東京都美術館× 東京藝術大学 「とびらプロジェクト」

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2022.01.23

快晴の青空が広がる2021年12月23日、東京藝術大学取手校地を訪問。食堂に設置されたギャラリーに工芸科 陶芸専攻 修士2年 萩原睦さんのガラス作品は置かれていた。その大きさ、美しさ、清逸さに、私たちとびラー3名はインタビューアーとしての役割も暫し忘れてただ見とれていた。

冬の空にうかぶ月と金星を漆と真鍮で描いている

 

底辺部は深い青紫から群青色へと変化し、少し視線を上にあげるとピンクとオレンジの混ざりあったあたたかい色に引き寄せられる。空一面の表情のようでもあり、水が揺らめいているような風景にも見える。作品中央部には金色に輝く三日月と金星が浮かび、上層部は薄水色や乳白色のグラデーションの空がどこまでも広がっていくようだ。

さらに「うつわ」の外側と内側では、光の入り具合で表情が異なる。どこを切り取ってもその風景に吸い込まれていくかのような感覚。このなかに身体ごと入ったら、どんな景色が広がるのだろうか。

詩 《16:23》

 

《16:23》ー 萩原睦

 

はじまりとおわりのはざまで
わたしたちは時を歩む

 

透き通った優しい風が
水平線から海を渡って
髪の隙間を通りすぎ
世界の影を取り払いながら
そこら中を透明に満たしていく

 

記憶の底の重たい影も
こぼれ落ちた溜息と共に
空に向かって溶けていった

 

三日月の背中に意識を巡らせ
小石の歴史に思いを馳せる
ポケットの中の小枝さえ
光に透かすと透明だった

 

気づけば金星が瞬いている
空はオーロラの欠片を身に纏い
これから続く夜へのはじまりへと
足音を立てずに向かうのだ

 

世界に影が満ちるとき
ひとすじ流れた星の光を
そっと両手ですくいとり
再び地球に舞い戻ろう 

 

はじまりとおわりのはざまで
わたしたちは時を歩む
確かにこの光を手渡すために

 

萩原さんと作品《16:23》

 

ー 思わず覗き込みたくなる作品です。空みたいな色にみえました。

《16:23》というタイトルなのですが、大好きな季節である「冬」の空に感動した時の景色です。地平線まで見える建物の屋上でこの写真を撮りました。撮った時の気持ちや感じたことをメモしておいて、それを詩にしています。ガラスと写真と言葉という3つをあわせて表現しました。「うつわ」の形をしていて、中に入ったらその時の空の下にいるイメージです。

 

ー 3つで1つの作品なのですか?

はい。ずっとガラスの表現を追求していたところに、写真や言葉を足すというアドバイスを先生からいただいて…大学院になってから始めました。写真は自分の見たものをそのまま写せるものですが、言葉はそれを読んだときに視覚以外の感覚を想像してもらえるものだと思います。これらをガラスという素材に立体的に表したときにどうなるのか。3つのバランスがうまく揃ってこの情景が浮かぶといいなと思っています。

写真は日々、記録として撮っていました。言葉については…大学院に入ってから、考えをエッセイや文章にする授業がありました。そこで、言葉や写真も記録でなく表現として扱ったらどうかというアドバイスをいただき、実際にやってみるととても大きな反応がありました。見た人に、より深く世界観を感じてもらえたのです。それがとても面白くて、手の中に納まるような小さな「うつわ」の作品にも全部言葉と写真をつけています。

 

ー 作品を最初につくり始めるのはどこからですか?

日々過ごす中で感動した景色や光を写真で記録しています。フィルムカメラを使っているので、時間が経って現像から戻ってきた写真を見て、どの瞬間を作品にするのか決めています。言葉は景色をみた瞬間に浮かんできてメモする場合もありますし、写真を見て改めて書くこともあります。言葉より先にガラス制作に入ることもあります。

 

ー 写真とガラス作品を見比べると、忠実に写真の景色を写し取っているようで、そうでないところもあるようにみえます。

ガラスの色は絵の具のように多様な色ができ、ガラスの粉の割合を調整しながら混ぜて作ります。すべての色を実際に作って試したのですが焼成温度や時間によって色が変わってしまい、思っていたのと違う部分があります。また表現として再現したい色を出しているところもあります。この作品の下の部分の青い色は写真よりも青を強くして地球の影の色を表しています。ガラス作品でより記憶に近づけたいと思って制作しています。

 

ー 作品づくりにどのくらいの時間がかかるのですか?

この作品は、9月中頃から作り始めて12月中頃まで、3か月くらいかかりました。
60kgの大きな作品なので、石膏の型にガラスを詰めて窯に入れてから2週間の焼成、出してから磨くのに1週間かかりました。窯は鋳金用の大きなものを借りてつくりました。

 

ー 今回の作品はとても大きなものですが「うつわ」の形をしていますね。「うつわ」という形にしたのはなぜですか?

いつか1回は大きなものを作ってみたいという思いはありました。同時に「使うものをつくりたい」という思いもずっとあります。特に大学院に入ってからは実用性と自分のコンセプトを両立させたいと思ってきました。「うつわ」は手に取ってすぐに触れられる、身近なものです。使うものとして手に取るときに同時に想いを感じてもらえて、生きる希望になるような…例えば「うつわ」をみて景色を思い出して勇気づけられるとか、日常にそんな想いのこもった美術作品を置いてほしいと思って「うつわ」をつくってきました。

 

「うつわ」の形には“使うための形”という側面のほかに “空間を切り取るもの”あるいは“外と中の境界線をつくるもの”という側面があります。修了制作の作品では“使うもの”というよりも、“空間を切り取って内包する”という「うつわ」の性質に重点を置いて空の時間を切り取りました。空は人間が及ばない大きなものなので、空から受けた大きな感動を表せる、できる限り大きなサイズでつくりたいと思いました。切り取って内包した空間を感じてもらうために、ぜひ覗き込んで外と中のそれぞれの色のグラデーションを見てもらいたいです。今回はそのコンセプトに「うつわ」の形がぴったり合ったと思います。

学部生時代に一番最初に作った「空を味わう。」テーマにした作品

 

ー 萩原さんの記憶のなかの風景、心象風景で思い起こされるのは何ですか?

