2019.12.15
「ムービー部」は、デビューする人もリピーターの人も参加できるプログラム。5回連続で開催するうちの4回目が、この日開催されました。
“ミュージアム・チューバー”として、今回は15名の参加者が1ヶ月ぶりに再会しました。プログラム担当は、Museum Start あいうえのプログラム・オフィサーの鈴木智香子です。そして講師として、映像作家の森内康博さんを迎えます。
毎回、行き先が変わる「ムービー部」。
今回は恩賜上野動物園と国立西洋美術館の2カ所へ出かけます。
4回目の内容は、またステップアップした内容になりました!これまでは「1人1本」の映像を作っていたのですが、今回は「3人で1本」の映像づくりに挑戦しました。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)
2019.12.11
11月8日、グローバルアートプラクティス専攻に所属する、修士2年生の敷根功士朗さんにお会いするため、取手校地に伺いました。
待ち合わせ場所に指定された校舎内の一角にあるギャラリーに行くと、笑顔のステキなスラッとした青年が待っていました。
にこやかに迎えてくれた敷根さん。
ギャラリーには、最新の作品が展示されていました。経歴をうかがうと、学部は彫刻科で学び、大学院から現在の専攻に来たそうです。
どのような過程を経て、現在のこのインスタレーション作品が生まれてきたのでしょう。
展示中の作品についてお話を伺いながら、敷根さんの考えの源を探っていきたいと思います。
挨拶を終えると、早速、展示中の作品についての説明が始まりました。
展示されていたのは、複数のモニターや不思議なモチーフで構成されたインスタレーション作品。一見なんの関連性も無さそうな画面やモチーフのようです。
敷根さんは、映像や写真を使いながら、現代社会における映像の意味や本質を探ろうとしているそう。
展示されているものについて、ひとつひとつ解説してもらいます。
空間の真ん中に配置された青いテーブル。その上にはパソコンと、レコードプレイヤー上で回転する見覚えのあるエンブレムが。
パソコン画面には、街の風景が、まるで街中を歩いているかのように複数のウィンドウで映し出されていきます。
「これは、Googleマップのストリートビューイング機能を使って、ロンドン、ベルリン、ミラノの都市をバーチャルで『仮想観光』する映像です。実際に私が行った場所でもあります。」
「Google Earthでこれらの都市を見ると、ベンツの本社ビルの上にあるはずのエンブレムがすっぽり消えているんです。データ上の問題や、コマーシャル的な問題かとも思ったのですが、実際にはわかりません。かつてヨーロッパで流行った、SNSで人気を得ることを目的にベンツのエンブレムを盗んでアップするという事件に結びつきました。Googleという代表的なサービスで、同じようにエンブレムが『もぎ取られて』いる状況に、惹かれました。」
「また、このエンブレムには個人的な思いも関係しています。私の勝手な印象として、ベンツはセンスのない権力を手にした大人が乗るものというイメージがありまして。僕の住んでいる家の大家さんが銀のベンツに乗っていて。もちろん僕がそこから盗むことはできませんが(笑)。盗ってきたという想定で、ここで回っています。」
画面には、手書きのキャラクター「ベンツくん」が現れました。
ベンツくんが空を飛んで変身、旅に出るという設定のようです。
「テーブルの奥に置いた骸骨は、ナショナルギャラリーに展示してあるハンス・ホルバイン(子)の作品『大使たち」の骸骨をイメージしています。角度を変えると骸骨が見えるという、アナマル・フォーシス(別の視点から捉えると正常な形が見える)に惹かれて、このインスタレーション作品の全体の象徴として取り上げています。」
「この作品は、『うちはね、窓から海が見えるんだ』という作品です。実際には海に面することのない自宅の窓の目の前にある壁(大家さんの家の壁)に、海の写真を貼り、鑑賞することで、幻想と実体験を表します。また、写真、窓、レンズ、モニターなど複数のレイヤーを重ねることで『見る』ことを強調させています。」
大家さんは写真を壁に掛けたことには気がつかないらしい。
敷根さんにとって、大家さんはやはり気になる存在であるようです。
「次の作品は『夏・鹿児島』という映像からみる風景です。三部構成で、鹿児島にいる家族をテーマにしています。第一部は『床から椅子』で、父方の祖父母の足腰が弱ってきたので、椅子とテーブルの生活にしてあげようと、畳の部屋に買ってきた家具を置いて、食事をする風景を撮っています。第二部は母方の祖母の話『庭』です。祖母が毎日欠かさず手入れする『庭』の今ある姿を映しました。第三部は『コウモリ・墓参り』で、天井裏にいたコウモリ、そして先祖の墓参りを撮りました。」
