2025.05.07
【第2回基礎講座 「きく力」を身につける】
日時|2025年4月26日(土)10時~15時
場所|東京藝術大学 美術学部 中央棟2階 第3講義室
講師|西村佳哲
内容|コミュニケーションの基本は、上手な話し方をするのではなく、話している相手に、本当に関心を持って「きく」ことから始まります。この回では、人の話を「きく力」について考えます。
・話を〈きかない〉とはどういうことか?
・話を〈きく〉とは? また、それによって生まれるものとは?
基礎講座の第2回は「きく力」がテーマでした。
この「きく力」はとびらプロジェクトが大切にしていることのひとつで、毎年1年目とびラーはこの講座に参加します。
西村さんからレクチャーと、とびラー同士でのシェアする時間をはさみながら講座が進んでいく進め方の説明や、「きく力」についての導入がありました。
講座では3人組になる場面が多くあります。
自己紹介が終わると「はい、解散!」と、新たな3人組になり、コミュニケーションの輪が広がっていきます。
場が和んだところでいよいよ本題です。
まずは、西村さんと、とびらプロジェクト コーディネータ 大東さんがロールプレイを行いました。
話し手の大東さんに西村さんが様々なきき方をしていき、とびラーはきき方が話し手にどのような影響を与えているのか観察します。
「それぞれのきき方が話し手に与える影響は?」
「『話の内容でなく、その人に関心をもつ』ってどういうこと?」
ところどころで西村さんから問いかけがあり、とびラーは自分の考えを書き留めていきます。
午前中の最後には3人組でそれぞれが書き留めたものを回し読みした後、考えたこと・感じたことをシェアします。
「書く→読み合う」のワンクッションにより、それぞれが自分の考え・感覚を整理する時間になりました。
午後は新たな3人組で「話し手」「きき手」「観察者」の3役をローテーションしながら、「話の内容だけに関心を向けるきき方」「内容だけでなく話し手に関心を向けるきき方」を試していきます。
最後に西村さんから「お互いに表現し合える場をつくるためには、きいてくれる人がいること、そしてきき方の質が大切」という心理的安全性のお話がありました。
今回の講座で普段の自身の「きき方」を振り返ったとびラーも多かったのではないでしょうか。
皆さんの「きく力」によってこれから様々なアート・コミュニケーションが生まれることでしょう。
簡単なようでとても難しい、「きく」とはどういうことなのか、とびラーの皆さんと一緒に考えていければと思います。
(とびらプロジェクト アシスタント 三原凜子)
2025.04.12
【第1回基礎講座 オリエンテーション】
日時|2025年4月12日(土)10時〜15時
場所|東京都美術館 講堂
春らしいお天気の中、58名の14期とびラーが東京都美術館の講堂に集まりました。とびらプロジェクト14年目のスタートです。
午前中は活動する上で必要な情報のガイダンスの後、東京都美術館を巡るツアーに出かけます。ツアーのガイドを務めるのは2年目、3年目のとびラーたちです。
最初は緊張した面持ちだった14期とびラーも、ツアーが終わる頃にはすっかり笑顔になっていました。
午後は12期、13期、14期のとびラー全員が集合し、今年度のとびらプロジェクトのキックオフが行われました。
スタッフの自己紹介の後、熊谷さんと小牟田さんから2つの問いかけがありました。
「美術館ってどんな場所?アートってなんだろう?」「とびらプロジェクトはどうありたい?」
それぞれが思いを巡らす時間になりました。
その後は3人組になって「自己紹介+どうしてここに?」のシェアタイムです。
にこやかに、時には真剣な顔でお互いの言葉に耳を傾ける姿が印象的でした。
今年度はどんなアート・コミュニケーションが生まれるのでしょうか?
12期、13期、14期のとびラーの皆さん、1年間どうぞよろしくお願いします!
(とびらプロジェクトアシスタント 三原凜子)
2025.03.17
執筆:11期とびラー 曽我千文
◇上野は日本初の都市公園
東京都美術館に行こうとJR上野駅公園口改札を出ると、そこはもう上野恩賜公園(以下:上野公園)です。東京都美術館は上野公園の中にあるのですが、たいていの場合、噴水広場を横目でみながら、駅と美術館の間を歩くだけで、公園全体の様子をみる機会は少ないのではないでしょうか。
上野公園は面積54ヘクタール。東京ドームの約11個分の広さがあり、2023年に開園150年を迎えた日本で一番古い都市公園のひとつです。上野のお山から、斜面を下った不忍池まで、実に多くの見どころにあふれ、歴史と自然を楽しむことができます。
私たち東京都美術館のアート・コミュニケータ「とびラー」も、せっかくいつも訪れている上野公園のことを、もっとよく知ってみようと「上野公園探検隊」を結成し、2022年度から2024年まで7回の探検を行いました。
◇上野公園のはじまり
上野公園があるところは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地でした。それが明治維新後に官有地となり、明治6年の太政官布達(国の政治機関が府県に対し、公園という制度を発足させるので、「群集遊観ノ場所」などのふさわしい土地を選定してうかがい出るようにといったお達し)によって、日本で初めての公園に指定されました。
当初は社殿と霊廟、東照宮と桜を中心にした場所でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが建てられ、多くの文化施設が集まった世界でも希代の場所に発展しました。
江戸時代、家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍に信頼された天海僧正によって開かれた、東叡山寛永寺には、京都や滋賀の名所に見立てた建物や景観が多く作られました。延暦寺にならって寛永年代から名を取った寛永寺。琵琶湖と竹生島を見立てた不忍池と弁天島。清水寺を見立てた清水観音堂。方広寺に見立てた大仏。上野の代名詞である花見の名所も、天海僧正が吉野山の桜を取り寄せて植えたのが始まりだそうです。
そんな上野の歴史や自然について、東京都美術館のアートスタディルームでスライドを使って、基本情報を共有した後に探検に出発しました。
2023年度には、探検のまとめとして、参加したとびラー全員で、発見したこと興味を持った思ったものを1人2つずつあげて、かるたを作りました。最初に五十音を任意に割り振られた文字を使って、詠み札の文を考えるのに苦労しましたが、楽しいこと、おもしろいものが大好きなとびラーたちの力作になりました。その「上野公園探検かるた」の一部をご覧にいれながら、探検の様子をご紹介します。
◇間違えられた公園の父
東京都美術館を出てすぐ、動物園正門の前には、ここでしか見られないパンダのポストがあります。2011年、東日本大震災の被害に悲しむ日本に明るい話題を提供してくれたリーリーとシンシンの公開を記念して建てられました。さて、ここでクイズです。「パンダのしっぽは黒でしょうか白でしょうか?」早速パンダポストで確認しました。当たった人も知らなかった人も嬉しそうです。
噴水広場のスタバの隣にある桜の木。これは上野公園で発見された新しい品種のサクラで、白花のしだれ桜です。公募で「ウエノシラユキシダレ」という名前が付けられました。ソメイヨシノより少し早い時期に白い雪が降るように咲くので、ぜひ、花の時期に見に来てください。
「真っ白な花が楽しみ。」
「貴重な木なのに、ヒョロヒョロで、枯れちゃうのが心配。」
などの声があがりました。枝から後継樹も育てられているそうです。
上野白雪しだれの少し北よりには、ボードワン博士の胸像があります。西洋医学を伝えるため来日したオランダ人の医師ボードワンは、明治政府から上野に東大医学部の前身である西洋医学所を建てる計画に意見を求められた際に、上野の貴重な緑地は公園にして残すべきだと進言したため、「上野公園の父」と言われています。ちなみにこの銅像は、上野公園開園100年に当たる1973年に、写真の間違いから、先に来日していた弟さんの像を建ててしまい、2006年になってから本人の像に替えられたエピソードがあります。
「そんなことってあるの?」
と一同大うけでしたが、オランダ領事を務めていた弟さんの像は、現在は神戸のポートアイランド北公園で海を見つめていると聞いて、ほっとした笑顔が見られました。
◇リニューアルした公園口広場
JR上野駅公園口を出た広場は、令和2年にリニューアルされました。それまで、駅の正面には、往来の激しい車道があって、信号待ちの乗降客で混雑していたのですが、当時を知るとびラーからは、
「本当にここは快適になった、前は危なかった。」
と声があがります。現在は、広場の南北に造られたロータリーで車はそれぞれ行き止まりになっており、駅を降りた来園者が、安全で快適に公園に入れるようになりました。上野駅も一緒に、改札口が北寄りに改修されて、改札から上野動物園の正門が、まっすぐ正面に見えるようになりました。
駅を降りると、左手には東京都美術館と同じく前川國男設計の東京文化会館、その向かいにはル・コルビュジェ設計の世界文化遺産に指定された国立西洋美術館があります。とびラーたちはひととき、西洋美術館で見た展覧会の話題に花を咲かせていました。
◇西郷さんは西郷さんに似ていない?