自然の景色とか、海・山・川など自然の景色にとても惹かれます。日常生活の中でもコップを通る光や、自然光、とくに光に目が行きます。小さい時から家族と一緒に長野や北海道で夏休みや冬休みを過ごしていたので、そこで見た山の景色や自然がいつのまにか自分の中に染みこんでいたのかもしれません。自然に触れると懐かしさや安らぎを覚えます。

夏、早起きして散歩に行ったときに見た緑の美しさや、冬、雪が輝く風景など、都会では見られない景色に触れたこと、それらが蓄積され感動の種となって自分の中に残っています。時間を経た今、その種にひっかかるものがあり、改めて感動しています。長野や北海道の美しい風景、木漏れ日などのきらめく光が自分のなかにあるのだと思います。

ー 美大に進むのにご家族の影響はありましたか?

中学までは音楽に興味があり、小学2年生から中学2年生までは合唱をやっていました。合唱に通わせてくれた家族にとても感謝しています。中学2年で合唱を辞めてこれから何をしようかと考えていた時、女子美術大学(以下、女子美)の夏休み体験クラスに参加しました。とても楽しく、そこから一気に美術への道に入っていきました。デッサンを学び始めたのも遅かったのですが、そこから女子美の付属高校に進学しました。

長野や北海道での体験もそうですが、家族から様々なことを教えてもらいました。植物の名前、星の名前・・質問したら全て答えてくれるような家族でした。知識だけでなく、実際の体験も大切にしてくれて、学校の行事以外でも家族でキャンプに行き、実際に火を起こすところから飯盒炊飯を体験したり、夜空の星を眺めながら、あれは白鳥座のベガ、あれはアルタイルと教えてもらったりしました。そういった環境で育ててくれたことを感謝しています。

 

ー 最初は陶芸からスタートされたのですか?

高校卒業後は女子美の工芸科に入学し、1年目に陶芸・ガラス・染色・刺繍・織りの全てをひと通り履修しました。2年生になり、陶芸とガラスのコースかテキスタイル(染色・刺繍・織り)のどちらかを選択するにあたって、染めとガラス両方がとても好きで迷いましたが、その時に強く惹かれた陶芸とガラスを選びました。

吹きガラスを実践してみせてくれる萩原さん

 

ー 女子美から藝大に進学した理由は?

藝大の大学院へ進学するとキャンパスが取手になるため、一人暮らしも含めて環境を変えてみたかったというのが大きな理由です。最初はホームシックにかかり辛い期間も長かったのですが、今は制作を含めて自分だけのことに使える時間が増え、集中できています。考えの幅も広がったと感じています。

制作過程を説明する萩原さんに聞き入る

 

ー ガラスの魅力は?

ガラスの魅力は、その透明性 ― 光が透過する素材だからです。光に魅せられています。写真もポジとネガで光を写し取るメディアです。パート・ド・ヴェール(ガラスの粉末を型の中で熔融して成型するガラス工芸の技法 )の作品も一見不透明に見えますが、光が透過するのでいろんな角度から見ると色合いが変わります。

 

ー ご自身とってガラスとは?

今はガラスのことしか考えていないです。生活のすべてといっていいかも。ガラスの制作が出来ていることがとても幸せです。学部時代、教育実習に行っている間は、制作から離れる時間があって、その時は「ガラスに触りたい、ガラスを作りたい」と、ガラスのことばかり考えていました。ガラスがなくなったらぽっかり穴があいた感じでしょうね。生活どころか自分の一部になっています。今とても幸せな環境にいます。

はにかんだ表情のなかにも強さが

 

ー これから、どんな作品をつくっていきますか?

今後も「うつわ」という形は継続して作っていきたいと思います。テーマは引き続き、記憶や自然、日々感じている光がモチーフになってくるのかなと。そこに、写真や言葉・詩以外の、音楽や映像など違う素材や媒体も組み合わせてみたいです。陶芸も好きなので是非挑戦してみたいと思いますが、釉薬はとても深い世界でのめり込んでしまいそう。まずはガラスを納得いくまで突き詰めたいです。

女子美時代も、そして藝大生の今も、周りから受けた影響は大きいです。周りの人のおかげで今の自分があります。先生や先輩のガラス作家さんから教わった技術がすべて。お返しできる作品をつくっていきたいです。

 

 インタビューを終えて

ギャラリーでの作品紹介から、工房に移って窯や機材、吹きガラスや削りの作業の説明、さらに食堂に戻っての長時間にわたるインタビューに、一つ一つ言葉を選びながら、答えてくれた萩原さん。私たちに正確に伝わっているか確認する度に、言葉をとても大切にされている姿勢を感じた。夏は炉の熱で40度以上になる工房。今回の作品制作では、冬の寒風ふきすさぶ中で1週間以上水をつかって磨いたとのこと。どの過程も時間と手間がかかる作業で、過酷な環境のなかから作品が生まれてくることを知った。萩原さんのはにかんだ表情の中に、謙虚でありながら自分の好きなものを追求していく真摯さと強さを感じた。光の透け具合で表情が変わる 《16:23》 は、『卒業・修了作品展』期間中(2022年1月28日 – 2022年2月2日)、東京藝術大学 大学美術館の地下2階に展示される予定であり、是非その目でみてほしい。