「このような作品を撮ったのには、理由があります。以前、中国の敦煌に行ったときに、一帯一路政策で、街は綺麗になっており、日本にあるようなスポーツ店やタピオカ屋さんまでありました。グローバリズムが進む中で小さな生活がなくなってしまうことに感慨を覚えました。元に戻すことはできないけれど、映像として残すことはできると思いました。」
「そして、これらの映像を見た人に何かを感じてもらえたらと思いました。例えば、『そういえばおじいちゃんどうしているかな』とか。」
ご家族も撮っていることを意識せず、普段着で、食事風景もカメラアングルも自然にしたそうです。
事実、映像の中の敷根さんからも、今ここで話しているご本人とは違う、てらいもない、沈黙も自然な、あえて話さなくていい温かさを感じました。
「これは『俺の腹筋』という作品です。実際には私の腹筋ではないのですが(笑)。私たちはどれだけ刺激的な映像や写真でも、iPhoneのなかでは右親指のわずかな屈折運動によって退屈な情報と等しい速度で流されていくことにすっかり慣れてしまっています。『俺の腹筋』では、ただただ光に照らされる腹筋が画面いっぱいに映されます。この特に何の利益もない空っぽな映像に使用するモニターは重量が45キロほどあります、今となってはギャグのように重たいもので、このモニターの重さをもって重量の補填を試みる作品です。」
床に置かれたモニターに映し出された大きな身体。最初は気づきませんでしたが、それが腹筋だとわかった途端、呼吸の波とともに動く様子が気になり始めました。
敷根さんが作品で扱う対象は、どれも「人」が関係する身近な風景や存在のようです。しかし、見方を変えると、消えてしまったり、その存在の危うさが浮かび上がる…
いくつかの映像を見ていく中で、映像の無機質さの向こうに、「人との関係性」を眼差す、敷根さんの優しさが感じられました。
藝大に入るまで
「そういえば小学生の時に、クラスメイトが将来どんな人になっているかを予想してアンケートをとったことがありました。その結果、僕の将来は1位漫画家、2位写真家、3位画家でした。僕は科学者になりたいと思っていたんですけどね。人を助けるロボットみたいなものを作るとか、人の役に立ちたいと思っていました。」
クラスメイトはその頃から、敷根さんのクリエーターの素質を見抜いていたのでしょうか。
「中学三年時、漠然と普通科の学校には行きたくないと考えていました。そこで、当時、個別に美術を指導してくださっていた教頭先生や両親の勧めで美術高校の存在を知り、運良く進学できたことが美大進学のきっかけです。高校での三年を経て彫刻に興味を抱き、藝大の彫刻科に進学しました。」
彫刻科時代の作品をタブレットで見せていただきました。
「木や石で時間をかけて作る作品ではないものを多く作っていました。時代に合ってないのではという想いがありましたね。六波羅蜜寺の空也上人をロウで作ってみたり、生花の朽ちるまでを扱ったものや、飴を使った作品など、彫刻に対するアンチテーゼのようなものとしてつくっていました。」
新たな環境で見えてきた「人と人の関係」
彫刻科を卒業後、当時新設されたばかりのグローバルアートプラクティス専攻に進学した敷根さん。
留学生が多く所属し、海外の大学との連携授業や国際的なアーティストや研究者、専門家の指導によるカリキュラムが組まれた環境で、どのように学んできたのでしょうか。
「修士1年生の時、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)との連携プログラムに参加し、パフォーマンスを学びました。二人一組のペアで体を動かす。どこか体の一部を接触させながら、寝転がったり絡み合ったり。日本の感覚にはない距離感の違いや、日本人が抱える固有のコンプレックスを、文字通り肌で感じました。」
「『リレーションシップ』という言葉がいつも気になります。人と人の関係です。それは惑星の関係に似ているとも思います。近すぎるとダメな人もいるし、近づきたい人もいる。人の関係って面白いですね。」
過去の作品の中には、惑星をモチーフにした映像作品もあったそう。
さらに敷根さんは、2019年10月に学生対象アートコンペ「CAF賞」で藪前知子賞を受賞されました。その時の作品についてもお話いただきました。
「パリの大学で行ったパフォーマンスを記録した映像インスタレーション作品です。大学内にはレプリカの彫刻が沢山置いてあります。でもそれらには身体の一部が無かったのです。なぜかと調べると、部位によっては欠けやすかったり、時代を経ているなどの理由があるそうです。一説では紛争で勝ったときに、戦利品として、相手の所有する彫刻の一部を持って帰るという事があると聞きました。面白いですよね。そこで、僕は大学の記録映像を撮った時に彫像に欠けている男性のシンボルを粘土で付けるというのをやってみました。しかし、それはレプリカではなく本物の彫像でした。当然付けたシンボルは撤去され、僕は怒られましたという悲しい物語です(笑)。」
