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2019.12.01

アクセス実践講座・第7回
「ろう文化と手話」
日時|2019年12月1日(日)13:30~16:30

場所|東京都美術館アートスタディルーム

講師|斉藤道雄(明晴学園前理事長、ジャーナリスト)


 

本年度アクセス実践講座、最後の外部講師となる斉藤道雄さんをお迎えし、第7回を行いました。テーマは「ろう文化と手話」。まだあまり知られていない「ろう」の世界について、ジャーナリズムの視点からご講義をいただきました。講義は、斉藤さんが制作したいくつかのドキュメンタリー映像を観ながら進行されました。

 


 

とびらプロジェクトでは、2018年度から聴覚に障害のあるとびラーが活躍しています。本年度のアクセス実践講座の内容は「UDトーク」という音声を自動で認識し文字化するアプリケーションを使い、モニターを通して逐次テキストでとびラーに伝えられます。今回の講座の記録は、このUDトークが文字化したテキストを元に、一部を引用する形でお伝えします。テキスト量が多くなりますが、示唆に富んだお話の内容をできるだけ記録できればと思います。(お話の一部分だけを引用しています)

 


 

斉藤道雄さんについて

(UDトークのログより一部引用)

 

越川(とびらプロジェクトコーディネータ アクセス実践講座担当):今日の講師の先生をご紹介したいと思います。斉藤道雄さんです。私が、『手話を生きる』という斉藤道雄さんの本を読んですごく感銘を受けて、お話をぜひ聞きたいと思ってお呼びしたんですけれども、昨年度から、聴覚障害のあるとびラーをお迎えして、聞こえないってどういうことなんだろう。言葉が違うってどういうことなんだろう。手話ってなんだろう。そのことをずっと考えていた1年半でした。今日はろう文化と手話という題でですね、斉藤道雄さんにお話いただきます。斉藤道雄さんはジャーナリストでいらして、テレビの業界でろうの世界について取材をされる中で、ろうの学校をつくるというところまで来て、明晴学園という日本で初めての、手話で子供たちを教育する学校です。あいうえのにも明晴学園の方々が来てくれてたり(2014年度活動ブログ2017年度活動ブログ)しました。

 

斉藤:皆さん、こんにちは斉藤です。よろしくお願いします。僕はろう学校の校長をしてたんですけれども、校長といっても小さな学校なんですよ。幼稚園から中学まで全部合わせて子供が60人ぐらいという学校ですから、学校というよりは塾みたいなもんなんですけど、そこの校長をやってました。その後、学校の運営の手伝いをしたりして9年ほど関わったんですけれども、今はもうやめてます。聾学校に関わったのはなぜかというと、もう20年以上前ですかね。前から手話という言語に興味があって取材してきた、だからろうの人たちの中に入り込ませてもらって、いろいろと取材してきたという経緯があります。

 

ろうの家族

(UDトークのログより一部引用)

 

斉藤:ろうといっても実はそのたくさんいろんな方がいるので、十把一絡げには言えないんですけれども、小さいときからろうとして育った、つまりろう文化に馴染んで育ってきた人たちの中にはですね、(自分の)子供もろうであってほしいと希望する人が結構な数いるんですね。僕は最初にそのことを知ったときにとても驚きました。本当にそんなことがあるんだろうかといって取材したのが最初のビデオです。家族全員がろうの家族。つまり、親も子供もろうというそういう家族の映像です。

 

(映像1:1997年2月7日、TBS報道特集『手話の世界』 

 

斉藤:僕自身は、こういう世界に出会うまで、おそらく皆さんと同じようにですね、聞こえないっていうことは不幸なことそれは避けるべきだというか、聞こえた方がいいと考えてました。

 

聾学校の誕生

(UDトークのログより一部引用)