東京文化会館の裏手から桜広場に進むと、上野寛永寺の祖である天海僧正の毛髪塔があります。なんと108歳の長寿だったそうで、お墓は家康と一緒に日光東照宮にあるそうです。
隣にあるのは、上野戦争で幕府の降伏と江戸城無血開城に納得せず、上野戦争で明治新政府軍に敗れた悲劇の侍たち「彰義隊」のお墓です。
「上野戦争や彰義隊のことは今まで知らなかった」
「そんな悲しい歴史が上野にあったんですね」
と江戸時代終焉時の志士に思いを馳せて手を合わせました。
その先、上野台の先端には有名な西郷隆盛像があります。意外にも、知っていたけど見るのは初めてという人が多くいました。西郷像は「西郷さんに似ていない」という説があるのですが、西郷さんは写真嫌いだったため、有名な肖像画も弟と従弟の姿を参考にして描かれたものなので、そう言われているようです。西郷像の除幕式で、奥さんが『あれまあ!うちの人はこんなお人ではなかったのに!』と言ったのがことの起こりらしいのですが、奥さんは着流しの姿で兎狩りをしている西郷像の身なりが気に入らなかった、もっときちんとした人だったと言いたかったというのが本当のところのようです。とびラーはみな、この像が兎狩りの様子だということに驚いていました。確かに、のんびりと犬の散歩をしているように見えます。
上野のランドマーク、西郷さん像とその周辺を詠んだ探検かるた。彰義隊の墓や、花見のにぎわいも有名です。
上野に大仏があるのをご存じでしょうか。天海僧正が、京都や滋賀の風景を見立てて、江戸に再現したもののひとつが大仏です。この大仏は安政年間の地震や、関東大震災などで何度も頭部が落ち、現在では顔面部しかないため、「これ以上落ちない」ということで受験生に人気があります。「合格祈願」の文字が書かれた桜の花の形の絵馬がたくさんかけてあるのを見て、
「お顔だけになってしまってかわいそう。」
「ご利益ありそうだから受験生に教えてあげなくては。」
と知られざる名所にわいていました。
◇上野の洞窟・穴稲荷
外国からの観光客で大変にぎわう、朱塗りの鳥居が並ぶ花園稲荷神社の細い参道は幻想的で、下っていくとどこか違う世界に入っていきそうです。下りた右手に社殿があり、左手の斜面に探検隊の心が騒ぐ秘密の場所、洞窟がありました。鉄格子の扉を開けて中に入るとそこが、寛永寺を建てる際に、天海僧正が住処を失ったきつねを哀れんで掘らせた穴稲荷です。
「まさに秘密の場所ですね。扉の中に入れるとは知らなかった」
「東京の真ん中で、異次元の世界に入る気持ち」
と、どきどきしながら一人ずつ、暗く、ひんやりとした通路をそろそろと進み、薄明りに照らされた祠に、静かに手を合わせてきました。
このあたりの上野台の斜面林は、はるか昔に不忍池が海だった名残で、海岸沿いに育つシイやタブの木が多く見られる環境で、大きな木々が神社を包んでいます。
◇絶景かな清水の舞台
山の上から不忍池を見下ろすように、京都清水寺を見立てて作られたのが清水観音堂です。清水の舞台のすぐ下には、広重の「名所江戸百景」にも描かれた、太い枝をぐるりと輪の形に仕立てた「月見の松」があります。明治の初めに、台風の被害で松は失われてしまったのですが、江戸の風景を復活させようと、2012年に150年ぶりに植えられたものです。輪をのぞくと、下に不忍池の辨天堂がちょうど見え、みんな江戸時代にタイムスリップして、代わるがわるに写真を撮っていました。
桜の名所で有名な上野公園ですが、園内に50種類以上のサクラが植えられており、ソメイヨシノを中心に、早咲きと遅咲きのサクラの花を長い期間楽しめるようになっています。探検を行った2月にも、早咲きのカンザクラの花に、メジロが蜜を吸いにきていて、かわいいしぐさに癒されました。
花の蜜を吸うメジロは人気者。不忍池を見下ろす清水観音堂の月の松。辯天堂の龍の天井画に歴史を感じます
◇弁天島は発見がいっぱい
清水観音堂から階段を下ると不忍池の畔に出ます。不忍池の中央には、琵琶湖の竹生島を模して造られたという島があり、弁財天を祀る弁天堂があります。不忍池の弁天様は、八本の腕のそれぞれの手に煩悩を破壊する武器を持ち、頭上には「宇賀神」という人頭蛇身の神様を乗せています。宇賀神像はお堂の手前にもあり、今年は巳年ということもあり、関心が集まっていました。
お堂の天井には、児玉希望画伯による迫力のある龍の天井画が描かれ、とびラーが集まって拝見していると、誰からともなく対話型鑑賞が始まりそうでした。
弁天堂の周囲には、「ふぐ供養碑」、「魚塚」、「スッポン感謝之塔」「包丁塚」など、様々な供養塔や記念碑がたくさんあります。「めがねの碑」には徳川家康の愛用した眼鏡がかたどられていますし、「暦塚」は日時計になっています。
「徳川家康って眼鏡かけていたの?」
「小学校に日時計があったわ。正確に時間を示しているんですね。」
と、ひとつひとつをじっくり見てまわりながら、誰がいつ、何を思って建てたのか、碑文を読みながら楽しんでいました。
◇上野の自然とパワースポット
弁天島を西に渡ると、左手にスワンボートが浮かぶボート池、右手が上野動物園の区域の鵜池です。水辺には冬を日本で過ごすカモやカモメ、カワウなどがたくさんいて、望遠鏡を使ってバードウォッチングを楽しみました。
「人手が多いのに不忍池にはたくさん野鳥がいるんですね。」
「パンダに似ているかわいいキンクロハジロちゃんの大ファンになりました」
園内には随所に大木があり、丹精を込めて管理された季節の花壇や、所々では「いいにおい!」と花の香りに立ち止まり、普段気づかなかった上野の自然を満喫することができ、
「桜だけじゃないんですね。知らない植物などをもっと知りたいと思った」
「新しい品種の木や、植物の手入れの様子、花といっても知らないことが多かったです。」
という声も聞かれました。
望遠鏡をのぞいて初めて見る野鳥の美しさを堪能
東京都美術館に戻る途中、最後に噴水広場で上野のパワースポットを探しました。駅改札と動物園正門を結ぶ線と、東京国立博物館と桜通りを結ぶ線の交点、上野のおへそです。みんなで下を見ながらうろうろ。
「あった!これだ!」
石の舗装に小さく「+」が刻まれているのを見つけました。
「今後は都美への行き帰りには必ずや秘密のパワースポットでエネルギーchargeすること間違いありません。」
「+印のパワースポットで定期的にエネルギーチャージしたいと思います。」
と、みんなで代わるがわる+印の上に立ち、なんだか足取りも軽く、都美へと帰る探検隊でした。
◇探検を終えたとびラーたちの感想
東京都美術館に戻り探検をふりかえると、みんなそれぞれに印象に残った場所が違い、上野公園の見どころの豊かさを感じました。身近に思っていた上野公園も、みんなで探検することで知らない世界を見つけることができたようです。
「いつも通り過ぎるだけだった場所も、がぜんクッキリと見えてきました」
「上野の奥深さを改めて認識」
「行ったことのないエリア、本当に知らないことばかりで、上野をより知ることができた」
「たくさん発見をしたので、ますます上野公園が身近になりました。」
「今度1人でゆっくり上野公園を回ってみようかなと思います。」
「みなさんといっしょにおしゃべりしながらの探検、楽しい時間でした」
「季節ごとの上野を味わいながら歩いてみることの楽しさを実感」
「銅像から伝統や文化を知り、自然を感じることができた」
「時代毎のニーズなどを踏まえて公園が変化していく様子を知ることができて面白かった」
「みんなと見ると楽しい、ちょっとしたつぶやきから発見が広がりました」
3年間、とびラーと上野公園の探検を続けてきました。観察力が鋭く、楽しむことに長けた仲間と歩いていると、少し詳しいつもりになっていた公園に、こんなにも新しい疑問や発見が湧いてくるのかと、わくわくの連続でした。上野公園が奥深いのは、江戸時代から続く様々な人や自然のドラマが集積されているからだと思います。多くの文化施設が集まり、今日もたくさんの人でにぎわうのも、自然の摂理なのかもしれません。とびラーの活動も、この上野公園の歴史の一ページになっていけたらと思いました。
みなさんもぜひ新しい発見を見つけに、上野公園の探検にいらしてください。
執筆:とびラー11期 曽我 千文