インプットの時間が今の自信につながった
「これまで、行きづまって考えられなくなり、もうダメだと、思い切って休学したことがありました。その間、映画や本、音楽、YouTubeに浸って・・・そんな時間が今の自分にとっていい時間だったと言えます。不安はありましたが、同時に漠然とした希望、なんかやっていけるという自信はありました。贅沢なニートだと友人には言われましたが(笑)。この時間があったことで、大学に復帰後、多くの作品を制作することができました。」
これからのこと
「両親がいて、兄弟がいて、父は毎日働き、母が温かい料理を作ってくれる。生まれた時から当たり前のように過ごしていたので、自分も当たり前のようにこんな家庭を築くぞなんて甘い考えを持っていたこともありました(笑)。今はその困難さに恐れおののいてますが・・・。今後何ができるだろうか、ずっと考えています。どのような形であれ、制作活動を続けていきたいという気持ちがあります。」
2時間近くにわたり、笑顔を絶やさず話してくれた敷根さん。
制作について悩みつつも、留まることなく前に進んでいる、そんな印象でした。
インタビュー中度々出てきた、『リレーションシップ』という言葉。常に情報を取り入れながら、絶えず日本、世界、宇宙、未来、そして他者にも想像を広げ、「人と人の関係」を丁寧に扱っていく。言葉の端々からは、そんな敷根さんの純粋な優しさが感じられました。
これまでも意欲的に作品を制作している敷根さんに、修了作品展ではどんな風になるのでしょうか?と最後に問うと、迷っている、新しい作品を作ってみたい気もすると仰っていました。
今回の修了展ではどのような展開を見せてくれるのか、ますます楽しみです。
執筆|齊藤二三江(アート・コミュニケータ「とびラー」)
とびラー3年目。いろいろな人やお子さんと、出会い活動することができました。今後もこの出会いを大切にしたいです。
2019.12.09
12月9日(月)、学校向けプログラム「スペシャル・マンデー・コース」が行われました。赤や黄に色づいた上野公園の木々を通り抜け、元気よくやってきたのは、豊島区立朋有小学校4年生のみなさんです。
「スペシャル・マンデー・コース」とは、展覧会の休室日に学校のために特別に開室し、ゆったりとした環境の中でこどもたちが本物の作品と出会い、アート・コミュニケータ(愛称:とびラー)とともに対話をしながら鑑賞する特別なプログラムです。
朋有小の児童62名、引率の先生5名をお迎えして行われました。
この日の様子を、「Museum Start あいうえの」アシスタントの浜岡聖がお伝えします。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)
2019.12.09
12月9日(月)、冬のあたたかな日差しのもと、今年度最後の「スペシャル・マンデー・コース(学校向けプログラム)が行われました。
「スペシャル・マンデー・コース」は、展覧会の休室日に学校を迎え、アート・コミュニケータ(愛称:とびラー)とこどもたちが、対話をしながらじっくりと作品鑑賞を行う特別なプログラムです。
この日の午後は、足立区立西新井第二小学校の5年生67名と、引率の教員、そして保護者のみなさんが東京都美術館を訪れました。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)
2019.12.09
まだ朝は肌寒い天気の12月9日。今年度最後の「スペシャル・マンデー・コース」(学校向けプログラム)が実施されました。
「スペシャル・マンデー・コース」とは、展覧会の休室日に学校のために特別に開室し、ゆったりとした環境の中でこどもたちが本物の作品と出会い、アート・コミュニケータ(愛称:とびラー)とともに対話をしながら鑑賞する特別なプログラムです。
午前10時に来館したのは、江東区立第六砂町小学校6年生のみなさんです。学校から貸切バスに乗って上野公園までやってきました。
この日の様子を、「Museum Start あいうえの」アシスタントの石倉愛美がレポートします。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)
2019.12.07
12月7日、第6回目の建築実践講座を行いました。今回は外部の建築の見学に出かけます。これまでは東京都美術館を中心に建物をみてきましたが、様々な建築に親しみ視野を広げていく機会として、年に一度設けている回です。