 

 

関連リンク:
■インスタグラム
https://www.instagram.com/mutsumi_hagiwara

■ホームページ
https://mutsumihagiwara.wixsite.com/-site

 

作品を前に集合写真

(インタビュー・文・とびラー)


取材: 卯野右子、河野さやか、豊吉真吾
執筆: 卯野右子、河野さやか 編集:豊吉真吾

 

 

とびラー8期、3年目の最後のインタビューで、こんな素敵な作品と作家さんに出遭えるとは!「うつわ」も「ガラス」も、そして「写真」も「詩」も大好きなので、忘れられないインタビューとなりました。同期3人で取手校地を訪れ、藝大食堂でチキンカツを食べたのもよい思い出になりました。(卯野)

 

 

 

昔からガラス工芸が大好きなので、そばで作品をみて、作家の想いとそれを形にするプロセスについて詳しく伺うことができ、とても幸せなインタビュータイムでした。生き生きとお話をしてくださって、これからどんな活動をされるのだろうかとワクワクしました。今後も注目しています。(河野)

 

 

 

2022.01.23

都心よりいく分か気温が低く、澄んでキリリとした空気の東京藝術大学取手キャンパス。ドキドキしながら向かうとびラー3人を、中川麻央さんがパフォーマンスに使う機材を念入りに準備しながら待っていてくれました。美術学部専門教育棟内、2体の彫像の置かれた吹き抜けの大空間には3台のモニターが置かれています。インタビューの前に、修了制作のパフォーマンス作品の一部を見せてもらいました。

まず二体の彫像の間に身体を置く中川さん。身体の一部が映されたモニターの裏側で、しなやかな動きで身体を動かします。やがて、モニターを持ちながら彫像前を離れ、中央棟内のエレベーターや、階段付近へと身体を進めていきます。学生や先生方が行き交う専門教育棟内が、中川さんのパフォーマンススペースへと変わっていきました。

―「変容する身体」

作品のコンセプトは「変容する身体性」です。私の表現のバックグラウンドにはダンスがあるで、常に身体(からだ)に耳を傾けるという行為が主軸になっています。その行為は、作品を作ることだけでなく、生活の中でも影響があります。環境が変わると無意識でも自分の身体に反応が出てきて、そこが身体の面白い部分だな、と思っています。みなさんも同じように身体を持っていますが、個人個人で全然違う。環境が変われば、質や存在感も変わります。身体の状態や様子は、毎日違います。2年前の自分の身体と、今の自分の身体とでも違う。自分の身体に耳を傾けていくと自然と変わってきているのが分かって“身体”への興味は尽きません。

―物質としての身体

身体は、すごく流動的でありながら確立した物質である、という面でも面白いな、と思っています。映像の中に、身体のある部位をすごくズームインしたり、逆にフォーカスがぼけているシーンを入れています。それをすることによって、身体の一部だという認識が曖昧になり、すごく物質的に、オブジェクトになってくることを表現しています。また、映像の中にある物質的に見える身体と、実際に私が動いている身体の対比をパフォーマンス全体で表現しています。

オブジェクト(モノ)と身体の存在感

今回のパフォーマンスでは、人形浄瑠璃の主遣いの方の身体の使い方をヒントに、アプローチしています。伝統芸能の人形浄瑠璃の人形遣いで、「主遣い」という、姿が見えたまま人形を遣う方の身体の存在にずっと興味があります。実際には見えているのに、鑑賞していると人形に意識が集中して、主遣いの姿が見えなくなっているように感じる。人形(モノ)の存在感と主遣いの存在感の関係性が変わってくる。そういう身体の存在のさせ方が気になっています。モノと人が存在する場合、どうしても「人がモノを使う」という主従関係になりがちです。それに対して、モノの存在感と身体の存在感の主従関係を曖昧にする、もしくは同等になるような身体のアプローチのさせ方、それによって見え方が変わる、ということにすごく興味があります。

―コロナの影響は?

私の中での作品作りは、パフォーマンスする空間に観る方が一緒にいて、その時間を一緒に体験してもらうというのが基盤にありました。パンデミックという状況に陥って、自分の創作や、パフォーマンスの仕方など、大切だと思っていたことを一から見直して、向き合う機会になりました。人と距離をとって、人の波動を感じられない時間を過ごしたことは、やはり身体の中に記憶として残っていると思います。身体が覚えている。自転車は象徴的で、どうやって乗るか身体が覚えていて、全然乗ってなかった期間があっても乗ってみたらやっぱり乗れる。身体自体が記憶をとどめているコンテナみたいな印象ですね。コロナ渦の経験は、この先何かを表現するのに、無かったことにはできないだろうな、と思います。コミュニケーションがリモートでスクリーン越しになる中で、相手の身体と相手の発している言葉がなんだか噛み合わずバラバラだった印象や、スクリーンに映っている自分の身体と今ここに存在している身体が繋がっていないという違和感など、身体に対する認識の試みをパフォーマンスの中でアプローチしています。

パブリックな場でのパフォーマンス

以前はシアターでパフォーマンスすることが多かったのですが、今は、パブリックスペースに自分の身体をおいて何かを表現する、ということにすごく魅力を感じています。シアターでは観客との間にどうしても壊せない隔たりがあって、物理的な距離と心理的な距離がどうしても埋められなかったんです。それで人々が行き交うようなパブリックスペースで試しています。私がパフォーマンスをしたことによってパブリックスペースの日常的な時間や空間が壊れる、という関係性や、見ていただく方にどうやって/どこから見ていただくかという選択肢があるということも私の中では大きいです。