公園を造ったり管理したりする仕事をしています。公園の中にある大好きな東京都美術館でとびラーとして活動できた3年間は至福の時代でした。公園と美術館という、どちらも幸せの場所で、みんなに幸せになってもらうために歩き続けたいと思います。
2025.03.01
東京都美術館では「とびラーによる建築ツアー」をおこなっており、「とびらプロジェクト」で活動するアート・コミュニケータ(とびラー)がガイドとなって、グループに分かれて対話しながら東京都美術館を散策します。今年度は6回開催しました。
この建築ツアーでは決まったコースがありません。とびラーたちは事前にお互い相談しながら、当日の館内の状況や混雑具合、天候などを想定して、コースや話す内容を考えています。しかし予期せぬことは起きるものです。コースを臨機応変に変更をしたり、参加者の興味に合わせて話題を転換したりできるように準備して、参加者をお迎えしています。
全6回の様子の一部をご紹介します。
第1回(5月12日開催)の様子
おひとりで参加する方や親子連れなど、様々な参加者がいるのも「とびラーによる建築ツアー」の楽しいところの1つです。最初にグループみんなで簡単にお話し、緊張がほぐれてからスタートします。
第2回(7月20日開催)の様子
暑さが本番になった7月。とびラーは、館内や木陰などを多く取り込むなど、暑さを考慮したツアー構成をそれぞれ考え、臨みました。
第3回(9月21日開催)の様子
どうやって東京都美術館の建物を味わってもらおうかと、とびラーは毎回考えています。実際に触ったり、じっくり眺めたりする時間を設けるグループもありました。
第4回(11月23日開催)の様子
「とびラーによる建築ツアー」は対話をしながらツアーを進めていきます。とびラーたちも参加者とのコミュニケーションを毎回楽しんでいます。
第5回(2025年1月25日開催)の様子
建物を紹介する上で、難しい言葉や聞き慣れない言葉を使う必要があるときがあります。とびラーたちはフリップや資料を用意して、参加者にわかりやすくお伝えする工夫をしています。
第6回(3月1日開催)の様子
今年度最後の建築ツアーでは、手話でお話しする方にも建築ツアーを体験してもらおうと、手話対応グループを1つ設けました。難聴のとびラーがガイドとなり、日本語対応手話を使って東京都美術館の魅力を紹介しました。ほかにも、ろう者や聞こえにくい方が参加される場合は、UDトーク(音声認識技術を使って会話やスピーチをリアルタイムに文字起こしするアプリ)を使ってガイドを実施しました。
「とびラーによる建築ツアー」では、ガイドによって紹介する見どころはさまざまです。そして、季節によって東京都美術館を囲む上野公園の四季折々の美しさも異なります。
参加するたびに新たな発見に出会える建築ツアーとなっていますので、ぜひみなさんのご参加をお待ちしております!
2025.02.08
第7回建築実践講座|「ふりかえり」
日時|2025年2月8日(土) 13:30〜16:30
会場|東京都美術館 ASR・スタジオ
この回は、建築実践講座のふりかえりや年間課題から「今後アート・コミュニケータとして建築を題材にして取り組みたいことは?」を考える最終回でした。
今年度の建築実践講座の年間課題は2つありました。
■ 年間課題① 「建築を、みる、楽しむ、伝える」
<目的>「誰かとみる」を楽しむ。
<内容>
東京都美術館以外の建築ツアーや建築関連のイベントに参加するなど、誰かと建築を楽しもう。
■ 年間課題②「東京都美術館を、誰かと、巡る」
<⽬的>「誰かを案内する」を楽しむ。
<内容>
家族や友達など⾝近な⼈に対して、東京都美術館を案内するツアーをしてみよう。館内の混雑状況、⾃分ひとりで対応できる⼈数(最⼤ 5 ⼈くらい)を考慮した上で、どんなツアーがよいか考えて実践してみましょう。
講座では、まず各々がおこなった年間課題①を思い出し「課題①をやってみてよかったこと」を考え、3つ選び、それらをグループでシェアしました。
たとえ同じツアーに参加していてもよかった観点はさまざまで、活発に語り合いました。その後はグループ内でよかったこと3つを選びました。
その後、第1回から6回までの講座内容をふりかえりました。
そして、課題①のよかったこと、課題②をやってみてきづいたこと、講座のふりかえりから「今後アート・コミュニケータとして建築を題材にして取り組みたいことは?」をそれぞれ考え、グループでシェアしました。
とびラーからのふりかえりを抜粋します。
ーーーーーーーーーー
・1年を通して、講演や実践を通して広くそして深く建築について考える機会をいただけたと感じました。特に建築ツアーはやってみてきづくことが沢山あり、これからもとびラー同士また他の施設の建築ツアーにも参加してブラッシュアップしていければと思います。また建築の人と人を繋げる役割にも気づくことができ、藝大部屋を始め、地域とのつながりをもちながら様々な人が交わる拠点にもなる可能性を感じました。
・建築だけではなく、どんなアートもそうですが、一人ではなく誰かと一緒に何かをみることは発見も多く、楽しいものです。建築を通して、そうした「とびラーとして当たり前」の感覚を多くの人に伝えるられるよう、今後も活動していきたいと思います。
・建築の使われ方はもちろんですが、その時代、その場所だからこそ生まれた建築について、土地との接続がどのように建築に表現されているのかを知り、考えることが、文化財や環境保全にもつながるのではないかと思うようになりました。
・専門家でなくても、その建築に対して自分がこれだけは伝えたいという思いがあれば、参加者は説明とともに建築を楽しむことができるのだなといろいろな建築ツアーに参加して強く感じました。
ーーーーーーーーーー
2024年度の建築実践講座の目標は「東京都美術館の建築の歴史や背景を理解し、自分の感覚を手掛かりに建築を味わう力を身につけ、美術館というパブリックな建築を介して人々をつなぐ場をデザインする」です。
今年度の建築実践講座は終わりますが、建築を味わうことに終わりはありません。それぞれの興味関心で建築を味わい、各々のペースで建築を楽しんでほしいなと思います。
そして、とびラーは3年の任期満了後それぞれのコミュニティに戻ります。この講座での学びや体験の種が、多様な人たちと「対話」を通して活動として芽吹き、広がっていくことを願っています。
(とびらプロジェクト コーディネータ 西見涼香)
2025.02.02
執筆:11期とびラー 曽我千文
ある一冊の本を読み終わり、「この本はとびラー(東京都美術館アート・コミュニケータ)なら、きっと面白がってくれるんじゃないかな」と思ったのをきっかけに、推しの本をテーマにしてラボを立ち上げました。読書会ではなく、もっと気軽に持ち寄った本を手に取り、交換しあう場を、本屋さんのイメージで形にしました。それが「とびら堂書店」です。
とびら堂書店からは、「いらない本」ではなく「仲間にすすめたい本」を、自分の本棚から選んで持ってきてくださいと呼びかけました。リサイクルではなく、とびラー仲間に渡す本のバトンです。
コンセプトを考える過程でできあがった店の看板には「Gift×Gift ~誰かのもとへ、本の旅~」という言葉を入れました。美術館という非日常の場所での「出会い」や「関わり」の中で、お互いを尊重しあい、新たな価値を生み出していく感覚を、「Gift×Gift」という言葉で、そして、手元に置いておきたいお気に入りの本を、あえて誰かに手渡していくことを、「本の旅」と表現しています。
こうして、2025年2月2日(日)に、とびら堂書店を開店しました。とびらプロジェクトの掲示板で呼びかけたあとに、活動で集まった仲間に紙のちらしを配って呼びかけたりもしましたが、交換できるだけの本が集まるのだろうかと心配でした。開いてみると、とびラーとスタッフ26人から、36冊の本が集まりました。
テーブルに平置きされた本の表紙に、マスキングテープで貼った図書カードに書かれた「おすすめポイント」からは、とびラーの本への愛、興味関心どころが伝わってきて、今日は本を持ってこれなかった人も、受け取る本を選ぶ人も、熱心に読んでいました。
【とびら堂書店の当日の流れ】
(ステップ1)「本を集める」
ひとり2冊まで持ってきた本を、記入した図書カードを表紙に貼って出す。
本を出したらチケットを受け取り名前を書く。(2冊なら2枚)
