの美術書が並んでいます。
ー ここには美術書がたくさんありますが、本を読むのはお好きなのですか.。
「本当は、文を読むのはすごく苦手なんです。ここにあるのは藝大の図書館から借りたものですが、友人に勧められたものです。最初は何から手をつけたら良いのかわからない状態でした。でも一冊読めば芋づる形式にどんどん知りたいことがわかっていき、まるで見透かされているような感覚です。しかしやはり体系的に何かが理解できるようになるには道のりは遠いです。今はその中から気になるフレーズを見つけたり、言葉からの共感覚的なもので作品に反映するのが限界です」
【卒業制作インスタレーションの完成した姿】
ここでもう一度、卒業制作に話を戻します。
ー 卒業制作はこれからどう進められるのですか。
「卒展ではインスタレーションの展示をしますが、一つの立体を作る方向ではなく、それぞれの構成要素が少しずつ関わっていくものを作るつもりです。その中でもエクリチュールということには引っかかっています。今年の秋口くらいに言語にも色々な種類があるということに気づきました。音声化できる言語、書ける言語、頭の中で会話しているような言語、また怒りのようなもの。短いフレーズを大声で喋るような言語。SNSに打つ短い文など、たくさんの言語がある。その中でも音声化できない言語に切実なものがあると感じています。絵を見る時も、絵の中に何かを読んでいます。絵の中には内包している視覚的な言語があるのだろうという感じがします。そんなことが気になります。今回のインスタレーションでは、共感覚的なものも拾えるエクリチュールをテーマに展開しようとしていますが、それは見ることを問うことにもなります。私たちは見ることにすごく流暢になっていて、見る能力が長けているなと感じます。街には、グラフィックや活字が溢れているにもかかわらず、人はそれをパッと見て反応することができます。もしそのように言語や見ることにまつわる行為が一元化されているならば、それらの行為を解体するとどうなるかなと、試したくなります」
机の上に展示模型がありました。
「今回、卒業制作を展示する機会は、藝大での学内展と、東京都美術館での卒業・修了作品展と、2回あります。それぞれの場所の関係で、展示するものや展示する方法は少し変える予定です。
学内展では展示スペースを2つに区切って間にビニールを張って、ぼやけていてよく見えないという環境を作るつもりです。近づくと見えなくなるけれど、離れるとかえってわかるという、真逆なものが働くような展示になるかもしれません。
私は長野の田舎で育ったので、どこへ行くにも車でしたが、車に乗っていると、窓を流れていく景色が、まるで映像なんです。歩いて行けば、この景色とこの土地が結びつくと分かるのでしょうが、車の窓からだと触覚的な情報がありません。ボヤッとしたテレビのような映像です。そのように視覚だけに特化されると、リアリティが失われてきます。そんな経験も今回のインスタレーションの背景にはあります」
お客様がインスタレーションの場に入ってきて、どこで何を見て、どこで何を感じるかを書いたシナリオも見せていただきます。
「ここから入って、奥の部屋をビニールを通して見てもらいます。そうすると、ベッドに映像が投影されている様子がぼやっと見えるはずなんです、そこからさらに進むと景色の中に入っていくような感覚を覚えるはずです。次に来るお客様は、既にビニールの内側に入っている人を景色として見ます。お客様同士がお互いに見る見られる関係になります。お互いの視線が気になります。そこに置かれたベッドも、伝統的な裸婦画のモチーフと裸婦への視線を思い出させます。主体的に見ようとしてもできなかったり、見る側が見られる側になったりと、見ることを解体するような展示にするつもりです」
「東京都美術館では、展示を変えることになると思います。奥の部分だけになるかもしれません。ですから学内展と卒展と両方見ていただけると嬉しいです。学内展は1月11日から12日の予定です」
【今からの作業】
― 卒業制作をインスタレーションとしたことで、今までの絵画制作とは違うなと思うところはありますか。
「卒業制作の前までは平面の絵画制作ばかり作っていたのですが、卒業制作で初めて半立体の作品とか映像作品とかも組み込んだインスタレーション作品としたので、ちょっとたいへんなんです。絵の展示だと壁に掛けるだけでよかったのですが、インスタレーションだと、どんな施工をするかを考えなければいけません。文字をつけた木枠を浮かせて見せるために、天井からどう吊り下げるのかとか、そんな初歩的なことから考えなければなりません。
映像作品も出す予定なので、部屋の明るさをどうするかも、いろいろの兼ね合いを考えながら決めなければいけません。仮説をいろいろ立てながら、展示にどれを入れるかとか、展示物の配置とか、部屋の明るさとか、いろいろシミュレーションしながら解を探しています。絵を掛けて終わりの展示とインスタレーションでは、準備の仕方がだいぶ違うので、戸惑うことも多いです」
― そうすると、学内展と卒展に向けての作業はまだ続くのですね。
「土日に家に帰って洗濯したりする以外は、ずっと作業をしている感じです」
― まだまだ作業がたくさん残っているのですね。山縣さん、たいへんお忙しい時にインタビューに時間をとっていただいて、本当にありがとうございました。