パフォーマンスとは

私はパフォーマンスの身体の動きだけがコレオグラフィー(振り付け)だとは思っていません。身体に関わっている空間全体、モノとの関係性、その空間に身体を置くことで何が起こるのかということ、全て含めてコレオグラフィーだと思っています。パフォーマンスは、時間の流れをベースにした芸術、表現方法だと思いますが、音、時間、光、身体、匂い、空気感など、いろんな要素が詰まって出来上がっている総合芸術だと感じます。その魅力として、その時に起こったことを、その実感する瞬間に体験する、ということがあると思います。

 

パフォーマンスの途中で中川さんの手のあたりにちょうど光が落ちてきて、とても美しくて、「光」というものを今ここで感じて改めて意識する、というような体験をしました

そうですね。そういう具現性も、パフォーマンスではとても大切になってくると思います。ただ、スクリーン越しには中々お伝えできない部分だな、というのを痛感してもいます。パフォーマンスをしている私自身も、自分の身体と空間の間でその時その時に起きていることをリアルタイムで判断して、反応していく。耳を傾けて、それを汲み取ったり汲み取らなかったり、選択しています。私は、物事を理解して体験する、ということに関して時間を要する人間で、自分が今何を体験して動いているのか、ということにも時間がかかります。ただ、それをちゃんと聞いて、耳を傾けて動いているのとそれを聞かずに動くのでは、出てくる動きや質感が全然変わってきます。私は身体と空間の間で起きていることを、感じながら動きたい。それによって伝わることがあると信じています。

ー日常の動きとパフォーマンス

身体の構造自体にすごく興味があるんです。外側がどう綺麗に動いているか、というよりは、身体の構造が動きにどう影響しているか、ひねりの構造はどうなっているのか、ということに興味があります。身体は皮膚一枚で繋がっているので、ある部分をひねったら違う部分に影響が出ていたりとか、どこかの一部が動くと連動してどこかが動いたりして、本当に面白いです。パフォーマンスの中の動きは、普段何かしていて身体の反応、動きがおかしいな、といったような、日常生活の中で体験した、感覚的なものから派生して出てくる動きなので、日常とパフォーマンス制作をしている時の自分の身体とは繋がっているな、という実感はあります。

ーオランダから藝大へ、そしてその後は…

私は幼少期ものすごい人見知りの子どもだったんです。心配した両親が、人前で何かできるような手段として、クラシックバレエを習わせてくれました。身体を使って表現する楽しさもありますが、いろんな人と関わって何かを作っていくという魅力に取り憑かれてここまできている感じです。

オランダには振り付けの勉強をしに行っていました。アムステルダムに住んでいましたが、本当にコスモポリタンな都市で、あなたはあなた、あなたらしく、というのが自然に身についている。そういう雰囲気が、「許容範囲が広い」という感じの印象を受けました。

ヨーロッパでは、ヴィジュアルアートの方がパフォーマンスやダンスの方へ作品の傾向が移っていったり、ダンスの方がビジュアルアート的な要素でパフォーマンスを作ったり、というのが最近10年くらいすごく活発に入り混じっていて、私もすごく共感しました。アートの境界っていらないんじゃない?というような。GAPがまさに境界がなく、そういう意味でグローバル。いろんな国籍いろんなジャンルの人がいて、そんな中で自分のアーティスティックな部分をより深めたりするような環境がすごく魅力的に感じたのでGAPに進むことにしました。

今まで属していたのがシアター、演劇というジャンルだったので、藝大に来て、GAPでの環境はすごく新鮮で、刺激的でした。オランダの時よりもっと色が濃い感じです。卒業後はまだ具体的な予定は何もないんですが、「身体表現に関わること」で、私が今まで経験してきたことを何かしらの形でシェアするということをできたら、ということは考えています。

ー身体表現を続けているのは?

パフォーマンスはすごく抽象的なものだと思います。その分、いろんな理解の仕方、見方ができるのがすごく魅力的だな、と思っています。パフォーマンスを見て、その方の経験を通して自由に解釈していただく、それが私はすごくうれしい。

作品を見せることで伝わる、理解していただけるという経験をたくさんして、それが心に強く残っています。国籍や文化背景に関係なく、身体表現を通してコミュニケーションできる、人と「何かしら繋がれた」という経験ができる喜びが私を身体表現に向かわせているんだと思います。

ーインタビューを終えて

現地で実際に観るパフォーマンスは本当に素晴らしかった!こちらまで身体の感覚が研ぎ澄まされるような感覚がありました。やはりこの体験は、現地で観ないと体感できないと思います。中川さんのパフォーマンスは、東京藝術大学 上野キャンパス 美術学部中央棟1Fロビーにて、展示期間中毎日14:00〜15:00に実施される予定です。ぜひご覧ください!インタビュー前、パフォーマンス作品はちょっと難しそうだなと思っていましたが、パフォーマンスを観た上でお話を聞いて、私たち誰もが持つ身体をメディアとした表現、という視点を得て、なんだか親近感を感じることができました。

 

■中川麻央さんHP
https://maonakagawa.tumblr.com/

■中川麻央さんインスタグラム
https://www.instagram.com/__mao.nakagawa__/

 


取材:梅浩歌、門田温子、滝沢智恵子
執筆:梅浩歌

 

とびラー2年目、3才になる息子を通して世界と出会い直し中。とびらプロジェクトでの素敵な出会い、体感を伴う学びに感謝しつつ、それを還元していけたらと思っています。まずこの藝大生インタビューでの興奮・感動をお伝えしたい!(梅)

 

 

 

2022.01.19

「実は、コロナが流行り出した年(2020年度)に、一年間の休学をしていました。

その間に、本を200冊くらい読んだんです。一番影響を受けたのは、フリードリヒ・ニーチェ。自分の「身体」というものは、どれだけ社会が変わろうといつも確かな出発点なんだ、と気付きました。