(ステップ2)「本を選ぶ」
書店に置かれた本から、欲しい本を選んで自分のチケットを貼る。
(ステップ3)「本を受け取る」
選んだ本に貼られたチケットが1枚なら、そのまま本を受け取る。
ふたり以上がチケットを貼っている本は、希望者同士でじゃんけんして受取者を決める。じゃんけんで負けてしまった人は、次の本を選ぶ。2冊出した人は2冊受け取る。
【とびラー来店者の声】
・とびラーに譲る本を選ぶのは楽しかった。
・どんな本と、どんな想いに出会えるのか楽しみだった。
・最近電子書籍にしているので手持ちの本がない。手放せる本がなかった。
・今日は本を持ってこなかったけど、みんなのおすすめの本を見られて面白かった。
・読みたい本がたくさんあった。メモして買うつもり。
・定期的に開店して欲しい。
・書店じゃなくて図書館にしてとびラー同士の情報交換の場にできたらいいな。
・受け取った本は宝物にします。「おすすめポイント」のコメントが嬉しいです。
【ラボメンバー書店員の声】
・「おすすめポイント」を書くのが結構むずかしく、本屋さんのポップを見る目が変わりました。私はうまく書けなかったけど、みんなの図書カードはすてきでした。
・原田マハさんの小説のような定番もありながら、多様性に富み、かつ皆どこかとびラーっぽく、それぞれがどの本をだそうか悩んでいる姿が目に浮かぶようなラインナップでした。
・あくまで印象ですが、受け取る本は実用的な本よりも、心象に踏み込むような小説や哲学の本を希望する人が多いと感じました。
・報告用にお取り扱い本の書名リストを作っていたら、ひとつひとつの「おすすめポイント」に心打たれ、みんなにも共有したくなって、急ぎ写真から、ことばを拾いました。
・最初、ラボ掲示板に反応がなく「みんな本には関心がないのかな」と意気消沈しました。とびラーと本との親和性を信じて、図書カード付のちらしを配ったりもするなかで、じわじわと仲間が集まり、当日はとっても素敵な本たちが旅立っていきました。あきらめなくてよかった。
・書店を開きたいと妄想を話したら、速攻で看板を作ってくれた仲間に背中を押してもらいました。コンセプト、イメージカラー、ロゴマークを使うことで、訴求力が高まっていった様子から、デザインの力の大切さを感じました。大人のごっこ遊びのようですが、紺色のエプロンを身に着けることで、書店員としての気持ちも上がりました。
・絵本ラボとコラボレーションして「とびら堂書店絵本館」を開けないか考えています。誰かのもとへ、本の旅!またのご来店をお待ちしています。
【本日のお取り扱い書籍リスト】
執筆:11期とびラー 曽我千文
野鳥が好きなので、鳥に関する本は手放さずにコレクションにしています。とびラーになってからアート系の本も増えてきて部屋が大変なことに!憧れの書店員は、仲間の顔を思い浮かべて本を手に取る至福のひと時でした。
2025.01.29
\フォーラム第一部 アーカイブ映像公開!/
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東京都美術館×東京藝術大学「とびらプロジェクト」フォーラム
日程|2025年1月26日(日)
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第一部アーカイブ映像はこちら▶︎https://youtu.be/Q79j6TjF9nk
当日の詳細はこちら▶︎https://tobira-project.info/f2025
※字幕画面には、当日のリアルタイム日本語字幕画面をそのまま収録しています。ご了承ください。
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【第一部】
時間|13時〜15時30分
場所|東京都美術館 講堂
定員|220名(事前申し込み制)
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プログラム内容:
● とびらプロジェクトとは?
小牟田 悠介 東京藝術大学 特任助教 とびらプロジェクトマネジャー
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● アート・コミュニケータトーク
「関わりからうまれるクリエイティビティとは」
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熊谷 香寿美
東京都美術館 学芸員 アート・コミュニケーション係長 とびらプロジェクトマネジャー
小牟田 悠介
東京藝術大学 芸術未来研究場 ケア&コミュニケーション領域 特任助教 とびらプロジェクトマネジャー
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とびラー
後藤 麻木(ごとう まき)
井戸 智子(いど ともこ)
馬場 里美(ばば さとみ)
平野 七美(ひらの なみ)
木下 知威(きのした ともたけ)
山本 祐介(やまもと ゆうすけ)
正木 伶奈(まさき れいな)
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とびラーの任期を満了したアート・コミュニケータ
水上 みさ(みずかみ みさ)
・
● ディスカッション
「交差するミュージアム」
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日比野 克彦
・アーティスト 東京藝術大学学長
中原 淳行
・東京都美術館 学芸員 学芸担当課長
熊谷 香寿美
・東京都美術館 学芸員 アート・コミュニケーション係長 とびらプロジェクトマネジャー
小牟田 悠介
・東京藝術大学 芸術未来研究場 ケア&コミュニケーション領域 特任助教 とびらプロジェクトマネジャー
・
主催:東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、東京藝術大学
企画・運営:東京都美術館×東京藝術大学「とびらプロジェクト」
映像制作:らくだスタジオ
・
※字幕画面には、当日のリアルタイム日本語字幕画面をそのまま収録しています。ご了承ください。
・
2025.01.27
12月4日、黄色く色づいた銀杏が青空に映える暖かな日に、東京藝術大学(以下、藝大)上野校地絵画棟へ向かいました。エレベーターで8階まで上がると油絵の具の香りと共に、廊下には様々なキャンバスが立てかけられています。少し緊張しながらドアを開けると、大きな窓から光が入る明るい部屋でにこやかに宮林さんが迎えてくれました。
ー 幼少期から今に至る絵との関わりを教えてください。
幼稚園の頃、人見知りだった私を見て、母が近所の絵画教室に通わせてくれたのが、絵を描く始まりでした。それから高校2年生まで約15年、その教室に通いながらずっと絵を描いていました。 絵を描くことはごく自然なことで日常の中に絵がありました。小学校2年生ぐらいの時に将来の夢を聞かれて、画家と答えたのが記憶に残っています。画家になるためにはどうしたらいいのか考えるようになった中学校の頃に、絵画教室の先生から「美術大学」というものがあると教えてもらい、大学進学先を美大にしようと決めました。
油画を選んだ理由は、中学生の頃から自分にあっていたのと、油絵の技法や質感に魅力を感じていたこと、さらに先生の個展で見た油絵の質感に強く惹かれたからです。大学は多摩美術大学(以下、多摩美)に入学し、学部3年生の後期に半年ドイツに留学しました。好きなドイツの作家が何人かいたことや、多摩美でお世話になった村瀬恭子先生から聞くドイツのお話に興味を抱いていたことがきっかけです。さらに、交換留学のプログラムにベルリン芸術大学があると知り、迷わず留学先に選びました。
その後、藝大の大学院を受験してみようと思ったのは、多摩美で次の進路を考えていた時に、尊敬する薄久保香先生が教授に就任されることを知ったからです。以前から先生のもとで学びたいと思っていましたし、ベルリンで先生の個展(二人展)を拝見していた経験など、さまざまな偶然が重なりました。学部の時の志望動機とはまた違った志望動機で藝大を目指すことになりました。
ー ベルリン留学で気づいたこと、得たことがありますか?