ものに刻まれた言葉を探求したい、そこには身体感覚も深く関わってくる、そのためには見る行為自体ももう一度見つめ直す必要がある、それをインスタレーション作品として表したい。そんな山縣さんの作品への想いが、インタビューを通して強く伝わってきました。卒展で完成した山縣さんのインスタレーションを見るのが、すごく楽しみになってきた所で、今日のインタビューは終了です。
インタビュー:草島一斗 深田未来 中嶋弘子 鈴木重保
とびラー3年目です。藝大生インタビューも3年目ですが、藝大生の未知なるものへ取組む姿に、毎回、感銘を受けています。
2019.12.24
2019年12月24日(土)、学校向けプログラム「うえのウェルカムコース」に私立八千代松陰中学・高等学校 美術部の生徒たちが参加しました。中学生、高校生あわせて16名が冬休みの部活動の一環で来館し、東京都美術館(以下、都美)で開催中(〜2020年1月5日)の上野アーティストプロジェクト2019「子どもへのまなざし」展を鑑賞しました。
都美のアートスタディルームに集まってきた生徒たちを、アート・コミュニケータ(愛称:とびラー)とスタッフで迎えました。
とびラーは親でも先生でもないフラットな立場の大人として、生徒たちと活動を共にします。活動全体を通して生徒たちの発見や気づきに耳を傾け、対話を通した作品鑑賞の伴走をします。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)
2019.12.23
11月27日、雨上がりの寒い日。東京藝術大学の彫刻棟へ向かうと、ちょうど校舎から小柄な女性が外へ出てきました。
彼女が今回インタビューする、彫刻科4年生の竹野優美さん。
卒業制作について
卒業制作では2つの作品を提出するとのこと。まずはそのうちのひとつ、石彫の作品を見せていただきました。制作を行っているのは屋外、しかも屋根のない場所でした。
――この作品には、モデルがいるんですか?
「いえ、実在するおじいちゃんを作っているのではなく、自分の中にあるおじいちゃん像を表しています。」
――おじいちゃんをモチーフに選んだのは、何か理由があるのですか?
「街中を歩いていて、路肩におじいちゃんが座っているのを見たんです。その姿が道祖神というか、お地蔵さまのように見えました。そのイメージが強烈に頭の中に残っていたので、彫刻に表現しました。作品にしようと意識して周りのものを見ているわけではないのですが、景色などを見て、そのイメージが頭の中に残って、それを作品に出力するというパターンは多いです。なかでも、お年寄りの姿というのがすごく目について、気になってしまいます。 だから老人の姿ばかり作っていますね。」
――なぜ気になってしまうのでしょう?
「なぜでしょうね……。お年寄りを見ていると、人体を見ているというより綺麗な景色を見ている感覚に近いんです。そういえば、子供とか赤ちゃんを見ても同じような感覚は受けないですね。言語化するのが難しいのですが……。素敵だなぁとか、綺麗だなぁと思って見てしまいます。綺麗なものをつくりたいと思っているので、お年寄りの姿をつくることが多くなるのかもしれません。」
――生き物というより、無生物のように見ているということですか?
「いえ、どちらかというと、山や景色も生きているものとして見てしまいます。」
――とても興味深い感覚ですね。このおじいさんは、足の部分にすごく厚みがあったり、太かったりと、普通の人よりどっしりしているように感じます。
「お地蔵さまからイメージを受けていることもあり、貧弱な感じではなくてどっしりと、見ていて安心感があるような感じにしたいと思っていました。作品のタイトルも《道祖神のごとく》にしようかと考えています。」
――削る前の石はどういう状態だったんですか?
「玄武岩という大きな自然石で、四角く製材されていない、ゴロッと丸い状態の石でした。ボロボロ取れちゃうようなもろい石で、細かいところとかがすぐ欠けちゃうんです。あまり具体的な形を彫るのに向いている石ではなくて、大理石なんかと比べるとまぶたのところとかがキリッと決まらなくて、難しいですね。」
――なぜ玄武岩を選んだのですか?
「素材となる石を買いに行くときは沢山の石を見るのですが、だいたいどれも四角く製材されているんです。その中から像を彫り出すのは想像がつくのですが、これは自然の玉石で、ここから彫り出すのは全然想像できないなと思って。石としての存在感がすごく強く見えました。簡単に言えば一目惚れというか、この石いいな!と思って、細かいことは考えずに買っちゃいました(笑)。」
――彫刻用の石を売っているお店があるのですね。
「岐阜に関ヶ原石材という石材屋さんがあって、石を彫刻する人はだいたいそこで買っています。いろんな大学から学生が買いに来ていますよ。キヨスクサイズの石が1000個ぐらい並んでいて、そこに行くのはすごく楽しいです。」
――そういった石って、いくらぐらいするものなのですか?
「石の種類や重さによって様々です。この石は特別安くて5万円でしたが、同じくらいのサイズでも30万円くらいするものもあります。私の場合は道具代や輸送費の方がかかりました。」
ちょっとリアルなお金のお話。特に学生にとっては大きなことでしょう。しかし、普段作品をみているときには全然想像が及ばなかった点だなあと実感しました。
――こんなに大きな石を彫るのはとても力が要る作業なのではないですか?
「力というより、道具の使い方を覚えればなんとかなります。体格はあまり関係ないですね。 気力があれば(笑)。」
――どういう道具を使って彫るんですか?