そこから、もう一度建築を考えてみようと思いました。」

 

柔らかく、言葉を、想いを、丁寧に紡ぐ伊藤健さん。その修了制作に迫ります。

 


「今欲しいものは、コーヒーミル!」と微笑む、伊藤さん。「日常行為の中の儀式的な時間が好きなんです。コーヒーミルを回して、ぼーっとする。そんな五感で楽しめる時間っていいですよね。」

 

 

「生まれは、サーキットで有名な鈴鹿です。昔は、世界一速いF1のエンジンを作りたかった。

でも、小説やSFが好きな自分もいた。好きなことを両方できる分野ってないかな……そう考えていたときに出会ったのが、建築でした。」

 

伊藤さん曰く、建築とは《工学的なものとポエティックなものが融合しているジャンル》なのだとか。

 

学部生時代は京都大学工学部・建築学科で学び、東京藝術大学・大学院美術研究科建築専攻に進学。

その集大成となる、修了制作では『強調譚(きょうちょうたん)』をテーマに、その実践として、「歪形集合住宅(デフォルマンション)」という建築物を構想・設計し、制作されています。

 

はじめに、伊藤さんが修了制作のテーマ『強調譚』に辿りつくまでのプロセスを伺いました。

 


取材日は、修了制作講評の翌日。中央には大きな作品模型と資料、そして壁一面に図面が張り巡らされていた。

 

 

◼重なり合った思索から紡がれる、『強調譚』

きっかけは、「視る」という“行為”に特化した深海生物

 

「東京に来て1年目は、何をやってもうまくいきませんでした。休学していた2年目は、やりたいこととか、これからの人生とか……生き方を含めて悩んでいたんです。」

 

休学期間中の伊藤さんは、「人間とは何か、生きるとは何か」と問いを重ねていたといいます。

 

「古典哲学、社会学、生物学など——さまざまなジャンルの本からインプットを重ねる中で、奇妙な深海生物と出会いました。」

 

「この生物は、ギガントキプリス – Gigantocypris agassizii。

こいつが泳いでいる映像を見て、すごく興味を抱きました。どうしてこんなにも「歪」で不格好なのに、過酷な自然界で生きていけるんだろう、と。それと同時に、この生物に対して、ある種の憧れや共感を覚えている自分がいたんです。」

 


—— ギガントキプリスは、体長3cmほどのウミホタル科の深海生物。身体のほとんどが目でできており、人間の8倍ほどの集光能力をもつ。泳ぐ姿は、とてもキュート。

 

「彼らは、ひたすらに「視る」ことに特化して、身体を強調しています。その代わりに、多くのものを失いました。「視る」ためには最適化されているけれど、ひどく不器用で歪な姿をしています。」

 

しかし、伊藤さんは「歪でも、何かに特化して生きられたら、すごく幸せなんじゃないだろうか」と考えました。そこで、建築を学ぶ中で身に付けた、図面化することで、彼らの“身体”の特徴を紐解くことに。

 

「図面にしていくと、《強調された生物は、“身体”と“行為”の距離がとても近い》ということがわかってきたんです。」

 

生物における、身体の強調と行為の意味とは?

 

求愛行動に用いる大きな手、己を誇示するための巨大な眼——

「試しに他の生物も図面化してみたところ、ギガントキプリスと同じような特徴が確認できました。」

 

 


—— “行為”と“身体”の関係を調べるために、生物の強調を図面化した。

 

 

“身体”を強調することで、何らかの“行為”を手に入れた生物たち……その姿をつまびらかにするなかで、伊藤さんの関心は、「人間の強調」へと移っていきます。

 

「人間の進化を調べたところ、およそ3.5万年前を境に、“身体”の大きな構造上の変化は止まった、ということがいえます。

しかし同時に、この頃から道具すなわち“建築”が大きく多様化しているということも、わかりました。」

 

「歪なかたちの生物は、“身体”のかたちを変えて強調したけれど、人間は第二の身体である“建築”を変化させることで、強調しているのではないか」と、伊藤さんは考えます。

 


—— 多様化する建物の変遷は、生物の強調した身体のようだ。人間の場合、身体のかたちは変わらないけれど、外縁化された身体(建物・道具など)が進化しているという。

 

さらに、人間の“行為”についても調べていったとのこと。

 

「“身体”は進化しましたが、“行為”の数はどんどん減っていますよね。

例えば、昔は『洗濯』をするために、川に行く・洗濯板で擦る・叩くなど、いろいろな動きをしていた。けれど、いまでは放り込んでピッ!で終わりです。そこで僕は、人間にとっての、“行為”とは一体どのような意味を持つんだろうと考えるようになりました。」

 

伊藤さんが特に注目したのは、古から連綿と続く『儀式』という“行為”。

 

「哲学者のウィトゲンシュタインは、あらゆる人間を “儀式的動物”であると定義します。

なぜなら、あらゆる時代に人間は『儀式』をおこない、同時に文化そのものを形成するのもまた、

『儀式』であるからです。

そこから、『儀式』の持つ2つの属性——共同体としての連帯感を生む『横のつながり』と、法悦を生む『縦のつながり』こそが、人間の失いかけている “行為”の意味につながっているのではないか、と考えました。」

 

伊藤さんは、その一例として『入浴』という“行為”について語ります。

 

「人は入浴という“行為”を通して、身体の感覚が鮮明になる感覚を味わいます。

それは、儀式における法悦の感覚に似ている……そこで、入浴という“行為”を強調してみよう、と考えました。その強調した“行為”のことを、僕は『擬儀式』と呼んでいます。」

 