今年の見学先は、国立近現代建築資料館と旧岩崎邸庭園。隣接するこの2つは都美からも歩いて行くことができます。
建築実践講座を選択している約40名のとびラーとともに、まずは国立近現代建築資料館へ。「吉田鉄郎の近代~モダニズムと伝統の架け橋」展を観覧します。東京中央郵便局などの近代建築を数多く手がけた吉田鉄郎は、「逓信省の建築家」としても知られています。展示では、スケッチや図面が多数展示されており、手で描かれたそれらからは、建築家本人のこだわりや時代背景が伝わってくるようでした。
講座の後半は、旧岩崎邸を見学。4つのグループにわかれて、スタッフの方々による案内で園内を巡っていきます。
園内に現存するのは洋館、和館、撞球室(ビリヤード場)の3つの建物。国の重要文化財に指定されています。洋館は英国の建築家、ジョサイア・コンドルの設計です。
写真は撮影の都合により外観の様子のみですが、洋館と和館は内部も見学しました。
こちらは撞球室(ビリヤード場)。洋館と同じくジョサイア・コンドルの設計です。
近い場所にありながら、今回初めて訪れるとびラーも多く、上野公園周辺地域を知る機会ともなったようです。
とびラーからは「歴史的建築の保存についても思い巡らす時間にもなった」というコメントも。
古いものから新しいものまで、東京にはまだまだ沢山の歴史に残る建築があります。
都美以外の場所にも足を運びながら「建物をよく見ること」の幅を広げていくことができればと考えています。
(東京藝術大学美術学部特任助手 大谷郁)
2019.12.03
12月3日(火)、学校向けプログラム「うえのウェルカムコース」に、東京都立鹿本学園の高校3年生が参加しました。
鹿本学園は、肢体不自由教育部門(小・中・高)と知的障害教育部門(小・中)の2部門5学部が併置された特別支援学校です。年度末に卒業を控えた学校生活最後の社会科見学として、肢体不自由教育部門の生徒9名と引率教員13名が東京都美術館(以下、都美)に来館し、開催中の展覧会 上野アーティストプロジェクト2019「子どもへのまなざし」(〜2020年1月5日まで)を鑑賞しました。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)
2019.12.01
アクセス実践講座・第7回
「ろう文化と手話」
日時|2019年12月1日(日)13:30~16:30
場所|東京都美術館アートスタディルーム
講師|斉藤道雄(明晴学園前理事長、ジャーナリスト)
本年度アクセス実践講座、最後の外部講師となる斉藤道雄さんをお迎えし、第7回を行いました。テーマは「ろう文化と手話」。まだあまり知られていない「ろう」の世界について、ジャーナリズムの視点からご講義をいただきました。講義は、斉藤さんが制作したいくつかのドキュメンタリー映像を観ながら進行されました。
とびらプロジェクトでは、2018年度から聴覚に障害のあるとびラーが活躍しています。本年度のアクセス実践講座の内容は「UDトーク」という音声を自動で認識し文字化するアプリケーションを使い、モニターを通して逐次テキストでとびラーに伝えられます。今回の講座の記録は、このUDトークが文字化したテキストを元に、一部を引用する形でお伝えします。テキスト量が多くなりますが、示唆に富んだお話の内容をできるだけ記録できればと思います。(お話の一部分だけを引用しています)
斉藤道雄さんについて
(UDトークのログより一部引用)
越川(とびらプロジェクトコーディネータ アクセス実践講座担当):今日の講師の先生をご紹介したいと思います。斉藤道雄さんです。私が、『手話を生きる』という斉藤道雄さんの本を読んですごく感銘を受けて、お話をぜひ聞きたいと思ってお呼びしたんですけれども、昨年度から、聴覚障害のあるとびラーをお迎えして、聞こえないってどういうことなんだろう。言葉が違うってどういうことなんだろう。手話ってなんだろう。そのことをずっと考えていた1年半でした。今日はろう文化と手話という題でですね、斉藤道雄さんにお話いただきます。斉藤道雄さんはジャーナリストでいらして、テレビの業界でろうの世界について取材をされる中で、ろうの学校をつくるというところまで来て、明晴学園という日本で初めての、手話で子供たちを教育する学校です。あいうえのにも明晴学園の方々が来てくれてたり(2014年度活動ブログ、2017年度活動ブログ)しました。
斉藤:皆さん、こんにちは斉藤です。よろしくお願いします。僕はろう学校の校長をしてたんですけれども、校長といっても小さな学校なんですよ。幼稚園から中学まで全部合わせて子供が60人ぐらいという学校ですから、学校というよりは塾みたいなもんなんですけど、そこの校長をやってました。その後、学校の運営の手伝いをしたりして9年ほど関わったんですけれども、今はもうやめてます。聾学校に関わったのはなぜかというと、もう20年以上前ですかね。前から手話という言語に興味があって取材してきた、だからろうの人たちの中に入り込ませてもらって、いろいろと取材してきたという経緯があります。
