清々しい寒さが肌に心地よい初冬の昼前、ひとつの出会いがありました。
彼女の名は、國方沙希さん。
文化財保存油画を専攻する修士2年生です。
いかにしてご自身の研究テーマに至り、いかなる手法にてアプローチされたのか。
◇
―まず、修了制作の課題について教えていただけますか。
「他の専攻より圧倒的に多く、4つの課題を提出しなければなりません。内訳は個人の油画修復、学年という単位でのチームで行う共同修復、修士論文、ロシア・イコン(聖像)の模写です。4つの目の模写はたまたまで、私たちの代はロシアから先生がいらっしゃっていた関係で、ご縁あってロシア・イコンとなりました。」
―国際色豊かなのですね。海外から来ている学生も多いのでしょうか。
「今年度は特に多くの留学生が来ています。中国、ギリシャ、韓国、つい最近まで台湾の子がいて、文化の多様性がありますね。」
―多方から学生さんがいらしているとのことですが、研究のテーマも幅広いのでしょうか。
「かなり広い範囲で研究テーマの設定が可能です。考古学・美術史学等、文系の側面も理系の側面もある分野なので、基本的には各々自由に研究しています。指導教官の先生はアドヴァイザー的な立ち位置で、大きく道を逸れそうな状況の場合は指導が入りますが、大抵はのびのびとやらせてもらっています。」
―個人での修復作品ですね。なぜこのような傷み方をするのですか。
「絵を巻いて保存したからだと考えられます。修復方法としては石膏充填剤を削ってマチエルを作り、一次補彩といって水彩で色をつけ一度ニスをかけた後、有機溶剤に溶けるアクリル絵具で補彩し、最終ニスを塗って仕上げます。意外かもしれませんが油画の修復には油彩を使いません。将来を見据え、基本的には可逆的でなければならないからです。周りの色から予測できる場合や写真がある場合は比較的修復がしやすいですが、そうでない場合は想像力が必要な作業となります。」
―ロシア・イコンについても教えてください。
「卒業課題にあるロシア・イコンは、テンペラ(卵を溶かした固着剤)を使用しています。チョウザメのニカワや、白ワイン、コーヒーなどのように、ロシアは修復や描画の材料として割と日本とは異なる素材を用いているようです。」
―どのように作成するのですか。
「私が模写したイコンの場合、原寸大だと大きすぎるので縮小したサイズで作製しました。板にニカワで麻布を張って、白亜地を塗った後そこに絵を描いていきます。写真をトレースして、そこから描き始めます。他の作業と並行しながらで、大体1年ほどで制作しました。図柄は違うものの、元々モチーフによって使用する色は決まっているのでイコン独特のやわらかい色味や風合いは、ほかの学生の作品とも共通しています。これを機に指導教官であったタマーラ先生に会いにロシアに行く学生たちもいます。」
―國方さんの研究テーマを教えてください。
「私は、油画の修復に用いられていた強化ワックスと呼ばれる蜜蝋と樹脂でできた接着剤を題材に、油画の再修復のための研究しています。強化ワックスによる油画の裏打ちは50年前頃によく行われていた修復手法でした。しかし現在は濡れ色になって暗色化してしまう等のネガティブな要素が強調されています。近年、過去にワックスで裏打ちされた作品が再修復の時期を迎えているタイミングでもあり、研究テーマとして選びました。」
―どの様な手法で検証されるのですか。
「今回は、本物の油画は使用せず、テストピースを作成します。温湿度による劣化試験を行い、強制劣化させたサンプルで検証します。中には実験用として使用の許可をもらっている個人の作品もありますが、今回は使用しませんでした。一定の指標を定め、サンプル間での比較を行います。」
―ワックスで一度裏打ちされた作品の再修復は難しいそうですが、画期的な代替案等はあるのでしょうか。」
「さすがに修士の二年間では新たな保存方法の提案までは厳しいかなと思っています。昨今蜜蝋による修復はタブー視されており確かな情報が少ないという背景から、現研究段階では、過去にワックスで修復されていた方々へのヒアリングによって現状を明らかにする事が大切だと考えています。」
―ワックスとの出会いを教えてください。
「社会人をしていたとき、家の近くに絵画修復工房があって、そこで出会いました。修復素材として一時は、万能であるとされていた材料で、個人的には蜜蝋使用時の甘い匂いがとても好きです。それがなぜネガティブな修復技法として捉えられるようになったのかとても興味深いと考え、自分で確かめたいと思ったのです。」