—— コロナ禍で「お風呂に入りたくて入っているのか、それとも入らなければならないから入っているのかがわからなくなった」という伊藤さん。そのことを、「“行為”に消費されている感覚だった」と語っている。

 

 

こうした歪な生物から始まった膨大な思考のプロセスを経て、修了制作のテーマ『強調譚』が生み出されました。

 

◼️ 思索の結実として誕生した、『デフォルマンション』

強調された“行為”を、歪な集合住宅に

 

 

「人間は、“行為”に溢れた、いわば《行為の集合住宅》です。

 

その“行為”の一つを取り出して『強調』してみる——すると、人間とは何か、生きるとは何かということが、浮かび上がってくるのではないかと考えました。

 

人間にとって遠くなってしまった“行為”と“身体”の距離を近づけようとすること、それを一つの物語にすること——それが僕の修了制作のテーマ『強調譚』です。」

 

 

—— 『強調譚』構想資料より。

 

 

「生物の姿にのっとり、この家は『歪』であることを前提にしています。

その名も、マンションならぬ、『デフォルマンション(=歪形集合住宅)』。

住人は、それぞれが愛する“行為”を持っています。」

 

 

—— ネーミングは、フランス語のdéformationに由来。それぞれの部屋に住む住人は、書道家・茶道家のように、『〇〇家』と名付けられている。

 

「例えば、下の図面は『洗濯』が大好きな『洗濯家』の部屋。洗濯の中に含まれる“行為”を分解し、“現象”に左右される“行為”だけを強調しました。ここでは、「干す」ことが特化されています。

 

洗濯物がよく乾くように、左側の壁には風が通り抜けるための大きな空洞が、右側のベランダには洗濯物を干すベランダが。いわゆる生活空間は、真ん中の小部屋だけです。『洗濯家』は、「干す」ことを優先して、生活空間を手放してしまいました。その姿は、まるであの小さなギガントキプリスのようです。」

 


—— 風という“現象”を優先し、風洞実験装置のような形状をとった『洗濯家』の部屋。生活をするには、とても歪だ。

 

 

「今回、一般的な建築の設計とは異なる作り方をしました。“行為”のために必要な“現象”を軸に設計したんです。強調する生物たちと、同じ作り方ですね。

 

そこで、人間の一日を12個の“行為”に分解し、部屋としてまとめました。」

 

 

歪な『強調』が生む、豊かな『協調』

この家の面白いところは、『強調』を寄せ集めた結果、『協調』が生まれたということです。伊藤さんの言葉とともに、『デフォルマンション』の断面図を見ると、部屋の構造とともに、光や風などの“現象”のつながりを見ることができる。

 

壁を無くし、“行為”を支える“現象”でつなげた『デフォルマンション』。そこに住むと、人間は無意識に関わり合ってしまう——不思議な空間について、具体的に話を伺った。

 

 


——『デフォルマンション』の断面図。『洗濯家』の部屋で生まれた風は、タービンを回し、電力を生み出す。その電力を蓄電するための、おもりは『筋トレ家』の筋トレ道具に。『照明家』が電気をつけると、その重りが下り、水道のポンプが開く。すると『植物家』の部屋で、植物の水やりができる。そして、その水はろ過されて、『睡眠家』の部屋にあるプールの水へと落ちていく。

 

 

「世界は、人と人の関係性によってできています。この家も、それぞれの部屋の動きがつながって、関係性を生んでいるんです。光がさす、いい匂いがするなど……誰かのちょっとした動きが、家中に影響を起こすようになっています。」

 


—— 伊藤さんが一番住みたいのは、『照明家』の部屋。大きな電球が一つ、壁はスリット状に。その光は屋外に溢れ、『デフォルマンション』の常夜灯となっている。なお、これらの図面は、実際に建てられるように設計されている。

 

 

それぞれの強調された“行為”と、それを支える“現象”はつなががりあい、大きな円環を生み出す。

 

「住人はお互いのことを知りません。

性別も国籍もわからないけど、相手が生み出す“現象“からの影響で、何を愛しているかだけは知っている——風呂が好きな人がいるから、流れてくる蒸気によって、自分の部屋のカーテンが揺れる、というように。」

 


—— 右の図は設計の着想の発端となったもの。住人それぞれが愛している12個の“行為”の動きを分解し、そこで起きる“現象”のつながりを図式化したもの。これを建築物の設計に落とし込むと、左の断面図になる。

 

「ここで大事なことは、その人が何を愛しているのか、ということ。

お互いの愛する“行為”を前提としてつなががっていく——これって来るべき多様性の社会で、お互いの個性を激しく認め合っていく姿と似ていると思いませんか。」

 

歪な『強調』が、豊かな『協調』を育んでいく——とても素敵な未来が見えますね。

 

「実際に『デフォルマンション』を建てるとしたら、都会のビル街に。

ホテルのように、数日過ごしてもいいですね。日常に戻ったとき、一つ一つの日常の“行為”の意味を考えるようになるでしょう。一日住むだけで、人生が変わるかもしれません。」

 


—— 木漏れ日のような笑顔が印象的な伊藤さん。「藝大の仲間は、みんな秀でたところがあって、一緒にいて楽しくて、大好き。でも、歪なやつばかり。彼らと一緒に生きるためにも、デフォルマンションを作らなきゃと思いました。自分自身を肯定するための家でもあるんです。」

 

◼️これから

究極的には、意図せざる“現象”建築に向き合いたい

 

就職活動は、これから。

こういった作品や考え方に共感してくれるアトリエ事務所で修行したい!と考えているそう。

 

「こういう作品を評価してくれるという点が藝大の良さだと思います。面白いと言ってくれて、最後まで評価してくれる……幸せですね。そんな大学に、とても感謝しています。」

 