ろうの家族
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:ろうといっても実はそのたくさんいろんな方がいるので、十把一絡げには言えないんですけれども、小さいときからろうとして育った、つまりろう文化に馴染んで育ってきた人たちの中にはですね、(自分の)子供もろうであってほしいと希望する人が結構な数いるんですね。僕は最初にそのことを知ったときにとても驚きました。本当にそんなことがあるんだろうかといって取材したのが最初のビデオです。家族全員がろうの家族。つまり、親も子供もろうというそういう家族の映像です。
(映像1:1997年2月7日、TBS報道特集『手話の世界』 )
斉藤:僕自身は、こういう世界に出会うまで、おそらく皆さんと同じようにですね、聞こえないっていうことは不幸なことそれは避けるべきだというか、聞こえた方がいいと考えてました。
聾学校の誕生
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:1755年、世界で初めての聾学校ができました。このときの聾学校は手話で子供たちを教える、あるいは子供たちも手話で暮らすという学ぶというそういう聾学校であったわけですね。フランス手話はその後いろんな経緯があって、アメリカに持ち込まれてアメリカ手話が発展していきました。だからフランス手話とアメリカ手話っていうのはかなり共通性が高いので、アメリカのろう者とフランスのろう者は手話で話をして、音声語でイタリア人とフランス人が話をして同じくらいは通じるということが言われてます。ところがその後成立したイギリス式は、アメリカ手話というのは全く違った形で出てきた言葉なので、イギリスのろう者とアメリカのろう者が手話でで話そうとしても、うまく通じないという。つまり手話っていうのはそれぞれの社会でそれぞれの地域で独自に発展してきたということですね。
聾学校というところで、手話がだいたい固まって成立するんですよね。ろう者がたった1人で生きてると手話は生まれないんですよ。正確にはホームサインというものがあってその家族だけ、あるいは身の回りにいる地域の限られた人だけがちょっとだけわかる手話というのができるんですけれども、ホームサインというのは言語とは違って一般的な言語とそれ以外のものの中間みたいな。そういう言語になってます。れっきとした言語になるのは聾学校なんですよね。世界で最初の聾学校、それがパリでして、パリから手話、ろう文化というものが広まっていきました。いつでも、小さなコミュニティのろうの人たちが手話を使い始めてた。それが子供たちがろう学校に行くことによって、手話として完成していったということであると思います。
日本はですね、1878年に京都に聾学校ができました。京都盲啞院、見えない人と聞こえない人両方のためのが学校があったんですけれども、そこができたことによって、日本の手話ができ上がったというふうに言われてます。なんで聾学校で手話ができるかというと、ろうの子どもたちが集まるんですね。子供たちが集まって子どもたち同士で話をしてると、そこで言語として次第に固まってくる。とても面白いですけれども、最初の子どもたちが使う手話は、言語にはまではいかないんですね。その後に入ってきた子どもたち。最初の先輩の生徒たちが使ってる手話を見て、小さな子どもたちが入ってきて、その手話をまねて使い出すと、そうするとそれが本当の言語になります。言語学的な意味で日本語とか英語とかフランス語と同じ意味となるわけですね。そういう意味で聾学校というのは非常にろうの人たちにとっては生活の場以上に、自分自身の人格そのものができる場、言語ができる場という意味でとても大切なところだったわけです。
ろう文化宣言
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:1995年にろう文化宣言っていうのが日本で出されてます。実はこのろう文化宣言というのは、アメリカのろう者が起こした運動を引き継ぐ形で日本で発展させた形になるんですけれども。木村晴美さんっていう方が中心になって出したんですけれども。ろう文化宣言がこう言ってます。「ろう者とは、日本手話という日本語とは異なる言語を話す言語的少数者である」と。