当初、英語もドイツ語も全然分からなかったのですが、ベルリン芸術大学の先生が非常にシンプルな言葉で話してくれたおかげで、考える幅を広げることができました。たとえば、ある単語について、単語自体は知っているけれど、先生が言っているこの単語の周囲にあるものは何だろうと掘り下げて考えることができるようになりました。また、先生が私の絵を見て「良い部分」と「良くない部分」を指摘してくれ、その違いは何なのか、自分で基礎的なことをじっくり考える時間が増えました。初めは考えをまとめるのに非常に時間がかかりましたが、制作方法を紙へのドローイングに絞るなど、シンプルにすることで短い留学期間を濃密に過ごせたと思います。また、言語が不十分な分、コミュニケーションがより身体的で人間味のあるものになったと感じました。その後、東京藝術大学に進学してから迎えた2021年から2023年の2度目のベルリン留学では、ドイツ語を改めて学びました。言葉が通じるようになると、相手との距離感が縮まり、本当に些細なコミュニケーションで勇気をもらえることがありました。ドイツの冬は毎日とても暗く、寒く、空は灰色でしたが、そんな中にも光が宿る瞬間がありました。例えば、朝の太陽の光や、ちょっと誰かに微笑んでもらえた時など。そういった些細な日常での出来事が、なにか「土の上で生きている感じ」がしました。それは制作をする時の「土の中を触っていく」ような素材との向き合い方にも繋がっているような気がします。
ー 留学前後で作品に変化があったということでしょうか?
留学前は、すでに地塗りされてツルッとしたキャンバスに目に見えるものを描くのが自然だと感じていました。しかし、そうした「描きたい」「見せたい」という自分の中のサイクルにどこか違和感や傲慢さのようなものを覚えるようになりました。描く前から、何を選び、何に描くかというところから絵が始まっていると留学を経て考えるようになりました。
今では、キャンバス地の布や紙といった素材に対して、無垢の状態から向き合い、素材との対話を大切にしています。自分の気持ちで一方的に「描く」だけでなく、具体的には、キャンバスの粗さ細かさ、紙の厚みや薄さによって、絵の具のオイルの染み込み方や膠(にかわ)のしわの入り方が変わってきますが、そうした素材それぞれが持っている力、「こちらに働きかけてくる力」のようなものを見ています。素材をコントロールすることとされること、または、描くことと描かされることが同じくらいのバランスでありたいと思っています。どちらか一方に偏ってしまうことなく、その微妙なところに意識を向けるようにしています。ちょっと足りない、不安定な状態でいることがいいなと思うんです。それは次の制作に繋げるためでもあったりします。
ー 卒業制作について教えてください。
展示する場所を意識しながら制作を進めています。今回展示をする絵画棟5階の南側の部屋は、大きなガラス窓からは外の景色がはっきりと見渡せて、1日の光の入り方や動き方がとても変わりやすいのが特徴です。場所と絵がどのように存在し合い、影響を与え合うのかを見ていこうと思っています。
3枚の絵は同じコットンのキャンバス地を使っていますが、同じ素材でも3枚それぞれに微妙な違いがあり、塗られていない部分の白さやその広さがどう異なって見えるかを探っています。
絵の具は日本画で使用される顔料を自分で練って作っています。顔料の粒子の動きが見えて、その粗さや細かさで色の出方が変化したり、キャンバスの地と顔料の粒が一体となって、新たな色や流れが生まれる過程を大切にしています。絵画は「レイヤー」の重なりとも言われますが、私にとってはレイヤーという面ではなく、いろいろな大きさの粒の重なりが振動している「場」のように思っています。絵を描くということは自分が絵の中を触っていく、または掘っていくような感覚を持っています。今回のテーマは「絵と場の共存を試す」というものです。
ー 作品を展示する環境を考えて制作することが多いのでしょうか。
最近は、絵を描いて終わりではないんだろうなと感じています。描き上げた絵が世に出た後、どこへいくかはコントロールできないですが、何年か先にその絵がどのように存在しているかを考えています。・・・絵が「飛んでいったらいいな」と思うんです。文字通り、物理的に飛ばしたい気持ちもありますが(笑)、絵によって何かを変えることができたらと思っています。自分は日常の中でよく目にする光景がある瞬間に全く違ったものに見える、「あっ」と思う瞬間を描けたらいいなと思っています。自分にとっては、いま目の前にある素材と向き合うことや、素材の動き方を追いかけていくことが絵を描くというリアリティなのですが、そうすることで日常の光景に何か変化をもたらすことができたらいいなと考えています。
ー 作品タイトルで大事にしていることがありますか。
タイトルに言葉としての機能を持たせないことに、意味があるのではないかと思っています。私は、言葉も一つのドローイングだと思っています。絵のタイトルではあるものの、絵そのものを表現することから離れて、言葉そのものを魅力的に一人歩きさせるような気持ちでつけています。
詩を読むことが多いのですが、言葉の強さがその言葉の意味を超えて魅力的に存在していると感じます。その魅力に興味があるんです。
作品によっては最初から言葉があったり、完成後に絵と向き合って言葉が出たりすることもあります。今回の制作に関しては絵一つ一つにはまだタイトルをつけていません。修了制作全体のタイトルはひらがなで「このはのまど」です。
ー 修了後の展望を教えてください。
一つ目標としているのが、88歳になるまで絵を描き続けることです。88という数字に特に理由はありませんが、これまで私の精神的な支えになってきた憧れの詩人や作家、画家の女性たちが皆長命で、おばあちゃんになるまで制作を続けているからです。そしていろいろな人とコミュニケーションをとり、いろいろな国を訪れたいと思います。藝大を修了したら、ドイツに戻り、学生ではなくアーティストとして活動していきたいです。母国語ではない言葉で活動してみたいです。私にとって、生活と制作が地続きになっているので、場所が変わり、言葉やコミュニケーションや出会う人が変わることで気付かされることが多いです。海外生活は不自由なことも多いですが、それも面白さだと思っています。
また、陶芸などキャンバスや紙ではない他ジャンルとの共同制作にも関心があります。絵を軸にする私にとっては、「絵」の可能性をどうやって広げられるかなとずっと考えています。
ー ベルリンは宮林さんにとってどんな場所ですか?
ベルリンは、思ったよりも「ヨーロッパらしさ」を感じない街ですが、その分、とても国際的で、さまざまな国から人が集まっています。また、ギャラリーや美術館もたくさんあって、美術という枠の中でもとても雰囲気が感じられます。そして住んでいる人たちの過ごし方には、どこかゆとりがあるように思います。2024年春に再び3週間ほどベルリンに訪れた際、多くの人が東京とは違って朝8時、9時でもカフェの時間をゆったり楽しんでいるのが印象的でした。日曜日はスーパーやデパートが全部閉まっているので、天気が良ければ当たり前にピクニックをしたり、公園で太陽の光を楽しんだりしています。みんな携帯電話も使っていますが、一旦そこから離れる時間がを大事にしているように感じます。
ー 絵を描いている以外はどんな過ごし方をされていますか?