「最初の荒取りは取手校地にある機材でやっています。ワイヤーソーという機械で切り込みを入れて、100 kg単位で落としていきます。ブラインダーという円盤がくるくる回って石に切り込みを入れられる機械もあって、たくさん切り込みを入れて、ノミで叩いていくとごろっと塊で取れるんです。もともとこの石は3.5トンくらいあったのですが、卒展では2トン以下にしなければならいので、まず重量を落とすのが大変でした。実はこの石はひびが入っているので、横倒しにできず、ずっとこのままの状態で彫らなければならなくて、それも苦労しています。」
――ノミの彫り跡が分かるような部分もありますが、頭や手の部分はとても滑らかで触ったらすべすべしていそうですね。仕上げはどのようにしているのですか。
「水で濡らしながら砥石を使ってやすっています。」
――この状態まで彫るのには、どれぐらいの時間がかかったのですか?
「去年の10月からつくり始めたので、もう約1年になります。このサイズの石彫をつくるのは初めてで、どれくらい時間がかかるか分からなかったのですが、1年以上はかけたいと思ったので3年生の後期から制作を始めました。ただ、同じ学科の中でもその時期から始めた人はほぼいなかったです。」
――今は完成まで何割ぐらいの状態なのですか?
「やろうと思えば10年ぐらい彫れると思います。終わりはないです。ただ、6割くらい形にはなってきているかなと思います。今後は手足や顔の表情をもっとつくり込みたいと思っています。今一番困っているのは後ろの部分なんです。背面のところは光背なのですが、光背とおじいちゃんのつなぎ目の部分の処理が難しくて、どうしようか悩んでいます。」
そう話す竹野さんの両手には絆創膏が。長い間作品と向き合ってきているのだということが伝わってきました。
――1年前に制作を始めてから、ずっとこの作品だけをつくり続けているのですか?
「いえ、これと並行して別の木彫作品を作っています。そちらも卒業制作として提出する予定の作品で、おばあちゃんの姿を彫っています。2つの作品に関連性はないのですが、関連付けて見てしまう人が多いです。片方はおじいちゃん、もう片方はおばあちゃんを彫っているので、『夫婦なの?』と聞かれたりします。」
――素材がひとつは木でもうひとつは石ということですが、それは何か特別な思いがあって変えたんですか?
「おじいちゃんの場合は道祖神のイメージが頭にあったので、石という素材を選びました。おばあちゃんの方は、もともとお年寄りが木の年輪のイメージと重なっていたためですね。」
続いて、もうひとつの卒業制作である木彫作品を見せていただくべく、彫刻棟の中へ。取材時はちょうど入口にある玄関ギャラリーにその作品が展示されていました。
「ここは一週間ごとに学生たちが作品の展示をしている場所です。こちらの作品は、写真と彫刻がセットで、インスタレーションとして展示をしています。写真と共に展示することで彫刻に奥行きが生まれるというか、彫刻だけでは表現できないことまで表せるように感じています。
木彫の方は自分のおばあちゃんをモデルにつくっていて、おばあちゃんの姿の中に自分のイメージも入れ込みながら形にしています。手に持っているのは仏花です。おばあちゃんはよく仏壇やお墓に供えるためのお花を持っているんです。いつも仏壇の前で拝んでいる、その拝むイメージがおばあちゃんの中にあります。
後ろの写真に写っている人物も私のおばあちゃんです。撮影場所はおばあちゃんの故郷である庄内の海です。毎年一緒に帰省しています。」
――これは何の木を使っているのですか?
「楠です。あっ、木くずが落ちてますね……!片付けてなかった……!」
――今日も作業をしていたのですか?どのあたりを進めていたのでしょう?
「手をもう少し詰めたいなと思っています。手とか顔って今まで生きた年数がすごく表れてきますよね。そういう部分を丁寧につくりたいと思っています。」
―― 一番こだわっている点はどこですか?
「表情ですかね。この作品のタイトルは《岸水寄せる》というのですが、これは東北の方言で『目にいっぱい涙をためる』という意味なんです。そういう表情を全体から表現したいなと思っています。この言葉は本を読んで知ったのですが、すごく綺麗な言葉だなと思って、この言葉から何か作品をつくれないかと考えていました。そんなときに、おばあちゃんのお供えをするイメージなどが重なってきたんです。」
彫刻棟の入口に掲示されていたキャプションには、「岸水寄せる」という言葉に出会った本の一節が引用されていました。
――タイトルが記された写真は、ご自分で撮影したのですか?
「そうです。おばあちゃんの田舎に行ったときに、バケツに水がたまっていて、そこにおたまじゃくしが泳いでいたのがすごく綺麗だなと思って撮りました。タイトルが《岸水寄せる》なので、水のイメージを入れたくてこの写真を使いました。
写真もデジタルではなくフィルムの写真を使っていきたいと思っています。彫刻と共に展示している写真もフィルムで撮ったものです。フィルムのつぶつぶとした粒子感がすごくいいなと感じています。このように引き伸ばしたとしても、フィルムの粒子は嫌味がないです。デジタルだとノイズなどが汚い感じになってしまうのですが。」
写真と彫刻
卒業制作のうち、木彫作品は写真とセットでひとつの作品となっているように、竹野さんにとって写真も重要な表現の要素です。その原点は彼女の高校時代にあるようでした。
――なぜ彫刻を選んだのですか?
「高校3年生くらいの頃、美大を受験することに決めました。彫刻科を見学した時に、大きな木彫があって、『かっこいいな』と思ったんです。作品の大きさやダイナミックさに惹かれて、自分もやってみたい、と憧れて彫刻を選びました。」
――高校でも美術の勉強をしていたのですか?