斉藤:1755年、世界で初めての聾学校ができました。このときの聾学校は手話で子供たちを教える、あるいは子供たちも手話で暮らすという学ぶというそういう聾学校であったわけですね。フランス手話はその後いろんな経緯があって、アメリカに持ち込まれてアメリカ手話が発展していきました。だからフランス手話とアメリカ手話っていうのはかなり共通性が高いので、アメリカのろう者とフランスのろう者は手話で話をして、音声語でイタリア人とフランス人が話をして同じくらいは通じるということが言われてます。ところがその後成立したイギリス式は、アメリカ手話というのは全く違った形で出てきた言葉なので、イギリスのろう者とアメリカのろう者が手話でで話そうとしても、うまく通じないという。つまり手話っていうのはそれぞれの社会でそれぞれの地域で独自に発展してきたということですね。

 

聾学校というところで、手話がだいたい固まって成立するんですよね。ろう者がたった1人で生きてると手話は生まれないんですよ。正確にはホームサインというものがあってその家族だけ、あるいは身の回りにいる地域の限られた人だけがちょっとだけわかる手話というのができるんですけれども、ホームサインというのは言語とは違って一般的な言語とそれ以外のものの中間みたいな。そういう言語になってます。れっきとした言語になるのは聾学校なんですよね。世界で最初の聾学校、それがパリでして、パリから手話、ろう文化というものが広まっていきました。いつでも、小さなコミュニティのろうの人たちが手話を使い始めてた。それが子供たちがろう学校に行くことによって、手話として完成していったということであると思います。

 

日本はですね、1878年に京都に聾学校ができました。京都盲啞院、見えない人と聞こえない人両方のためのが学校があったんですけれども、そこができたことによって、日本の手話ができ上がったというふうに言われてます。なんで聾学校で手話ができるかというと、ろうの子どもたちが集まるんですね。子供たちが集まって子どもたち同士で話をしてると、そこで言語として次第に固まってくる。とても面白いですけれども、最初の子どもたちが使う手話は、言語にはまではいかないんですね。その後に入ってきた子どもたち。最初の先輩の生徒たちが使ってる手話を見て、小さな子どもたちが入ってきて、その手話をまねて使い出すと、そうするとそれが本当の言語になります。言語学的な意味で日本語とか英語とかフランス語と同じ意味となるわけですね。そういう意味で聾学校というのは非常にろうの人たちにとっては生活の場以上に、自分自身の人格そのものができる場、言語ができる場という意味でとても大切なところだったわけです。

 

ろう文化宣言

(UDトークのログより一部引用)

 

斉藤:1995年にろう文化宣言っていうのが日本で出されてます。実はこのろう文化宣言というのは、アメリカのろう者が起こした運動を引き継ぐ形で日本で発展させた形になるんですけれども。木村晴美さんっていう方が中心になって出したんですけれども。ろう文化宣言がこう言ってます。「ろう者とは、日本手話という日本語とは異なる言語を話す言語的少数者である」と。

 

ここで木村さんたちが言ったことは、聞こえるか聞こえないかではなくて、どういう言葉を使うか、自分たちは手話という言語を使う、そういう人間なんだというそういうことを宣言したわけです。障害論で言うと、医学モデルから社会モデルへっていうそういう展開になるんですね。医学モデルっていうのはその人の体を医学的に見て、そして聞こえるかどうか、聴力はどのぐらいか。聴覚障害者と呼ぶかどうするかっていうそういうわけですね。でもろうの人たちにするとそうじゃないんだと本当の違いは言語なんだと。自分たちは手話って言語を使う少数派なんだということを、1995年に宣言したわけです。

 

聴者とろう者を分かつのは、聴力ではなく言語というところです。それを踏まえた上で次のビデオをご覧いただきたいんですが、このビデオは2004年に放送してました。ビデオを撮ったときはですね、まだ明晴学園っていう僕が勤めたろう学校はまだできていませんでした。その前段階の龍の子学園っていう名前のフリースクールなんですね。ここにろうの子どもたちが集まってきて、手話覚える。そして手話で学ぶっていうことをやってました。そこに赤ちゃんがやってきて、手話を獲得していくというそういう過程を記録したものです。