—— 「僕自身がcomplicatedなことを考えてしまうので、わかりやすく伝えることを意識しました」と語る伊藤さん。模型に図面、アニメーションを駆使して、説明をしてくれた。徹底的にろ過された思考から紡がれる言葉は、豊かで説得力がある。

 

そんな伊藤さんに、「これから作りたい建築は?」と聞いてみたところ興味深い答えが。

 

「今この瞬間に興味があるのは、『強調』の原理でできるもの。

 

ただ、一番作りたい空間は、沖縄の“御嶽(ウタキ)”のようなものです。そこには何もないんだけど、ただ“現象”がある……僕の中では究極の建築の姿です。」

 

 


—— 右下の画像が、沖縄にある“御嶽”。祈りのための儀式空間だ。人工的なものは何もない……自然があり、移ろいゆく“現象”があるだけ。『強調』について考え続けた伊藤さんは、「儀式という“行為”を『強調』する場合、何もない空間が一番という結論にたどり着いた」と語った。

 

「木陰にいると、風が吹いて気持ちがいいですよね。でも、木は人間を気持ち良くしてやろう!とは考えていません。そういう人を心地よくしてやろうとしたわけではないけれど、そよ風が吹くように心地よくなれる空間を作りたいです。」

 

 

これから伊藤さんが、どのような経験を積み、インプットを重ね、アウトプットに昇華していくのか ——『強調譚』の先にある物語、その未来がとても楽しみです。

 

◼️ 伊藤健さんWEBサイト https://it-itoken.tumblr.com/

 

 


 

取材:鹿子木孝子、林賢、大石麗奈(アート・コミュニケータ「とびラー」)

執筆:大石麗奈

 

 

『デフォルマンション』に住むなら『読書家』の部屋がいい、2年目とびラー。藝大生インタビューは、作家の思考の海を巡る旅——私の身体はひとつだけれど、相手の経験も、その思索の結実も、じっくりたっぷり味わえる。そんな追体験の価値を広めるべく、とびラボを立ち上げ、奮闘中!(大石)

2022.01.13

イチョウの葉がきれいに色づく11月29日、期待に胸を膨らませ東京藝術大学美術学部にある彫刻棟を訪ねたとびラー3人に、彫刻科 学部4年生 小島 樹さんがやさしく声をかけてきてくれた。

さっそく、屋外の制作現場に案内されたとびラーの目にコンクリートの上に横たわる大きな作品が飛び込んできた。細工が施された大きな鉄製の四角いフレームの中に、厚みのある鉄製プレートの人体が両腕を広げて横たわっている。フレームは一辺が軽く3mを超えている。

 

―これが卒業作品ですね。テーマや素材も含めて作品について教えてください。

「素材はすべて鉄です。テーマは、自分が彫刻科でありながら銅版画を作っていることと関係しています。銅版画は銅板の削った線の溝、凹版にインクを詰めて刷ると印刷物として出てきます。つまり、プラスとマイナスが逆転します。彫刻は複製するものであって、原型の立体物から型を取り、別の素材に置き換えます。作品のメインになるのは、銅版画は原版ではなく印刷物、彫刻は原型の方が作品と言われるものです。彫刻と版画は作品と型の扱いが逆転していて、そこが強くリンクしていると思います」

 

 

「この立体の作品に、水を含ませやわらくした楮(こうぞ)(※1)をかぶせます。その楮の水分によって鉄の作品が酸化した錆を版画に写しとる手法をとっています。写しとった版画をつなぎ合わせて立体と同じ大きさの版画を作ります。展示する際は、構造物を別に作ってフレームを立てて鉄製プレートの人体を上から吊り下げるイメージです。その前に紙の版画を広げて、二つ合わせて一つの作品にします」

※1…和紙の原料としても使われるクワ科の植物

 


(卒業制作のスケッチ 足の両脇にぶら下がるものは今回は制作しない)

 

小島さんのお話は、3人のとびラーの想像を超えるところから始まった。

人体のモデルは、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたウィトルウィウス的人体図にあるという。その人体図のアウトラインを立体にして、人体プロポーションを鉄で制作した。

 

―人体を上から鎖で吊り下げようという着想はどこから?

「大学に入って版画にすごく興味を持ちました。版画の海に飛び込むのか、それとも彫刻にまた引き戻されるのかという時期があって、その時最初に作ったのが、《バンジー オア ダイヴ》というタイトルの銅版画で、逆さまに飛び込む人物像でした。そのイメージがそのまま今回立体になったということです」

 

 

「着想は2次元的なイメージが先にあって、3cmの鉄板から、アセチレンガスと酸素で溶断する技法で鉄板を切って立体作品をつくります。フレームの立体模様も同じ技法です。今回は重いものを高い所から吊るすと見る人の恐怖心を煽る作品です。学生だからそれくらい挑戦的な作品を展示してもよいだろうと思いました。人体はどれくらいの大きさにするか、小さすぎても現実味がなくなってしまうし、大きすぎても把握できなくなってしまうので、結局人体をまず等身大に近いサイズにしました。それに合わせてフレームの大きさが決まってきます。」

 

小島さんは優しい語り口ながらも、制作への熱い情熱を感じさせ、私たちはさらに作品のサイズと重さに圧倒されてしまう。

 

 

フレームは溶断によって作られた細長い2枚のプレートを合わせ、断面的に見ると⊿の底辺のない形になる。そして、その立体からも版画を作るが、紙に透く前の楮(こうぞ)で彫刻から型を写し取ると(版画の)質量が増す感覚があるという。平面なのに質量があるという感覚は、版画と彫刻の両方に関心をもつ小島さんならではのものである。

 

 

 

―彫刻を表現手段としたきっかけは?