「デザイン科の学校に通っていました。そこでは写真の授業があり、そのときに勉強したことが今の自分のやりたい事に生きているように感じます。色々な景色や気になったものをどんどん写真に撮っているのですが、その感覚が彫刻の制作にも影響しているかもしれないです。カメラを持っていると景色を見ようという意識がすごく働くので、写真を撮るという行為はすごく大事にしたいと思っています。」
――卒業後はどうされるのですか?
「大学院に進学しようと考えています。写真と彫刻を組み合わせて、どう見せていくかを研究したいですね。4年間だと自分がやっていきたいと思っていることをまだ展開しきれずに卒業することになってしまう場合が多いので、周りも進学する人が多いです。」
――今後、特にこういうテーマで制作していきたい、といったものはありますか?
「内面から出る情緒的なことをテーマに作っていきたいです。情緒とか、趣といった感覚を形にしていきたいと考えています。」
――院の卒業後についてはいかがですか?
「作品をつくり続けていきたいと思っています。あと、いろいろなものを見たいので、お金を貯めて日本一周しようかなと考えています。」
――特に行ってみたいところはありますか?
「大分県にある磨崖仏を見てみたいです。自然の岩から彫り出した仏像です。西洋の彫刻よりも、どちらかというと仏像だったり、日本的なものの方が好きですね。」
柔らかい雰囲気と語り口を持った竹野さん。石彫に、木彫に、写真にと、柔軟な表現方法で制作をしていらっしゃいます。しかし、インタビューを通して、それらを貫くひとつのブレない芯をしっかり持っているのだなと感じました。
来月末から始まる卒展と、その後の竹野さんの活躍をぜひとも注目していきたいです。
取材:小田嶋景子、草島一斗、水上みさ、石山敬子
執筆:小田嶋景子(アート・コミュニケータ「とびラー」)
とびラーとして活動できるのも、あと3ヶ月ちょっと。残りの期間は限られてきましたが、まだまだ素敵な出会いがありそうです!
2019.12.21
クリスマス間近の12月21日(土)、東京都美術館ギャラリーA・Cで開かれていた、上野アーティストプロジェクト2019「子どもへのまなざし」展 で、とびラーによるワークショップを開催しました。「子どもへのまなざし」展は、誰もが経験する「子ども」に込められた多層的イメージを読み解く、6人の現代作家による展覧会でした。
<広報用ビジュアル>
「絵から紡ぐ物語(ストーリー)~みる・かんがえる・つくるを楽しむ大人の鑑賞ワークショップ」は、グループやひとりでじっくり作品をみて、心惹かれた絵から感じたことや思い出したことなどを参加者自らの言葉で文章に綴り、アートブックに記し持ち帰っていただく、というものでした。
ワークショップの企画・運営・当日の様子などを、二人のとびラー(中嶋・細谷)がご紹介します。
細谷(H)「『絵から紡ぐ物語(ストーリー)~みる・かんがえる・つくるを楽しむ大人の鑑賞ワークショップ』を企画し始めたのは9月。二人とも伊庭靖子展でとびラーが企画したワークショップ に参加して、ワークショップを企画したい!という熱が高まっていたころでした。」
中嶋(N)「2019年4月にとびラーになって対話型鑑賞(グループで対話をしながら作品をみる鑑賞方法)をやり始めたのですが、鑑賞中に出てくる対話の内容や言葉が消えてしまうのがもったいなくて残しておきたい。と常々考えていました。『子どもへのまなざし』展の事前勉強会で展示予定の作品を担当学芸員さんに見せていただいて、とびラー同士で気になる作品について語りあう機会があったじゃない?その時に、作品を通してとびラーそれぞれが語る言葉の奥深さ、力強さをすごく感じました。自分が日頃考えていたことができそうな予感がしました。」
H「事前勉強会のあと、出展作品のほとんどに人物が描いてあって物語性があるね。ひょっとしたら、作品をみてそこから詩や短文がつくれるんじゃない?と盛り上がったところが、とびラボのスタートでした。」
H「振り返ると、ワークショップの骨格である「作品をみて想起されたものを言葉に綴る」ことは、最初から最後までぶれなかったですね。」
N「確かに。作品を対話型鑑賞してから、そこで出た言葉をどんな風に綴るのか。作中の人物になりきって自己紹介文をつくるとか、短歌をつくるとか、作品を絵本の1ページと考えてショートストーリーを書いてみる。など色々なアイデアが出る中、ミーティングでとびラー同士試行錯誤を重ね、『自由な形式で言葉を綴ろう』というところに落ち着きました。」
H「ワークショップの名前『絵から紡ぐ物語』は、2回目のミーティングで決まったのよね。どんなワークショップになるか具体的なことは見えなかったけど、絵をみて文章を綴るということは全員で共有していました。『物語』だと起承転結がある話に限られそうな気がして、幅を持たせる意味で『物語(ストーリー)』とルビを振ることにしました。」
N「作品の図版と自作の文章を並べて形に残したくて生まれた『アートブック』という冊子について一言いいかしら?とびラーの仲間から「『ミシンで紙を綴じると、冊子が簡単に作れるよ』」と教えてもらい、用紙や表紙デザインなどにこだわって作りました。」
<アートブック:濃紺の表紙に羽ペンのイラストをあしらいました>
N「ワークショップの内容を詰めている最中の11月16日、展覧会初日、ひとりで展示を鑑賞しました。全3章で構成され、温かく懐かしい母性を感じる第1章、思春期特有の息苦しさを体感するかのような第2章、生命とは?を考えさせられる作品が並ぶ壮大な第3章と、各章それぞれの視点と作品が鑑賞者をその世界へ引き込んでいく、パワーのある展示に言葉を失いました。」