 

(映像2:2004年1月25日、TBS報道特集『赤ちゃん手で話す』 

 

斉藤:日本では100年近く前からろう学校は口話教育といって、音声を聞くこと喋ること、これを子供たちに訓練するということをずっとやってきました。

 

努力してそれが報いられればいいんですけれども、大部分の子供にとってはうまくいかない。そしていつの間にか子どもたちは手話を覚えてしまう。もちろん手話を教えてるところなんていうのはどこにありませんから、ろう者が寄り集まると手話を使う。その手話っていうのは、日本手話というのがあるのでそれを子供たちは覚えてくるわけですね。

 

基本的には聞こえない子に聞こえさせるっていうそういうアプローチはやっぱり限界があるということで、少しずつ全体が手話に変わってきたっていうことがありました。

 

(中略)

 

斉藤:手話っていう言語はやっぱり日本語と全く同じように厚い壁に囲まれてるっていうことなんですね。

 

壁なんていうとね、なんかネガティブな印象がすごくあるんですけれども。逆にその手話の内部から見ると日本語が簡単に入ってこられない、あるいは他の言語と混じり合って別のものにならない。これはとても大切なことなんですよね。そうすることによって手話はずっと手話として生き続けて子どもたちの手の中で伝えられていくというそういうことが繰り返されて手話として生き残っていくわけですよね。それは日本語が生き残ってきたのと全く同じメカニズムだと思います。

 

こういうお話をするのはろう文化というものがあってですね、それを僕らは理解したいと思う。その中に入っていきたいと思います。かなりの程度はできます知識を知っていれば、こういう見方をすればいいんだなっていうことはわかると思うんですよね。だけれども、本当の中の中まで入るというのはとても難しい。

 

手話の表現

(UDトークのログより一部引用)

斉藤:次のビデオでご覧いただきますけれども、これはろう文化の内部に僕がいろいろとその当時歩き回って中に入れてもらって、そして記録したものの一部です。ろうという人が、手話という言語はどういうふうに使うかとか、彼らの中で何が起きてるかっていうことはね話し始めると際限がない部分があるんですけれども、1人ろうの世界の中で、取材した人がいました取材対象が米内山明弘さんっていうろう社会では非常に有名な方です。日本ろう者劇団という劇団を作ったりしてそしてずいぶんいろんな活動をされてきた方ですね。

 

米内山さんっていう人は両親もろう者だったのでいわゆるデフ・ファミリーろう家族に育った人ですね。そしてろう者の間ではとても尊敬されてるのはですね、彼の手話というのが日本の手話のお手本みたいな感じの、非常に豊かな手話であるということがあります。手話通訳さん連れてって米内山さんの手話通訳のさせるとだいたい音を上げるんです。情報量が多すぎて、ほぼ日本語に音声語に変換できないと言ってですねみんな。米内山さんが使ってる手話っていうのは全部その子の細かいところまで日本語にしようと思うと結構大変な作業になるという。複雑な陰影に富んだ手話を使う方です。同時にですね、身の周りに漂ってるろう文化というものも少しご覧いただけるかなと思います。

 

(映像3:2000年5月18日、TBS・NEWS23『ろう者米内山明宏』 

 

斉藤:音声言語と視覚言語というのはかなり違うところがあって、目で見たものを再現するという力においてはですね、音声語は圧倒的にかないません。僕よく彼らの手話を記録したり横で見てたりするんですけれども、手話通訳さんがだいたいこう嘆くのがですね、私は日本語にそれを直すんだけれども彼の言ってることを表現していることの10分の1も表現できてないな。っていうそういうことをよくですね。逆に手話の弱いところもありますけれども、目で見た光景を再現するというこの力においては音声言語は圧倒的にかないません。

 