ここで木村さんたちが言ったことは、聞こえるか聞こえないかではなくて、どういう言葉を使うか、自分たちは手話という言語を使う、そういう人間なんだというそういうことを宣言したわけです。障害論で言うと、医学モデルから社会モデルへっていうそういう展開になるんですね。医学モデルっていうのはその人の体を医学的に見て、そして聞こえるかどうか、聴力はどのぐらいか。聴覚障害者と呼ぶかどうするかっていうそういうわけですね。でもろうの人たちにするとそうじゃないんだと本当の違いは言語なんだと。自分たちは手話って言語を使う少数派なんだということを、1995年に宣言したわけです。
聴者とろう者を分かつのは、聴力ではなく言語というところです。それを踏まえた上で次のビデオをご覧いただきたいんですが、このビデオは2004年に放送してました。ビデオを撮ったときはですね、まだ明晴学園っていう僕が勤めたろう学校はまだできていませんでした。その前段階の龍の子学園っていう名前のフリースクールなんですね。ここにろうの子どもたちが集まってきて、手話覚える。そして手話で学ぶっていうことをやってました。そこに赤ちゃんがやってきて、手話を獲得していくというそういう過程を記録したものです。
(映像2:2004年1月25日、TBS報道特集『赤ちゃん手で話す』 )
斉藤:日本では100年近く前からろう学校は口話教育といって、音声を聞くこと喋ること、これを子供たちに訓練するということをずっとやってきました。
努力してそれが報いられればいいんですけれども、大部分の子供にとってはうまくいかない。そしていつの間にか子どもたちは手話を覚えてしまう。もちろん手話を教えてるところなんていうのはどこにありませんから、ろう者が寄り集まると手話を使う。その手話っていうのは、日本手話というのがあるのでそれを子供たちは覚えてくるわけですね。
基本的には聞こえない子に聞こえさせるっていうそういうアプローチはやっぱり限界があるということで、少しずつ全体が手話に変わってきたっていうことがありました。
(中略)
斉藤:手話っていう言語はやっぱり日本語と全く同じように厚い壁に囲まれてるっていうことなんですね。
壁なんていうとね、なんかネガティブな印象がすごくあるんですけれども。逆にその手話の内部から見ると日本語が簡単に入ってこられない、あるいは他の言語と混じり合って別のものにならない。これはとても大切なことなんですよね。そうすることによって手話はずっと手話として生き続けて子どもたちの手の中で伝えられていくというそういうことが繰り返されて手話として生き残っていくわけですよね。それは日本語が生き残ってきたのと全く同じメカニズムだと思います。
こういうお話をするのはろう文化というものがあってですね、それを僕らは理解したいと思う。その中に入っていきたいと思います。かなりの程度はできます知識を知っていれば、こういう見方をすればいいんだなっていうことはわかると思うんですよね。だけれども、本当の中の中まで入るというのはとても難しい。
手話の表現
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:次のビデオでご覧いただきますけれども、これはろう文化の内部に僕がいろいろとその当時歩き回って中に入れてもらって、そして記録したものの一部です。ろうという人が、手話という言語はどういうふうに使うかとか、彼らの中で何が起きてるかっていうことはね話し始めると際限がない部分があるんですけれども、1人ろうの世界の中で、取材した人がいました取材対象が米内山明弘さんっていうろう社会では非常に有名な方です。日本ろう者劇団という劇団を作ったりしてそしてずいぶんいろんな活動をされてきた方ですね。
米内山さんっていう人は両親もろう者だったのでいわゆるデフ・ファミリーろう家族に育った人ですね。そしてろう者の間ではとても尊敬されてるのはですね、彼の手話というのが日本の手話のお手本みたいな感じの、非常に豊かな手話であるということがあります。手話通訳さん連れてって米内山さんの手話通訳のさせるとだいたい音を上げるんです。情報量が多すぎて、ほぼ日本語に音声語に変換できないと言ってですねみんな。米内山さんが使ってる手話っていうのは全部その子の細かいところまで日本語にしようと思うと結構大変な作業になるという。複雑な陰影に富んだ手話を使う方です。同時にですね、身の周りに漂ってるろう文化というものも少しご覧いただけるかなと思います。
(映像3:2000年5月18日、TBS・NEWS23『ろう者米内山明宏』 )
斉藤:音声言語と視覚言語というのはかなり違うところがあって、目で見たものを再現するという力においてはですね、音声語は圧倒的にかないません。僕よく彼らの手話を記録したり横で見てたりするんですけれども、手話通訳さんがだいたいこう嘆くのがですね、私は日本語にそれを直すんだけれども彼の言ってることを表現していることの10分の1も表現できてないな。っていうそういうことをよくですね。逆に手話の弱いところもありますけれども、目で見た光景を再現するというこの力においては音声言語は圧倒的にかないません。