H「『とにかくすごい展覧会だから。泣いちゃったよ~』と語る中嶋さんの表情が忘れられません。展示作品を鑑賞しながら、それまで画像でみていて知っているはずの作品なのに、全く知らない作品をみている感覚に陥りました。実際の作品が持つ力を、目の前に突き付けられた気がします。正直、心に刺さりすぎてまっすぐ受け止められない作品もありました。でも同時に、こんなに力強い作品を用いてのワークショップが失敗するわけがない、参加者に楽しんでもらえるはず。という自信も湧いてきました。」
N「展覧会がクローズするまで何回足を運んだかしらね?」
H「作品の並び順をすべて覚えるくらいは(笑)」
H「企画決定までの話はこれくらいで。ワークショップ当日の話をしましょう。受付を済ませた参加者は、4つのグループに分かれていただきました。簡単なワークショップの説明後、グループで自己紹介。展示室に移動して鑑賞タイム(=みる)のあとはASRに戻り、絵から物語(ストーリー)へ思いをまとめる時間(=かんがえる)。その後、それぞれの物語をアートブックに綴り(=つくる)、完成したアートブックを鑑賞する。そんな流れでした。」
<プログラムの流れ>
N「まず、『子どもへのまなざし』展の作品図版を使った自己紹介タイムから始めました。気になる作品を選び一言添えての自己紹介だったのですが、作品を介したおかげで 「何を話せばいいかしら?」と悩むことなく皆さんスムーズに言葉が出ていたような気がします。6人の現代作家によるグループ展である『子どもへのまなざし』展の概要も知っていただけたのではないかと思います。」
H「自己紹介のあとは、少し緊張感がほぐれたようにみえましたね。展覧会会場への移動の時もおしゃべりされている方もいらっしゃいましたし。」
<気になった作品を手に語る参加者。何が語られるのか同じグループのメンバーも興味深く聞いています>
H「『子どもへのまなざし』展の展示室では、グループ鑑賞と個人鑑賞の2本立てとしました。とびラーのファシリテーションの下1つの作品をグループで対話しながらゆっくり鑑賞する対話型鑑賞は、「作品から感じたことを言葉にする練習」場として行いました。対話をしながらの鑑賞は、「いつもと違って、他の人とみるのが新鮮で面白い 」、「同じ作品でも、色々な見方や感想があるのね」と参加者の皆さんに好評でした。」
<グループで鑑賞すること。同じ絵を見ても思うことはそれぞれ違うこと。普段とは違う鑑賞体験を楽しんでいただけたようです>
N「その後ひとりで鑑賞をしていただきました。物語(ストーリー)づくりの基になるのでメモを取りながら15分ほど1つの作品と向き合っていただいたのですが、参加者皆さんの背中から、作品との対話が静かに盛り上がっている感じが伝わってきて嬉しかったですね。」
<ゆっくりじっくり作品と向き合う時間です>
H「鑑賞からスムーズに物語(ストーリー)づくりへ進むことができるのか不安があったので、「少人数でトーク!」という時間を挟みました。自分が選んだ作品について誰かに語ることで、頭の中が整理され物語(ストーリー)づくりに向き合いやすくなったと思います。」
<作品から感じたことを話す・聞く>
N「次に、作品の鑑賞を通して紡がれた言葉を文字にしていく物語(ストーリー)づくりを行いました。皆さんとても集中されているのが伝わってくるのと同時に、静寂が心地よさを生む素敵な時間でした。」
<ひとりひとり自分の言葉で思いを綴る時間です>
<とびラーたちも作成>
H「仕上げに、それぞれの選んだお気に入りの作品と、そこから紡がれた物語(ストーリー)をアートブックに仕立てます。アートブックは、色を使ってカラフルに仕上げる方や縦書きにされる方もいて、皆さんの個性が出ていたように思います。とびらプロジェクトスタッフととびラーの知恵と技を結集させた手作りのアートブックは「表紙のデザインがおしゃれ」、「残ったページに違う作品が追加できるのね。」と参加者の方々にも好評で、嬉しかったですね。 」
<完成したアートブック。作者の個性が光ります>
N「完成したアートブックの鑑賞タイムは、参加者の皆さんが、ほかの人がどんな物語(ストーリー)を作ったのか知りたい!というお気持ちがあるかと思い作りました。とびラーのトライアルでは、この時間が結構盛り上がったんです。参加者の皆さんも楽しまれたようで、アンケートに、「鑑賞タイムが楽しかった、面白かった」と書いてくださった方が複数いらっしゃいました。この時間を設けてよかったと思います。」
<同じ作品でも違う物語(ストーリー)ができあがるのね、この絵からこんな物語(ストーリー)が生まれるなんて…いろいろなコメントが聞こえました>
N「当日を終えた感想ですが、丁寧に作品をみること、思いを言葉にすること、他者との違いを楽しむことなどワークショップの目的が達成できたと思います。お帰りになる参加者が、笑顔だったのが本当に嬉しかったです。」
H「アンケートを拝読すると「新しい鑑賞体験」、「いつもと違う鑑賞」という記述が目立ちました。またグループ鑑賞やアートブックの鑑賞を通じて、「他人との違い」を面白いと感じる参加者が多かったのが印象的です。」
N「個人的には、『鑑賞とは何か?』を考えるきっかけになりました。 これからの活動で、その答えを探していきたいと思います。」
H「実は、今回のワークショップに参加したとびラーの大半がとびラーになって1年目です。ファシリテーションの練習を各自行うなど、準備にかなり時間をかけました。不安だらけの1年目とびラーたちに、アドバイスや当日のサポートなどご協力くださったとびらプロジェクトスタッフと先輩とびラーの皆さんには、感謝しかありません。この場をお借りしてお礼申し上げます。」
「絵から紡ぐ物語(ストーリー)~みる・かんがえる・つくるを楽しむ大人の鑑賞ワークショップ」を通じて、参加者の皆さまにいつもと違う展覧会の楽しみ方をお伝えできたのではないでしょうか?