明晴学園

(UDトークのログより一部引用)

斉藤:次にご覧いただくのは僕がいた明晴学園というろう学校なんですが、日本で初めて全ての授業を手話で行うというそういう学校にその授業の模様を一部ご覧いただこうと思います。

 

(映像4:2014年5月21日・明晴学園小34クラス社会「八潮」 

 

斉藤:今のが小学部の3年生の。授業の中身だけ見ればね日本中のどこの小学校でもやってる授業と全く同じだと思います。ただ言語が違いますよね。そして先生は子供たちの言ってることは完全にわかってます。子供たちも先生の言ってることがそれなりにちゃんとわかってますね。こういう授業は日本のろう学校で過去80年、あったことがありませんでした。つまり先生が口で喋ってるのを子供たちは聞くわけだから聞こえないんですよね。先生が何言ってるかわかんない。先生は子供たちが話す口話。つまり喋る言葉を聞き取るわけですけど、子供たちの声はやっぱり不十分ですから、何を喋ってるのかよくわからない。仮に子供たちが手話を作っても使っても先生達は子供達の手話を読み取ることができません。だからこういう授業は、日本の学校のろう学校の教育ではありませんでした。

 

(中略)

 

CODA

(UDトークのログより一部引用)

 

斉藤:CODAというのは Children of DEAF adultsなんですけれども、ろうの両親から生まれた聞こえる子供です。数は非常に少ないんですけれども、つまりこの人たちは耳は聞こえるけれども、生まれてまず両親の手話を見て育つんだから第一言語が手話になるわけです。そして同時に幼稚園に行くころから近所の子供たちと一緒に遊ぶようになると、なんかわかんない言葉喋ってるか口がパクパクしていって何言ってんだかわからないっていう状況から初めてでも日本語を習得していくわけですね。そして、手話と日本語の両方の言語のネイティブ、バイリンガルになってきます。

 

僕が一番ろう文化手話のことを教わったのはこの人たちからなんですね。有名なCODAの人たちが何人かいるんですけれども、そういう事情は日本でも外国でも全く同じでですね。CODAという人たちというのはある意味では極めて便利な存在だし、貴重な存在として話をしてくれます。ただCODAといってもいろんな人たちがいるので、全員がネイティブというわけではないんですね。CODAの中には音声言語の習得が遅れたので日本語がちょっとたどたどしいなんていう人もいます。耳は聞こえるんだけれども、もうだから手話はまったく流暢さのものネイティブのろうと何ら変わりはないんだけれど、音声が少しというような人もいれば、もちろん逆の人もいます。

 

(中略)

 

ろうと聴をこえた「人間の文化」

(UDトークのログより一部引用)

 

斉藤:ブリストル大学のパディ・ラッドが書いたことの中で面白かったったのが、パディ・ラッドはイギリスのろう者のエスノグラフィ(行動観察調査)って言うかその聞き取り調査をずっとしてきたんですね。普通のそこら辺の町にいるろう者がどういう経験をしてきたか、どんな人生を送ってきたのかっていうそれをビデオにとってそして記録してくるっていう、そういう作業をずっと続けてきた人でした。

 

その中で僕は非常に印象に残ったのはジェームスという1人のろう者の言ってることだったんですね。ジェームスはもちろんイギリスで普通のろう教育を受けたので。英語音声語はほとんど使いません。なおかつですね、使えないだけではなくて読書も十分にできない、そういう状態でろう学校卒業してます。ジェームスはそれにもかかわらず、一生懸命自分で勉強してパブに行って筆談でパブに来たいろんな人たちとですね、話をしながら少しずつ英語を勉強していった。ろう学校のときにはわかんなかったけどそうやって話を筆談で話をしてると少しずつわかるようになってきた。

 