明晴学園
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:次にご覧いただくのは僕がいた明晴学園というろう学校なんですが、日本で初めて全ての授業を手話で行うというそういう学校にその授業の模様を一部ご覧いただこうと思います。
(映像4:2014年5月21日・明晴学園小34クラス社会「八潮」 )
斉藤:今のが小学部の3年生の。授業の中身だけ見ればね日本中のどこの小学校でもやってる授業と全く同じだと思います。ただ言語が違いますよね。そして先生は子供たちの言ってることは完全にわかってます。子供たちも先生の言ってることがそれなりにちゃんとわかってますね。こういう授業は日本のろう学校で過去80年、あったことがありませんでした。つまり先生が口で喋ってるのを子供たちは聞くわけだから聞こえないんですよね。先生が何言ってるかわかんない。先生は子供たちが話す口話。つまり喋る言葉を聞き取るわけですけど、子供たちの声はやっぱり不十分ですから、何を喋ってるのかよくわからない。仮に子供たちが手話を作っても使っても先生達は子供達の手話を読み取ることができません。だからこういう授業は、日本の学校のろう学校の教育ではありませんでした。
(中略)
CODA
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:CODAというのは Children of DEAF adultsなんですけれども、ろうの両親から生まれた聞こえる子供です。数は非常に少ないんですけれども、つまりこの人たちは耳は聞こえるけれども、生まれてまず両親の手話を見て育つんだから第一言語が手話になるわけです。そして同時に幼稚園に行くころから近所の子供たちと一緒に遊ぶようになると、なんかわかんない言葉喋ってるか口がパクパクしていって何言ってんだかわからないっていう状況から初めてでも日本語を習得していくわけですね。そして、手話と日本語の両方の言語のネイティブ、バイリンガルになってきます。
僕が一番ろう文化手話のことを教わったのはこの人たちからなんですね。有名なCODAの人たちが何人かいるんですけれども、そういう事情は日本でも外国でも全く同じでですね。CODAという人たちというのはある意味では極めて便利な存在だし、貴重な存在として話をしてくれます。ただCODAといってもいろんな人たちがいるので、全員がネイティブというわけではないんですね。CODAの中には音声言語の習得が遅れたので日本語がちょっとたどたどしいなんていう人もいます。耳は聞こえるんだけれども、もうだから手話はまったく流暢さのものネイティブのろうと何ら変わりはないんだけれど、音声が少しというような人もいれば、もちろん逆の人もいます。
(中略)
ろうと聴をこえた「人間の文化」
(UDトークのログより一部引用)
斉藤:ブリストル大学のパディ・ラッドが書いたことの中で面白かったったのが、パディ・ラッドはイギリスのろう者のエスノグラフィ(行動観察調査)って言うかその聞き取り調査をずっとしてきたんですね。普通のそこら辺の町にいるろう者がどういう経験をしてきたか、どんな人生を送ってきたのかっていうそれをビデオにとってそして記録してくるっていう、そういう作業をずっと続けてきた人でした。
その中で僕は非常に印象に残ったのはジェームスという1人のろう者の言ってることだったんですね。ジェームスはもちろんイギリスで普通のろう教育を受けたので。英語音声語はほとんど使いません。なおかつですね、使えないだけではなくて読書も十分にできない、そういう状態でろう学校卒業してます。ジェームスはそれにもかかわらず、一生懸命自分で勉強してパブに行って筆談でパブに来たいろんな人たちとですね、話をしながら少しずつ英語を勉強していった。ろう学校のときにはわかんなかったけどそうやって話を筆談で話をしてると少しずつわかるようになってきた。
これもすごいなと思うんですけどね。そうやっていろいろ聴の人たちとね話をしてると聴文化というのをもちろんわかってくるんだけれども、タブロイド紙は読めるようになったので、世の中のことはいろいろわかるようになったんだけれど。よくよく話してみると、聴の人とたちの向こうにもう一つ別な世界があるんだな。ということなんですね。それまで聴者の世界でと思い込んでいた物の下にもう一つの別な世界がある。彼はそういう言い方をしてないけれども、ろうも聴も超えた「人間の文化」っていうそういう意味だろうなっていうふうに僕は思ってるんですね。ろう文化・聴文化というふうに区別されるところはもちろんある。それはすごく違うところもあるけれど、ろうも聴も共通して持ってる人間の文化みたいなものがあるんだなっていうところに、彼はたどり着いてると思うんですね。そこは僕はなかなかね、味わい深いなと思って。