歩くことが好きです。歩いて見えてくるもの、例えば葉っぱが揺れるとか、そういうものを見逃さないようにしたいと思っています。ただ、そのような自分の記憶とか体験は作品とは直接は結びつけないようにしています。体験はただの体験として貯めておいて、制作はそのときの絵と自分との関係性だけで行うようにしています。
今後も制作の場所を変えたり、たくさんの人に出会って、どのように宮林さんの作品が変容していくのかがとても楽しみです。今日は本当にありがとうございました。
インタビューを終えて
初対面の緊張の中で、まず、宮林さんの紡ぎ出す言葉の独特な魅力に惹きつけられました。そして、宮林さんの眼差しや考え続けてきたことを伺ううちに、作品に普遍性を感じるようになり、気づくと紡ぎ出された言葉の数々が私たちの頭や心にはっきりとした”動くドローイング”のようにイメージを映していました。
まっすぐな姿勢でご自身の気持ちや感覚を探るように話す様子や丁寧な制作プロセスに接して、私たちも生活する、表現するということに純粋に意識を戻してみたいなと思うきっかけになりました。
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「その素材それぞれが持っている力、こちらに働きかけてくる力のようなものを見るようになった。」というお話は、人と人、人と物とも分け隔てなく、対等でありたいという願いや気持ちの現れなのかなと感じました。丁寧に時間をかけて作り上げていく作品を、これからも注目し続けていきたいです。
(山田理恵子)
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「何かがきっかけで見えてくるものを見逃さないようにしたい。」という言葉が印象的で、絵を描くことに真摯に向き合う姿が凛とした透明感のある佇まいに現れていて、88歳になってもそれは変わらないのだろうなと感じました。これから作品がどんなふうに変わっていくのかも楽しみです。(井戸智子)
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インタビューから数日経つ今になって、作品がお話の中の言葉やアトリエの光とあいまって、いろいろな印象・映像で私の日常にじわじわと広がったり、ふとした瞬間に現れたりしています。「将来どんな風に作品が存在しているのかを考えている」というお話の意味はこんなことでもあるのかなと今はとらえています。(斎藤朱織)
2025.01.24
2024年12月6日。空の青と、風に舞うイチョウの葉っぱの黄色が美しい上野公園を抜け、私たちは東京藝術大学の絵画棟へ向かいました。日本画科のフロアの廊下には、学生さんが脱いだ靴がたくさん並んでいました。私たちも靴を脱いで部屋に入ると、背筋をピンとまっすぐに伸ばして微笑む渡辺千菜さんが出迎えてくれました。
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ー これが卒業制作の作品ですね。
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そうなんです。1月末に卒業・修了作品展があるので、締切の1月初めに向けて進めているところです。制作自体は後期の10月初めからスタートしたんですけど、この大きな画面に色が入ったのは11月くらいです。
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ー 作品のテーマやコンセプトについて教えていただけますか?
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モチーフは、今住んでいる場所の近くのお花屋さんです。暗い店内で、店員さんが待ちぼうけしている感じが面白くて気になっていたんです。
そこでひまわりを買ったんですけど、「開花してないから安くしてあげる」みたいな感じで、「まだ咲いていないし、これから咲くのに安くなるんだ」って、お花の価値のことがとても印象に残り、その時に感じたことを描こうと思ったんです。
咲いてない花の価値って何だろう…。まだ未熟な…、うん、人みたいな。これから大成する、もしくはいつ大成するかわからないものを、最初は値段を安くして、だんだん大成したら価値が上がってくるのが、なんだか人みたいだと思って印象的だったんです。この作品の中の店員さんに、「焦らないでそれを気長に待ってる人」という意味をこめました。身近なお花屋さんをモチーフに選んだ理由のひとつは、その時の感情を忘れないように、何度でも実際のお店を見に行けるからです。
ふだん大学にいると、面白い絵を描く子やセンスのある子を見て焦っちゃうんです。自分があまり面白くないものを描いちゃっているんじゃないかって…。人に、自分が藝大生であることを言うと、それだけで「すごい」とか「好きなことやっていていいね」と言われますけど、すごく努力して入学してきている学生ばかりです。でも、絵の人生は長いです。先生方を見ていると、焦らずに気長にのんびりやっていこうって思います。
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ー 10月から描き始めたとのことでしたが、今の形になるまでどんな風に作業を進めてきたのでしょうか。
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普段からよく人を描いているので、人物をよく見せたくて描き始めました。人物だけじゃなくて、全体の空間の見え方が面白いなと思ったので、あえて人物をガラス越しに見せるようにして、存在感が出過ぎないようにしました。実はこの人物は、妹にモデルになってもらったんです。
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基本的に、毎日その日に作業した作品の写真を撮って家に帰り、iPadを使って色味を暗くしたほうがいいところや手を入れすぎたところを画面上で編集し、翌日の制作に活かしています。
例えば、このひまわりに目を向かせたいのに、それ以外のチラチラしたところが見えすぎてしまうので、iPadの画像編集機能で暗く抑えてひまわりに自然と目が行くよう、iPadの画面上で練習するイメージです。そうしてようやく今の形になりました。
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ー この部屋だけではなく、家でも作業が続いてるんですね。
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そうですね。特に卒業制作なので、後悔したくないと思い毎日頑張っています。
大体みんな大下図(原寸大の下絵のデッサン)の段階で完成のイメージを出しているんですけど、私はそれが苦手で、徐々に進めてきた感じです。
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ー 日本画を描き始めたのはいつ頃からですか?
大阪で美術系の高校に通っていて、高校3年生からです。それまで油絵をやっていたのですが、日本画の先生と出会って、先生や学校から勧められて始めました。
元々、油絵の時も写実的な人物をよく描いていて、色味も落ち着いたトーンでした。その時の先生から「日本画の方が特性を活かせるんじゃない?」というアドバイスをいただきました。落ち着いた色彩で、日本画っていいなと思ったのがきっかけです。
実はバレエを習っていたことがあって、当時から人間の身体の動きや、身体が表現するものにとても関心があったんです。レッスンするより、周りの子たちを見る方が楽しかった。だから人物画が好きなんだと思います。
両親が美術好きで、夏休みの絵はちゃんと描かないと怒られていました(笑)逆にそれ以外の勉強はあまり怒られませんでしたね。それをすごいプレッシャーに感じていた時期もありました。
父は建築関係の仕事、
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ー 日本画は油絵のようにチューブから絵の具を出してすぐ取り掛かるという風にはいきませんよね。準備段階で絵の具を作るのにも時間がかかると思うんですが、もどかしさは感じたことはありますか。
はい、あります(笑)特に、私はせっかちなので。
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ーえぇ〜!せっかちに見えませんよ。おっとりさんに見えます。
今回の作品は、これでもだいぶ練った方なんですけど、普段の大学の課題だと、あんまり煮詰まりきらないまま早く彩色に入りたくなってしまって、失敗することが結構ありました。
色は多少変更することはできるんですが、モチーフの配置を変えたりなど構図を変更するのは、日本画では難しいんです。構図に関しては下絵の段階でものすごく綿密に考えていかないといけないのですが、この4年間で何度も失敗しました。でも、そんな風に制限がある方が楽しめます。
1〜2週間に1回ぐらい先生たちがいらしてアドバイスしてくださるんですけど、「あんまり描き込みすぎて写実的になりすぎると見る人にとって説明的すぎて面白くないから気をつけてね」と言われたりもします。
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ー 画材について教えていただけますか?