これもすごいなと思うんですけどね。そうやっていろいろ聴の人たちとね話をしてると聴文化というのをもちろんわかってくるんだけれども、タブロイド紙は読めるようになったので、世の中のことはいろいろわかるようになったんだけれど。よくよく話してみると、聴の人とたちの向こうにもう一つ別な世界があるんだな。ということなんですね。それまで聴者の世界でと思い込んでいた物の下にもう一つの別な世界がある。彼はそういう言い方をしてないけれども、ろうも聴も超えた「人間の文化」っていうそういう意味だろうなっていうふうに僕は思ってるんですね。ろう文化・聴文化というふうに区別されるところはもちろんある。それはすごく違うところもあるけれど、ろうも聴も共通して持ってる人間の文化みたいなものがあるんだなっていうところに、彼はたどり着いてると思うんですね。そこは僕はなかなかね、味わい深いなと思って。

 

 

斉藤:固い壁に阻まれて遮られているろうと聴の両方なんですけれども、しかし壁があるっていうだけで諦めるわけではなくていろいろな回路をたどるあるいは助けてもらう。というふうなことをしながら、いわゆる異文化理解っていうふうなことはですね、僕は不可能ではないだろうなと思います。ただわかったつもりになってもわかってないっていうことはしょっちゅうあってですね。そういうときにろうの人たちがどういうふうにすれば僕らを受け入れてくれるのかなと。向こうにもちょっと開いてほしいんだけれども、こちらもう自分を開いていくというそういうことかなっていうふうに思ってます。本当に自分が開けていったかどうかはわかりませんけれども、開こうという気持ちだけは僕はあったつもりなので、それで多少受け入れてもらえたかなと。そして、彼らの中の世界を記録することができたのかなっていうふうには思ってます。

 

(UDトークのログより一部引用おわり)

 


マイノリティ(少数派)にずっと興味があったという斉藤さん。マイノリティの世界にマジョリティ(多数派)の立場として入っていくのではなく、逆に自分が一人で入っていって「心細い思いをする」ことが大事だったのではないか、とご自分のジャーナリストとしての活動を振り返る姿が印象的でした。

 

斉藤さんは言います。

 

「そういうふうにして立場が逆になるとね、初めてわかってくることはいっぱいあるので。多文化理解とかなんとかいろんなこと言いますけれども、基本は入っていくっていうことではないかな。しかも自分たちが多数派の立場として入ってくるっていうことをやってどうしても限界があるので。少数派になっちゃうというそれが意外と面白い結末になるんじゃないかなというふうに思います」

 

とびラーはこれまで、少数派であるがゆえに社会的な不利益にさらされる方のお話を講座の中で耳にしてきました。その方々に「何がしてあげられるか」という視点からではなく、どのように「入っていけるのか」そんなことを考えさせられるお話でした。

 

 


講座の後半では、今年度からとびらプロジェクトに加わった伊東俊介さんのインタビューを行いました。きき手は、プロジェクトマネージャの伊藤達矢さんです。

 

伊東さんは、大学院で博物館のアクセシビリティについて研究されています。

 

アメリカのスミソニアン博物館で、手話を使うろう者、手話を使わない聴こえない人、聴こえる人が一緒に参加しているプログラムを目にし、そのプログラムが学芸員ではなく一般の学生(ギャローデッド大学)による企画であることを知った伊東さん。自分もそんな活動がしてみたいと、とびらプロジェクトに参加したと言います。

 

口話の中で育ってきた伊東さんは、大学に入ってから手話を覚え、すこしずつろうの世界も知るようになりました。ろうの文化、難聴者・中途失聴者の文化、聴者の文化、自分がどこに属すかというのは曖昧な部分があると言います。むしろそういったカテゴリーにこだわらずに生きていっても良いのではないか、と考えているそうです。

 

たくさんの異なる文化が一つのところにおさめられている博物館こそ、多文化理解について考える格好の場所と考え、とびらプロジェクトに在籍している間にも活動を作っていければとお話をしてくださいました。

 

 

(東京藝術大学美術学部 特任助手 越川さくら)

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