ー
斉藤:固い壁に阻まれて遮られているろうと聴の両方なんですけれども、しかし壁があるっていうだけで諦めるわけではなくていろいろな回路をたどるあるいは助けてもらう。というふうなことをしながら、いわゆる異文化理解っていうふうなことはですね、僕は不可能ではないだろうなと思います。ただわかったつもりになってもわかってないっていうことはしょっちゅうあってですね。そういうときにろうの人たちがどういうふうにすれば僕らを受け入れてくれるのかなと。向こうにもちょっと開いてほしいんだけれども、こちらもう自分を開いていくというそういうことかなっていうふうに思ってます。本当に自分が開けていったかどうかはわかりませんけれども、開こうという気持ちだけは僕はあったつもりなので、それで多少受け入れてもらえたかなと。そして、彼らの中の世界を記録することができたのかなっていうふうには思ってます。
(UDトークのログより一部引用おわり)
マイノリティ(少数派)にずっと興味があったという斉藤さん。マイノリティの世界にマジョリティ(多数派)の立場として入っていくのではなく、逆に自分が一人で入っていって「心細い思いをする」ことが大事だったのではないか、とご自分のジャーナリストとしての活動を振り返る姿が印象的でした。
斉藤さんは言います。
「そういうふうにして立場が逆になるとね、初めてわかってくることはいっぱいあるので。多文化理解とかなんとかいろんなこと言いますけれども、基本は入っていくっていうことではないかな。しかも自分たちが多数派の立場として入ってくるっていうことをやってどうしても限界があるので。少数派になっちゃうというそれが意外と面白い結末になるんじゃないかなというふうに思います」
とびラーはこれまで、少数派であるがゆえに社会的な不利益にさらされる方のお話を講座の中で耳にしてきました。その方々に「何がしてあげられるか」という視点からではなく、どのように「入っていけるのか」そんなことを考えさせられるお話でした。
講座の後半では、今年度からとびらプロジェクトに加わった伊東俊介さんのインタビューを行いました。きき手は、プロジェクトマネージャの伊藤達矢さんです。
伊東さんは、大学院で博物館のアクセシビリティについて研究されています。
アメリカのスミソニアン博物館で、手話を使うろう者、手話を使わない聴こえない人、聴こえる人が一緒に参加しているプログラムを目にし、そのプログラムが学芸員ではなく一般の学生(ギャローデッド大学)による企画であることを知った伊東さん。自分もそんな活動がしてみたいと、とびらプロジェクトに参加したと言います。
口話の中で育ってきた伊東さんは、大学に入ってから手話を覚え、すこしずつろうの世界も知るようになりました。ろうの文化、難聴者・中途失聴者の文化、聴者の文化、自分がどこに属すかというのは曖昧な部分があると言います。むしろそういったカテゴリーにこだわらずに生きていっても良いのではないか、と考えているそうです。
たくさんの異なる文化が一つのところにおさめられている博物館こそ、多文化理解について考える格好の場所と考え、とびらプロジェクトに在籍している間にも活動を作っていければとお話をしてくださいました。
(東京藝術大学美術学部 特任助手 越川さくら)
2019.11.25
11月25日(月)、綺麗な紅葉が上野公園を彩る中、「スペシャル・マンデー・コース」が実施されました。
このプログラムでは、休室日の展覧会を貸し切りにして、じっくりと作品たちと向き合う機会を大切にしています。今回参加したのは3校。そのうちの1校である文京区立第三中学校の様子を、東京都美術館アート・コミュニケーション係インターンの小野がご紹介します。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)
2019.11.25
美術館のロビーに並べられた、小さな椅子。その傍らで、こどもたちの到着を待っているアート・コミュニケータ(愛称:とびラー)たち。
今日は、学校向けプログラム「スペシャル・マンデー・コース」の日。
休室日(月曜日)の東京都美術館を舞台に、特別な授業が行われます。
「こんにちは!」やってきたのは、江東区立八名川小学校(以下、八名川小学校)の、小学5年生62名、保護者8名、引率5名の計75名。そこに、プログラムの伴走役を担うとびラー25名と、スタッフ6名が加わります。
「みなさん、こんにちは。ようこそ東京都美術館にいらっしゃいました!」
登場したのは、東京都美術館 学芸員アート・コミュニケーション係の河野佑美さん。
プログラムの様子はこちら→
(「Museum Start あいうえの」ブログに移動します。)