運営に携わったとびラーたちにとっても楽しいひと時だったこともあり、今後継続していきたいという意見も…ブラッシュアップした姿でお目にかかることがあるかもしれません。その時は、ぜひご参加ください!
<終了後にパチリ。3か月にわたり頑張ってきた仲間です>
執筆:
中嶋弘子:とびラー1年目、VTSに出会って、魅せられて!まだまだ格闘中ですが、今年も皆さんといろいろな事に挑戦したいと思います。
細谷リノ:あっという間に過ぎていくとびラー1年目。いろいろなアートの楽しみ方を実践していければ、と思う今日この頃です。
上野アーティストプロジェクト2019「子どもへのまなざし」展
Ueno Artist Project 2019: “Artists Look at Children”
2019年11月16日(土)~2020年1月5日(日)
東京都美術館 ギャラリーA・C
出品作家
大久保綾子(一陽会) 木原正徳(二紀会) 志田翼(独立美術協会)
新生加奈(日本美術院) 豊澤めぐみ(新制作協会) 山本靖久(主体美術協会)
展覧会ページ:
https://www.tobikan.jp/exhibition/2019_uenoartistproject.html
2019.12.15
「デビュープログラム」は、はじめて「あいうえの」に参加する家族のためのプログラム。展示室空間と作品を丁寧に観察する「展覧会鑑賞コース」と、東京都美術館(以下、都美)の建築を広く深く観察する「こども建築コース」の2つを用意しています。
都美の講堂を会場に、午前と午後の2回実施され、約70組のファミリーが参加しました。プログラムを担当したのは都美の河野佑美と柿澤香穂です。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)
2019.12.15
12月15日開催の「キュッパ部」では、25組のこどもたちとその保護者が上野公園を舞台に「ものを見つめる」活動をしました。
キュッパ部は、絵本『キュッパのはくぶつかん』のストーリーを題材に、主人公の丸太の男の子“キュッパ”のように、自分の周りに広がる世界をよく観察し、誰かとまなざしを共有するプログラムです。プログラムには、これまで「Museum Start あいうえの」のプログラムに参加したことのあるこどもが活動します。
プログラムの様子はこちら→
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2019.12.15
「ぼうけん部」は、これまで「Museum Start あいうえの」に参加したことがあるこどもたちを迎え、上野公園の文化施設に出かけるリピーター・プログラムです。
今回の行き先は国立国会図書館国際子ども図書館(以下、国際子ども図書館)と東京文化会館(以下、文化会館)。
午前・午後の2回開催で、合計40組のこどもとその保護者、8名のアート・コミュニケータ(とびラー)が活動しました。プログラムを担当したのは、Museum Start あいうえのプログラム・オフィサーの山﨑日希です。
プログラムの様子はこちら→
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2019.12.15
「ムービー部」は、デビューする人もリピーターの人も参加できるプログラム。5回連続で開催するうちの4回目が、この日開催されました。
“ミュージアム・チューバー”として、今回は15名の参加者が1ヶ月ぶりに再会しました。プログラム担当は、Museum Start あいうえのプログラム・オフィサーの鈴木智香子です。そして講師として、映像作家の森内康博さんを迎えます。
毎回、行き先が変わる「ムービー部」。
今回は恩賜上野動物園と国立西洋美術館の2カ所へ出かけます。
4回目の内容は、またステップアップした内容になりました!これまでは「1人1本」の映像を作っていたのですが、今回は「3人で1本」の映像づくりに挑戦しました。
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2019.12.11
11月8日、グローバルアートプラクティス専攻に所属する、修士2年生の敷根功士朗さんにお会いするため、取手校地に伺いました。
待ち合わせ場所に指定された校舎内の一角にあるギャラリーに行くと、笑顔のステキなスラッとした青年が待っていました。
にこやかに迎えてくれた敷根さん。
ギャラリーには、最新の作品が展示されていました。経歴をうかがうと、学部は彫刻科で学び、大学院から現在の専攻に来たそうです。
どのような過程を経て、現在のこのインスタレーション作品が生まれてきたのでしょう。
展示中の作品についてお話を伺いながら、敷根さんの考えの源を探っていきたいと思います。
挨拶を終えると、早速、展示中の作品についての説明が始まりました。
展示されていたのは、複数のモニターや不思議なモチーフで構成されたインスタレーション作品。一見なんの関連性も無さそうな画面やモチーフのようです。
敷根さんは、映像や写真を使いながら、現代社会における映像の意味や本質を探ろうとしているそう。
展示されているものについて、ひとつひとつ解説してもらいます。