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この袋から粉末状の岩絵具を出して、絵皿に移して膠(にかわ)※と混ぜてから水分量を調節して使います。この絵の具の袋に色の名前が書いてありますが、名前の横に数字が書いてあって、数字が若ければ若いほど粒子が粗くなるんです。これはほとんどが天然素材です。全部の色に漢字の名前もついています。こっちのカタカナの名前の色は比較的最近作られたものです。
水と膠の分量も、膠の量を調整して、描いていくうちに段々と濃度を薄くしていかないと画面の中で絵の具が割れてきちゃうんですよ。絵具を塗り重ねて層になった時、上の層の膠の粘着力が強いと下の層を引っ張って割れてしまうので。また、粒子が細かい絵具を重ねすぎると割れやすくなるので、粗いのと細かいのを交互に重ねます。そうやって私は強度を高めていくように意識しています。
※膠(にかわ)・・・動物の皮や骨、腱などを煮出してコラーゲンを濃縮し、固めて乾燥させた接着剤
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ー 刷毛や筆など、道具の使い方にも工夫があるんですか。
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例えばこういう横線は、一度絵の具を塗ってから櫛で引っ掻いて木目を表現しました。
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この作品はキャンバス(布)ではなく、和紙を使っています。
まず、和紙全体に下地を塗っています。部分によって違いますが、最初に赤を引いて、次に緑・青を重ねて、そこを削り、洗い落とします。和紙は結構丈夫なんですよ。
とはいえ、岩絵具も天然由来の鉱石から作られているし、刷毛や筆に使われている動物の毛なんかもだんだん捕れなくなってきているので、今ある在庫がとても貴重なんです。材料が失くなってしまうかもという危機感がありますね。
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ー 今回花屋さんを題材に選びました。何か今感じていることがあったら教えてください。
日本画を描くようになって花が好きになりました。それまでは花なんか別に生きていくことには必要ないものだと思っていたんです。でも、冠婚葬祭で見る花や、お祝いなんかでいただくとやっぱり嬉しい気持ちになるし、部屋の中に自然のものがあるだけで明るくなりますよね。人間が自然を破壊して建物などを建てているにも関わらず、そこにまた新しく公園を造ったりして、やっぱり人って自然とか植物がないと生きていけないものなんだって。そんなことを普段から感じています。
植物は枯れるとドライフラワーとして飾られたりしますし、人も歳を重ねて老いていきます。そういうのがとても好きなんです。最近はアンチエイジングが主流なので、自然に逆行していますよね。人も花のように老いを楽しめる人が増えればいいのに。
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ー 絵を描くこと以外の時間はどんなことに使っていますか?好きなことを教えてください
ご飯ですね。外食です。食べることが大好きなんです。お店の味はもちろん、盛り付けとか食器とか、そんなことを楽しんで感じられる時間に使っています。シェフの趣味や、お客さんのことを考えた味付けとか、身近に感じられるお店が好きです。
「食べログ」(インターネットのグルメ情報サイト)の日記機能があって、そこにほぼ毎日記録してるんです。絵も好きですけど、食べるのも好きなので、いつか記録を元に自分で挿絵を描いて本が出せたら・・なんて考えたこともあります。
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ー この先、何か見据えているものや夢などありますか。
今は大学院に進学することを目標にします。その次のことはあんまり考えていないんですけど、本の挿絵やそういう分野に関わっていけるような作品が描きたいなと思っています。
あとは、早く両親に恩返しできるように。大阪から上京して、画材もすごく高いですし、予備校に3年通わせてもらえたのは当たり前なことではないと思っています。
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ーこれからどんな作品を描いていきたいですか。
今年退官される齋藤典彦先生という教授も、抽象的な山などを描いているんですけど、若い時は写実的なものも描いていたんです。そういうのを経て徐々に抽象になってきているので、自分ももしかしたら今後、目の前の描きたいものを一生懸命描いて、これから出会う人や生活で考え方が変わって、表現も変わっていくのだろうなと思います。
今は、キレイめなものを描いていますが、さっきも言ったように、本当は枯れている植物や老いた人物を、絵として描いていきたいなと思っています。
卒業制作展には、両親が見に来るとか、やっぱり見にくる人のことを考えてしまいますが、全員に受け入れられなくても、本当に描きたいものを堂々と描けるようになりたいです。
私は、自分が思っていることを作品を通して汲み取ってもらえて、まぁ、そこまで深く考えたり答えは合っていなくていいと思うんですけど、この人はここを見せたかったのかなって思ってもらえると嬉しいですね。あとは、長時間見ていられる絵作りや自分が考えていたことが鑑賞者に伝わったらいいなと思いながら制作していきたいです。
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「枯れた花や老いた人を描きたい」とお話しされていた渡辺さん。偶然にも今回取材に伺った私たちの年代はシニア!渡辺さんが、「時間の経過とともに変化することは美しい」と捉えていらっしゃることがわかり、なんだか嬉しくなってしまいました。
制作中の貴重なお時間をいただきありがとうございました。
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インタビュー:西山美香・杉山佳世・岡田正宇
執筆:西山美香 執筆サポート:杉山佳世 写真選定:岡田正宇
撮影・編集:竹石 楓 (美術学部絵画科日本画専攻3年)
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お話を聴きながら、人や自然を表現者として見つめる、鋭さと優しさが同居するまなざしを感じました。渡辺さんの根っこから育った樹が、どんな豊かな花や実をつけるのかとても楽しみです。(12期とびラー:西山美香)
ジャンルの垣根がなくなっている今、日本画の伝統が今なお引き継がれていることに日本人として改めて感動。渡辺さんの「長時間観ていられる作品」という言葉から、繰り返し聴ける音楽など共感、思いを馳せることが多々ありました。お人柄から醸し出される透明感がそのまま漂う作品が楽しみです(12期とびラー:杉山佳世)
渡辺さんの作品の中に、自然を大切にする気持ちや日常の中での美意識を感じました。日本画の奥深さ、表現の難しさと向き合う姿は素晴らしく、柔らかな人柄も笑顔の中に感じられました。完成作品は時間をかけて観ていただきたいですね。(11期とびラー:岡田正宇)
2025.01.19
力安さんの修了作品は、修士制作のような模型等ではなく、修士論文だと伺いました。
修士論文で扱っているテーマについて教えてください。また、並行して進めているプロジェクトがあるそうですね
修士論文では「陵墓図空間考」と題して、陵墓(りょうぼ)を題材とした絵図や図面全般を、空間的な観点から解釈する研究を進めています。
また、並行して、建築科から令和5年度吉田五十八奨学基金の給付を受け、全国の天皇陵(112陵)を踏査し記録するプロジェクト「リョウボノカタチ」も進めています。
まずはじめに陵墓とは何ですか?出会った経緯を教えてください
陵墓の定義についてですが、現行の皇室典範第27条にて、天皇・皇后・太皇太后及び皇太后が葬られているところが【陵(みささぎ)】、皇太子等の皇族が葬られているところが【墓(はか)】とされ、それらを合わせて陵墓と呼ばれています。その中でも、歴代天皇が葬られているところは天皇陵と呼ばれ、有名なものだと前方後円形や円形、他には方形堂や石塔など堂塔式のものもあります。
陵墓との出会いは、小学生のころに遡ります。私は大阪府堺市出身で、世界一広大な墳墓と言われる仁徳天皇陵(大山古墳)が位置する地域に住んでいました。幼少期から身近な存在で「どうしてここに鳥居があるんだろう?」と思いつつ、歴史的で風情のあるものというよりは、友人と「たぬきを見に行こう!」と、遊びに行く場所の一つでした。小学校に入ってからそれがお墓であることを知るわけですが、特別神聖なものといったイメージをもつことなく、子ども時代を過ごしていました。もちろん当時は、天皇陵を研究することになるとは考えてもいませんでした。
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1.卒業制作のこと
幼いころから芸術分野に関心があったのですか?陵墓が研究の対象になった時期はいつでしょうか
子どものころは芸術への興味は特になく、高校も運動部に所属していました。父が土木の建築士、祖父が大工だったので、大学進学を考えたとき、自然な流れで建築学科を志し、関西の大学に進学しました。陵墓と改めて向き合ったのは、学部4年の卒業設計です。卒業設計では、仁徳天皇陵(大山古墳)を中心とした百舌古墳群に位置する大仙公園を敷地に設定し、一帯を含めた計画を行いました。卒業設計をどうしようか考えたとき、小学生のころから慣れ親しんできた身近な風景であり遊び場だった天皇陵の原体験を思い出したからです。
仁徳天皇陵(大山古墳)は航空写真で見る時の印象とは異なり、地上からは一見森のように見えます。その森をある種の風景・景観として再設計することを目的に、休憩所や通路など、いろいろな機能をもつ建物を組み入れ、そこを訪れる人々に身近に感じてもらえるようなランドスケープを提案しました。
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天皇陵と改めて出会い直したのですね。そのまま、関西の大学院に進学するという選択肢もあったと思うのですが、東京藝術大学の建築を目指した理由と学生生活について聞かせてください
学部の設計課題では、模型や図面でのスタディよりも、言葉や思想に考えを巡らせることが多かったんです。そのような意識を相対化したり、より視野を広げてみたいという気持ちがありました。何をやっても真剣に議論をしてくれる先生方が集まっている、という先輩からの助言もあり、東京藝術大学の大学院受験を決断しました。実は、もう退官された青木淳先生の研究室の門を叩いたのですが入ることができませんでした。一浪して再チャレンジしようと決心した頃、ちょうど長谷川香先生が新任として第1期生の学生を募集されていました。
先生は儀礼や政治、特に近代天皇制と都市・建築との関係性について研究されていて、著書や論文を読み進めていく中で、言葉や思想に興味のある私を受け入れてくださるような印象を持ち、研究室訪問をしました。その予想は当たり、学部の卒業設計や皇居の話が盛り上がって、1時間ほど話し込んでしまいました。その際、長谷川先生から「設計もいいですが、是非文章や論文を書いてみませんか」とアドバイスいただき、研究テーマが近いことにも運命的なものを感じたことから、長谷川研究室を第一志望として受験しました。結果、無事合格し今に至ります。
建築学科で、天皇陵といったテーマに興味を持つ私のような学生は稀だったと思います。私のバックグラウンドとして天皇陵が身近な存在であったことが、研究のきっかけとなっていますが、長谷川先生のようにニッチな部分でつながりを持てる教授と出会えたのは、本当に幸運でした。
【空間的に解釈】するとは、どのようなことですか?