「受験時代はデザイン科でやろうとしていたんですが、性に合わなかった。ある時粘土に触ったらこれならやっていけると思った。粘土は感覚的で実感とともに作品が作られていくので、関係性がわかりやすい。大学に入ってからは、粘土は可塑性のある素材だけど、いつでも終われるけどいつまでも終われないところがあって責任が持てないと思った。石や木は後戻りできないが、金属なら思い通りにいかないことがあってもまた戻れる。金属を溶接して盛り付けて、また削ることができる。トライアンドエラーの距離感がすごく性に合っていました」

 

…彫刻棟の一室からしだいに作業音が大きく響いてきたため、3階のアトリエに行って続きの話を聞くことにした。

 

―卒業作品のタイトルは?

「タイトルは《アノードあるいはカソード》元々確かギリシア語で化学の世界で使われる言葉です。簡単に言うとプラスとマイナス。日本語では一応正極と負極という言葉があります。アノードあるいはカソードは、状況や置かれている場によってプラスとマイナスが逆転することがある。「場において逆転」するということが、自分の彫刻と版画にかなりリンクした言葉だと思います。彫刻でもあるし、(彫刻は版画の)原版でもあるし、版画でもあるし、(版画は彫刻のイメージの基となった)型でもある。状況、場において、プラスとマイナスを行ったり来たりする。それで《アノードあるいはカソード》にしています」

 

 

―逆転の着想は元々どんなところから?

「銅版画は、掘った溝にインクを詰めて自分の込めた力の裏側に印刷が出てきます。インクを詰めた溝が山となって、その山がぼくの中ではすごく彫刻的だなと思っています。逆転する着想はそこからですね」

 

―《アノードあるいはカソード》で見る人にどんなことを伝えたいですか?

「そもそもプリントされたもので量産されるものが版画ですが、ぼくは版画を再定義しなきゃいけないなと思っています。版画の技法を利用する人は多いけど、版画としか捉えていないところがあります。ぼくは、溝が山になっているのをこれは彫刻だと思いました。版画であり彫刻であるし、逆も言える。そこで、版画の領域が広がってくるんじゃないかと。このコンセプトは攻撃的なところがあり、かみ砕けていないところもありますが、簡単に言うと版画の領域を広げたい。版画と彫刻が侵食する部分、される部分がぼくの作品から見えてくるんじゃないかと思います」

 

 

 

―制作に当たり膨大な作業がありますが、アーティストとして一番楽しいところは?

「銅板はエッチングをやり、腐食液につけると線の部分が溝になるが、液に任せます。一度自分の手から離れて何かが起きる、出来上がりは摺ってみないとかわからない。現象にその先を見せてもらっている。彫刻にも同じようなことが言えて、鉄の溶断の時、トーチを手に持っている感覚だけなんです。ぼくと彫刻の間には空気の層があり、炎と風に任せて、その現象を利用させてもらっている。そういうところがかなり惹かれているところです。知覚しえない作業があることによって、飽きずにやっていられます」

 

鉄を切ったり、彫刻するには、「トーチ」という道具が使われる。アセチレンガスと酸素で炎を出して鉄を熱して、高圧の酸素で吹き飛ばす。その作業を続けると、遠赤外線がでるので結構体が焼けるという。

今回の制作は、今年6月から構想をまとめるのに取り掛かり、鉄板の切り出しを6月の終わりから始めた。朝の9時から夜の7時まで根気のいる作業だったという。

 

―参考にした作品や影響を受けたアーティストは?

「アメリカのジョナサン・ボロフスキーという板を寄せ集めて人体を作る作家がいますが、その辺から影響を受けていると思います。東京オペラシティの中庭に大きな像があります」

 


(小島さん 以前の作品を前にしながら)

 

―学部卒業後はどうされますか?

「彫刻科の大学院を受験します。今版画の工房も使わせてもらいつつ、彫刻科の制作をしています。院でも彫刻と版画のどっちもやってみたいので」

「鉄のイメージは、重くて固い。作品の表情はトーチから出た風が作った表情。本来なら風が鉄を削ることはほぼないが、そこに鉄のイメージの軟質化と自身の持つイメージの重量化がある」

 

小島さんは、これからも鉄をトーチで溶断する手法を続けていくことの可能性を感じている。

制作に当たり1.5トンの鉄材を30万円で購入したという。作品は総重量580kg、3.7mの大きさである。大型になってしまい、大学に相談して了承をようやくもらったという。

 


(トーチを手に持つ小島さん 左はアセチレンガスボンベ)

 

インタビューを終えて

鉄による彫刻とそこから取った版画の二つからなる作品が、1月28日から始まる「卒展」の会場にどんな風に展示され、どんなライトが当たるのか。「鉄の人体を吊るすインパクト、恐さで、来場者には興味を持ってもらいたい」と制作者としての望みを話してくれた。作品の完成と「卒展」の開催が今から楽しみでならない。

自らが目指す彫刻と版画の創造的な世界を真っすぐに進む小島さんの姿にはすがすがしさがあり、私たちはこれからも注目して応援していきたいと心から思いながら、藝大彫刻棟を後にした。

 


(左から2人目の小島さん、とびラー3人が作品のフレームの中で)

 


 

取材:森奈生美、吉水由美子、中村宗宏(アート・コミュニケータ「とびラー」)
執筆:中村宗宏
撮影:浅野ひかり(とびらプロジェクト アシスタント)

 

 

1年目10期とびラーです。今回のインタビューは、着想のイメージが立体作品となる制作過程や、現場のリアルな空気感を知る貴重な機会であり、版画と彫刻の逆転、侵食という発想がとても新鮮でした。鉄が持つ微妙なグラデーションも、実際に見て気づくことができました。今後、若い制作者によって彫刻と版画の新たなる領域が拓かれることを信じています。(中村)

 

 

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