―平日お仕事をされながら工房に通うのは大変だったと思うのですが、修復に対してのとても強いお気持ちがあったのでしょうか。
「私の場合、元々美術と数学が好きで学部は理系寄りの建築学科でした。しかし漠然と修復に携わりたい気持ちがあって、学部のゼミは歴史学系に進みました。学部生のときは修士に進むことに迷いがあったため、一旦就職することに決めました。職場の関係で神奈川に移り住んだ際、近くに工房があることを知り、そしてそこで油画の修復に出会うこととなりました。私自身はこうしたい、こうあるべきという我の気持ちが強いタイプではありません。誰かのためにしてきたことが結果として今に繋がっているという感じが強いように思います。」
―これまでのお話や学部の専攻から、國方さんは理系の印象が強いのですが、この専攻に入学した決め手は何ですか。
「この研究室の入試説明会に参加した際、先生のお人柄と、様々なバックグラウンドの人たちが在籍しているという特色に惹かれました。将来こうなりたい、という明確な目標はまだないですが、異業種からきた自分だからこそできる新たな視点からのアプローチでこの分野に貢献できたらと考えました。」
―大学院生活はいかがですか。
「私自身作業を始めると没何時間も没頭してしまうのですが、先生には集中力のためできるだけこまめに休憩を取ることは勧められます。修復で失敗してしまったときはすぐに先生に相談し、普段の修復の進捗もできるだけ細かく記録しています。研究内容に関しては、大学院に入る前は概念的なことへの興味が強かったのですが、やっていく中で落とし所を見つけ焦点を合わせていったという感じでした。」
―社会人から学生を目指す人に向けてのメッセージをお願いします。
「まず自分の仕事に満足してから学生に戻るのがいいと思います。私は5年ほどかかりました。やってきたことを生かしてやろうという気持ちで臨んだのですが、結局は流れに身を任せるほうがいいのかもしれません。同時に、いつも誰かのためにやったことが自然と結果につながっているような気がします。私の場合、我を貫くというよりは人のためを思って行動したことが自分自身になっているので、そういうスタンスもいいのかもしれません。」
◇
初対面から小1時間半にかけての印象は、一貫して、香り立つオーラが他者を惹きつける方だなあというものでした。実際、お話を伺うなかでも國方さんの「引寄せ力」について感じるところが多々あり、素敵な巡り合わせをご自身の力で手繰り寄せていらっしゃったのだと確信しました。口調に始まる柔らかい空気感、その中に見え隠れする情熱、そして細部に広がる他者への心遣い。それら全てに彼女の魅力の理由が散りばめられているのではないでしょうか。
テーマ設定の動機も、物事における正負両側面がその価値であるという認識のもと、時代の変化によって負に変換されたものを現在においてフラットにすることにより、同じ流れの上にある過去と未来を守りたいという願いが根底にあるのではないかと想像力を働かせずにはいられません。
私観ながら、映画「時をかける少女」(2006,監督:細田守)に出てくる保存修復師のお姉さんに國方さんを重ね合わせてしまいます。主人公・真琴の叔母であり美術館に勤める彼女ですが、物語を彩るミステリアスなキーパーソンです。私自身映画の中で最も好きなキャラクターであり、國方さんとの共通点にピンときた瞬間から胸の高鳴りが抑えられませんでした。
変わらない過去をどのように解釈するのか。
待ってくれない未来のために私たちは何ができるのか。
時の女神との、丁寧に注がれたコーヒーのように味わい深いひと時でありました。
取材|江藤敦美、西見涼香、安東由美、山本俊一(アート・コミュニケータ「とびラー」)
執筆|江藤敦美
1年目とびラーです。活動の中で出会うすべてに、感動で胸がいっぱいです。これからはその気持ちをみなさんとたくさん共有していけたらと考えています。
第67回東京藝術大学 卒業・修了作品展 公式サイト
2019年1月28日(月)- 2月3日(日) ※会期中無休
9:30 – 17:30(入場は 17:00 まで)/ 最終日 9:30 – 12:30(入場は 12:00 まで)
会場|東京都美術館/東京藝術大学美術館/大学構内各所
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第8期とびラー募集
2018.12.02