空間の真ん中に配置された青いテーブル。その上にはパソコンと、レコードプレイヤー上で回転する見覚えのあるエンブレムが。
パソコン画面には、街の風景が、まるで街中を歩いているかのように複数のウィンドウで映し出されていきます。
「これは、Googleマップのストリートビューイング機能を使って、ロンドン、ベルリン、ミラノの都市をバーチャルで『仮想観光』する映像です。実際に私が行った場所でもあります。」
「Google Earthでこれらの都市を見ると、ベンツの本社ビルの上にあるはずのエンブレムがすっぽり消えているんです。データ上の問題や、コマーシャル的な問題かとも思ったのですが、実際にはわかりません。かつてヨーロッパで流行った、SNSで人気を得ることを目的にベンツのエンブレムを盗んでアップするという事件に結びつきました。Googleという代表的なサービスで、同じようにエンブレムが『もぎ取られて』いる状況に、惹かれました。」
「また、このエンブレムには個人的な思いも関係しています。私の勝手な印象として、ベンツはセンスのない権力を手にした大人が乗るものというイメージがありまして。僕の住んでいる家の大家さんが銀のベンツに乗っていて。もちろん僕がそこから盗むことはできませんが(笑)。盗ってきたという想定で、ここで回っています。」
画面には、手書きのキャラクター「ベンツくん」が現れました。
ベンツくんが空を飛んで変身、旅に出るという設定のようです。
「テーブルの奥に置いた骸骨は、ナショナルギャラリーに展示してあるハンス・ホルバイン(子)の作品『大使たち」の骸骨をイメージしています。角度を変えると骸骨が見えるという、アナマル・フォーシス(別の視点から捉えると正常な形が見える)に惹かれて、このインスタレーション作品の全体の象徴として取り上げています。」
「この作品は、『うちはね、窓から海が見えるんだ』という作品です。実際には海に面することのない自宅の窓の目の前にある壁(大家さんの家の壁)に、海の写真を貼り、鑑賞することで、幻想と実体験を表します。また、写真、窓、レンズ、モニターなど複数のレイヤーを重ねることで『見る』ことを強調させています。」
大家さんは写真を壁に掛けたことには気がつかないらしい。
敷根さんにとって、大家さんはやはり気になる存在であるようです。
「次の作品は『夏・鹿児島』という映像からみる風景です。三部構成で、鹿児島にいる家族をテーマにしています。第一部は『床から椅子』で、父方の祖父母の足腰が弱ってきたので、椅子とテーブルの生活にしてあげようと、畳の部屋に買ってきた家具を置いて、食事をする風景を撮っています。第二部は母方の祖母の話『庭』です。祖母が毎日欠かさず手入れする『庭』の今ある姿を映しました。第三部は『コウモリ・墓参り』で、天井裏にいたコウモリ、そして先祖の墓参りを撮りました。」
「このような作品を撮ったのには、理由があります。以前、中国の敦煌に行ったときに、一帯一路政策で、街は綺麗になっており、日本にあるようなスポーツ店やタピオカ屋さんまでありました。グローバリズムが進む中で小さな生活がなくなってしまうことに感慨を覚えました。元に戻すことはできないけれど、映像として残すことはできると思いました。」
「そして、これらの映像を見た人に何かを感じてもらえたらと思いました。例えば、『そういえばおじいちゃんどうしているかな』とか。」
ご家族も撮っていることを意識せず、普段着で、食事風景もカメラアングルも自然にしたそうです。
事実、映像の中の敷根さんからも、今ここで話しているご本人とは違う、てらいもない、沈黙も自然な、あえて話さなくていい温かさを感じました。
「これは『俺の腹筋』という作品です。実際には私の腹筋ではないのですが(笑)。私たちはどれだけ刺激的な映像や写真でも、iPhoneのなかでは右親指のわずかな屈折運動によって退屈な情報と等しい速度で流されていくことにすっかり慣れてしまっています。『俺の腹筋』では、ただただ光に照らされる腹筋が画面いっぱいに映されます。この特に何の利益もない空っぽな映像に使用するモニターは重量が45キロほどあります、今となってはギャグのように重たいもので、このモニターの重さをもって重量の補填を試みる作品です。」
床に置かれたモニターに映し出された大きな身体。最初は気づきませんでしたが、それが腹筋だとわかった途端、呼吸の波とともに動く様子が気になり始めました。
敷根さんが作品で扱う対象は、どれも「人」が関係する身近な風景や存在のようです。しかし、見方を変えると、消えてしまったり、その存在の危うさが浮かび上がる…
いくつかの映像を見ていく中で、映像の無機質さの向こうに、「人との関係性」を眼差す、敷根さんの優しさが感じられました。
藝大に入るまで
「そういえば小学生の時に、クラスメイトが将来どんな人になっているかを予想してアンケートをとったことがありました。その結果、僕の将来は1位漫画家、2位写真家、3位画家でした。僕は科学者になりたいと思っていたんですけどね。人を助けるロボットみたいなものを作るとか、人の役に立ちたいと思っていました。」
クラスメイトはその頃から、敷根さんのクリエーターの素質を見抜いていたのでしょうか。