まず、天皇や陵墓を研究対象とすることの難しさをお話しします。陵墓は、神武天皇から続くとされる万世一系の思想や皇室の制度と深く関連しています。そのため、陵墓に関する研究の多くは、考古学や歴史学の分野において行われてきました。また、そこに葬られているとされる被葬者が一致しているかどうかについて、戦後の考古学が問うという構図が顕著でした。被葬者の解明には発掘作業が不可欠となりますが、宮内庁は、象徴天皇制における社会的・政治的な存在としての天皇を前提に、「静安と尊厳の保持」や「現在も継続的に行われてる祭祀」という理由から、ほとんど許可をしていません。
近年は、学会等に向けた限定公開や世界遺産登録に関する動きとも関わり合いながら進展していますが、名目は研究ではなく見学であり、また核心的な部分の発掘には未だ至っておらず、その陵墓が本物か否かという議論が続いている現状です。つまり、考古学や歴史学で取り扱われるような、根本的な部分で陵墓を研究しようとすると、管理や関連資料の公開といった側面から見てもかなりの制限を伴います。
私は、そういった制度や儀式、陵墓の真偽を巡る議論よりも、先ほども少し触れましたが、子ども時代に「どうしてここに鳥居があるんだろう」と疑問を持ったように、陵墓を空間や風景として捉えるということに関心が向いたのです。制度や真偽を巡る議論から距離をとれば、大学院という短い研究期間でも、陵墓について研究することが可能ではないかと考えました。
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修士論文と並行して取り組んでいる「リョウボノカタチ」について教えてください。プロジェクトでは、およそ1年かけて全国の天皇陵を巡り終えたそうですね
吉田五十八奨学基金を研究費として、全国112陵の天皇陵を巡って写真や紀行文といった踏査記録を作成し、最終的には本にまとめるというプロジェクトです。天皇陵と、それらを題材にした絵図や図面を空間的に解釈しようと試みる修士研究に対して、主観的かつ一般的な方法で「形式としての陵墓」を記録する、一連の制作プロセスだと位置付けることができます。私の地元にある仁徳天皇陵(大山古墳)を最後に巡るということだけを決め、東は東京から西は山口まで、1年間の休学期間も活用しながら進めていきました。プロジェクトをやろうと思ったのは、空間的な解釈をする為に、絵図や図面といった過去の史料だけではなく、実際の天皇陵やその周辺地域に足を運び、現場や土地の記憶を知る必要性を感じたためです。
実際に訪れてみると、史料を眺めているだけでは経験できない出来事がたくさんありました。例えば、京都のとある天皇陵への道しるべが修理されず折れたままになっていたり、境界が厳密でなかったが為に気付かずに立ち入り禁止の場所へと入ってしまっている人を目撃したりしました。山の上にある天皇陵を訪れた帰りに目印を見失い、軽い遭難をしてしまったこともありました。このような体験や空間把握が強烈に記憶に残っていて、史料と現状の差異を見つけやすかったです。
写真は、天皇陵の現在性に着目して撮ることを意識しました。これまで、天皇陵は荘厳なイメージから正面写真として被写体になることが多かったのですが、私は天皇陵の親しみやすさというか、綻びのようなものであったり、周辺や人との関係性に関心があったので、そこを捉えられるように、いろいろな側面から写真を撮りました。天皇陵を含めた陵墓はお墓であり、現在も皇室関連の祭祀が行われています。神聖で荘厳なものというイメージを持たれやすいですが、私にとっては子どものころから身近にあった風景であり、近寄りがたさは全くなく、無邪気に周辺を駆け回った記憶の風景として心に残っているので、親しみやすさを感じているのだと思います。
また、人工物である陵墓が時間の経過とともに自然からの浸食を受け、どこまでが元の天皇陵で、どこまでが周囲の自然か分からないような状況を、ありのまま、等価に扱うことを意識したとき、住宅のすぐ裏手や、工場敷地内のわずかな隙間から見える天皇陵など、天皇陵周辺の風景も画角に入れることにしています。このプロジェクトの写真は、Instagramでアーカイブしていくことも想定していたのでスクエアのフォーマットとし、色よりも構図として天皇陵を捉えたかったので、白黒写真で撮影しました。
一般に想定されているルートで参道を歩くことや荘厳さに寄った写真手法にこだわっていないので、新鮮で独創的なものになっていると思います。卒業・修了作品展までに本を完成しさせ、論文と一緒に展示したいと考えています。
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資料やプロジェクトから得られた知見は何ですか
図面や資料を見ると、測量当時の陵墓の状況が分かるのはもちろんですが、変遷をたどることで、当時どのような位置付けで作られたのか、また国民にとってどのような存在だったのかを概観することができました。例えば、近代でみると明治天皇陵・大正天皇陵・昭和天皇陵と規模は縮小傾向にあり、時代とともに陵墓のカタチも変わっていくことが示唆されます。他にも、皇国史観や尊王思想と密接に関係していた過去も、崇敬会発行の写真帖や著述家の記述から読み取ることができます。また、現在の陵墓は幕末に整備され、私たちが目にすることができる鳥居や玉砂利などもこの時に付加されたものですが、160年ほど前に形式が統一された空間が、それ以降、多少なりとも手が加えられているのではないかという仮説を立て、図面と実際に現地で撮影した写真とを見比べてみました。どのように空間の変化が起こったかを考察したところ、国民に開かれ始めた皇室の一つの側面として、天皇陵という空間もまた開かれた場所になってきているという変化を発見することができました。幕末までは皇室のための祭祀空間という側面が強く、一般の参拝をあまり想定していない閉じられた空間だった陵墓が、近代を経てその空間構成を変化させていく様子を明らかにすることは、とても面白かったです。
陵墓が今後、どんな存在になったらいいと考えていますか?
仁徳天皇陵(大山古墳)はその昔、ワラビやタケノコを採りに行くことができたり、付近の村の灌漑の役割も担っていました。しかし、管理や整備が進められていく過程で、一般の人々にとって近寄りがたい存在になっていったという歴史的な変遷があります。あるシンポジウムで、元宮内庁職員の方が「時代の変化に柔軟に対応して、都市や市民に開かれた、愛される陵墓を目指しましょう」というような話をされていました。聞いた当時は感銘を受けつつも、どこか夢のような話だと思っていたのですが、部分的ではあるものの開かれてきた陵墓の変化を、研究を通して知ることができた今、夢では終わらない話だと思っています。私の研究の発端である、幼少期に感じた天皇陵の親しみやすさや、プロジェクトを経て再認識した空間としてのかっこよさなど、ある側面に限定されずに人々に認識してもらえる存在であってほしいと思っています。
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卒業後の進路は?
卒業後は建築関係の出版社に就職する予定です。過去から地続きの、現在進行形で変容している建築観を取り上げることに興味があります。当分はそこで経験を積み、いずれは博士課程に進むことも視野に入れています。修士研究において、制度や歴史よりも、その当時の時代精神を反映する、空間としての陵墓に興味があったことと同様、歴史研究をしたというベースは忘れずに、今後は現代建築に携わる人々の、精神性に触れられるような声を聞きたいと思っています。
インタビューを終えて
言葉を大切にする力安さんの発する言葉は、私たちに理解してもらおうという優しさと、研究に打ち込むひたむきさに溢れたものでした。過去の資料から当時生きた人々の思いをくみ取ることのできる力安さんが、今後どんな思いを持ち、伝え、残していくのか、想像しただけでわくわくします。私たちのインタビューが、力安さんの修士研究の魅力を伝える一助となれば幸いです。
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取材/ 酒井俊一、塙隆善、吉澤友理(アート・コミュニケータ「とびらー」)
写真・校正/ 樋口八葉(美術学部芸術学科2年)