「中学三年時、漠然と普通科の学校には行きたくないと考えていました。そこで、当時、個別に美術を指導してくださっていた教頭先生や両親の勧めで美術高校の存在を知り、運良く進学できたことが美大進学のきっかけです。高校での三年を経て彫刻に興味を抱き、藝大の彫刻科に進学しました。」
彫刻科時代の作品をタブレットで見せていただきました。
「木や石で時間をかけて作る作品ではないものを多く作っていました。時代に合ってないのではという想いがありましたね。六波羅蜜寺の空也上人をロウで作ってみたり、生花の朽ちるまでを扱ったものや、飴を使った作品など、彫刻に対するアンチテーゼのようなものとしてつくっていました。」
新たな環境で見えてきた「人と人の関係」
彫刻科を卒業後、当時新設されたばかりのグローバルアートプラクティス専攻に進学した敷根さん。
留学生が多く所属し、海外の大学との連携授業や国際的なアーティストや研究者、専門家の指導によるカリキュラムが組まれた環境で、どのように学んできたのでしょうか。
「修士1年生の時、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)との連携プログラムに参加し、パフォーマンスを学びました。二人一組のペアで体を動かす。どこか体の一部を接触させながら、寝転がったり絡み合ったり。日本の感覚にはない距離感の違いや、日本人が抱える固有のコンプレックスを、文字通り肌で感じました。」
「『リレーションシップ』という言葉がいつも気になります。人と人の関係です。それは惑星の関係に似ているとも思います。近すぎるとダメな人もいるし、近づきたい人もいる。人の関係って面白いですね。」
過去の作品の中には、惑星をモチーフにした映像作品もあったそう。
さらに敷根さんは、2019年10月に学生対象アートコンペ「CAF賞」で藪前知子賞を受賞されました。その時の作品についてもお話いただきました。
「パリの大学で行ったパフォーマンスを記録した映像インスタレーション作品です。大学内にはレプリカの彫刻が沢山置いてあります。でもそれらには身体の一部が無かったのです。なぜかと調べると、部位によっては欠けやすかったり、時代を経ているなどの理由があるそうです。一説では紛争で勝ったときに、戦利品として、相手の所有する彫刻の一部を持って帰るという事があると聞きました。面白いですよね。そこで、僕は大学の記録映像を撮った時に彫像に欠けている男性のシンボルを粘土で付けるというのをやってみました。しかし、それはレプリカではなく本物の彫像でした。当然付けたシンボルは撤去され、僕は怒られましたという悲しい物語です(笑)。」
インプットの時間が今の自信につながった
「これまで、行きづまって考えられなくなり、もうダメだと、思い切って休学したことがありました。その間、映画や本、音楽、YouTubeに浸って・・・そんな時間が今の自分にとっていい時間だったと言えます。不安はありましたが、同時に漠然とした希望、なんかやっていけるという自信はありました。贅沢なニートだと友人には言われましたが(笑)。この時間があったことで、大学に復帰後、多くの作品を制作することができました。」
これからのこと
「両親がいて、兄弟がいて、父は毎日働き、母が温かい料理を作ってくれる。生まれた時から当たり前のように過ごしていたので、自分も当たり前のようにこんな家庭を築くぞなんて甘い考えを持っていたこともありました(笑)。今はその困難さに恐れおののいてますが・・・。今後何ができるだろうか、ずっと考えています。どのような形であれ、制作活動を続けていきたいという気持ちがあります。」
2時間近くにわたり、笑顔を絶やさず話してくれた敷根さん。
制作について悩みつつも、留まることなく前に進んでいる、そんな印象でした。
インタビュー中度々出てきた、『リレーションシップ』という言葉。常に情報を取り入れながら、絶えず日本、世界、宇宙、未来、そして他者にも想像を広げ、「人と人の関係」を丁寧に扱っていく。言葉の端々からは、そんな敷根さんの純粋な優しさが感じられました。
これまでも意欲的に作品を制作している敷根さんに、修了作品展ではどんな風になるのでしょうか?と最後に問うと、迷っている、新しい作品を作ってみたい気もすると仰っていました。
今回の修了展ではどのような展開を見せてくれるのか、ますます楽しみです。
執筆|齊藤二三江(アート・コミュニケータ「とびラー」)
とびラー3年目。いろいろな人やお子さんと、出会い活動することができました。今後もこの出会いを大切にしたいです。
2019.12.09
12月9日(月)、学校向けプログラム「スペシャル・マンデー・コース」が行われました。赤や黄に色づいた上野公園の木々を通り抜け、元気よくやってきたのは、豊島区立朋有小学校4年生のみなさんです。
「スペシャル・マンデー・コース」とは、展覧会の休室日に学校のために特別に開室し、ゆったりとした環境の中でこどもたちが本物の作品と出会い、アート・コミュニケータ(愛称:とびラー)とともに対話をしながら鑑賞する特別なプログラムです。
朋有小の児童62名、引率の先生5名をお迎えして行われました。
この日の様子を、「Museum Start あいうえの」アシスタントの浜岡聖がお伝えします。
プログラムの様子はこちら→
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