2022.01.27
2021年12月27日。修了作品の最終審査を目前に控え、どこか慌ただしい取手キャンパス。忙しい時期に私達・とびラー5人をこころよく迎え入れた菅谷杏樹さん。菅谷さんは、2019年より東京都西多摩郡檜原村にある築150年の古民家に居住し、養蜂、養蚕、農業を実践しながら、制作活動を行っている。檜原村での生活は、まず家を直すことから始めたという。生活・制作拠点を整え、満を持して制作された修了作品《霧を縫う-Sew the haze》藝大入学から檜原村での生活、お祖母様のご実家で養蚕を行っていたという自身のルーツに影響を受けて制作された修了作品への思い、修了後の展望をうかがった。
―なぜ藝大に入学されたのですか?
「美術史が昔から好きで。美術から各時代・各土地の人間がどんなことを考えていたのか、どういった感覚だったのかを実践的に学びたいと思い、高校卒業後、絵画修復・保存の道に進みました。
長い年月を経て劣化した作品を発表時の状態に近づける絵画修復・保存は、もちろん必要な分野です。ですが、絵画修復・保存を学んでいくなかで、作品が風化していく、自然に還っていくことをおもしろいと捉えるようになり、自分が目指す道とはちょっと違うなと思う部分がありました。そこで絵画修復・保存の道を離れ、原点に立ち返り、美術史を学ぶべくドイツに留学しました。ドイツで2年、美術や哲学を学ぶなかで、インスタレーションに興味を持ち、学びたいなと思うようになりました。ただ、どこの大学で学んだらよいのかわからなかったので、帰国後、瀬戸内国際芸術祭で制作ボランティアをしながら、作家のみなさんに、私のやりたいことが実現できそうな、おすすめの大学はどこかをうかがいました。そこで東京藝術大学美術学部先端芸術表現科をすすめられまして。
芸術祭終了後、そのまま藝大に受験票を出して、今に至るという感じですね。」
―高校から藝大を目指して、入学されたというわけではないのですね。現在は古民家で暮らしながら制作されていますが、それは偶然なのでしょうか?それとも何かきっかけがあるのでしょうか?
「私はもともと、農業や養蜂に興味がありました。学部生の時から畑を借り、農業をやってみたり、取手キャンパス内でミツバチを飼い、卒業制作を行ったりしていました。生活と創作、そして養蜂や農業を同じ場所で行いたいと思うようになり、それに適した場所を探していたところ、檜原村に行き着きました。」
―檜原村の古民家での暮らしはいかがですか?
「私が暮らしている古民家は、築150年で、本当にボロボロでした。柱も腐っていて、床も抜けていて…。修士課程を2年間休学して、家をまず直しました。
檜原村は、すごい山奥で、暗くなると、何も見えなくなってしまう。他の動物は外の状況が、自分以外の動植物がどこで何をしているかが見えているけれど、人間だけは何も見えない。火を焚かなければ、死んでしまう。ちょっとしたことから人間は非常に弱い、無力な存在だなと感じさせられます。
山で人間は、動物や植物、異種と共生しなければならない。自身の音や匂い、身体性を否応がなく共有する。都会では同種である人間に囲まれて生活しているため、なかなか気がつきませんが、山では自身の身体性を再認識するとともに、人間優位ではない世界の存在を日々感じています。
人間中心である現代において、私は異種と新たな関係性を築く必要性を感じています。ただ昔に戻るのではなく、彼らと共生していた時代、昔を見つめ直すことで、新たな関係性を築きたい。異種、とくに家畜化された生き物と人間の関係のありかたを制作から模索し、次の世代に繋いでいけたらと考えています。」
―なぜ今回、養蚕を修了作品で取り上げたのでしょうか?
「はじめから養蚕を修了作品のテーマとして取り上げると決めていたわけではなく、檜原村への転居、祖母から養蚕を行っていた高祖母のエピソードを聞いた、という2つの事象のタイミングが重なったことから、今回の制作に至りました。
檜原村は戦前までは養蚕が盛んに行われていた場所で、私が暮らしている古民家でも養蚕が行われていたことがわかりました。そこから私が今、暮らすこの家で、昔はどんな風に養蚕を行っていたのだろうと想像するようになり、養蚕のことを少しずつ調べていくようになりました。
また今年の3月に他界した私の祖母の実家でも養蚕を行っていたことがわかりました。祖母が亡くなる前に、養蚕を行っていた祖母の祖母、私にとって高祖母にあたる人、が繭を口に含み、口から糸を出して、それを巻き取る光景を目にしたという、祖母の幼少期、4歳ぐらいの時の記憶を話してくれました。私はその光景を不思議に思い、繭を口に含み、糸を巻き取る行為についても調べるようになりました。」
―実際に蚕も育てられたのですよね?蚕を育ててみて、いかがでしたか?
「大変でした、とても…。私は初心者だったので、1回に50〜70匹を育てることを何回か行ったのですが…。蚕は非常に手間が掛かる、なかなかわがままな生き物で、餌として新鮮で濡れていない桑の葉をこまめにあげないと死んでしまう。体に光を当ててもいけない、温度湿度管理にも気をつけなければいけなくて…。
蚕は、人間が快適だと思う温度湿度で過ごすことが最適な生き物で、昔は人間と同じ居住空間のなかで育てられていたそうです。この手間が掛かる養蚕を、高祖母の時代には40%近くの農家が行っていたことを知りました。昔の人達の大量の虫を育てて一緒に暮らすという異種への距離感、彼らが異種との密接な暮らしを受け入れていたことが非常に興味深いなと思いました。
養蚕は「お蚕様(おこさま)」と称され、聖徳太子も「子どもを育てるように、蚕を育てなさい」という言葉を残していています。
近代以前、蚕は多くの人間にとって近しい生き物であった。一方、現代、多くの人間は蚕だけでなく、虫を子どものように育て暮らす感覚をあまり抱かないのではと思います。その隔たりから、私の創作テーマである家畜化された生き物と人間の関係についても改めて考えました。「家畜」と聞くと、人間が搾取している印象が強いし、そういった側面が実際にあると思います。この搾取構造は必ずしもいいものとは言えず、変えるべきだと思います。
しかし馬や牛を見ると、原種は絶滅しているけれど、家畜化された種は人間による種の繁栄に成功している。もはや可哀想だとか、私達人間が抱く一元的な印象だけで、家畜化された生き物と人間の関係は捉えることができないものになっていると考えながら、作品を制作しました。」
― 修了作品《霧を縫う-Sew the haze》(とくに映像、壁に掛けられた喪服に関して)を紹介しながら
「高祖母は祖母が9歳の時に亡くなりました。
今回、高祖母が幼い孫である祖母にむけて残してくれた喪服を私が着て、こちらの映像に出演しました。この喪服は、高祖母が育てた蚕の糸から作られています。私は、蚕が繭を作るまでの行為と高祖母がこの喪服を作った行為を重ねて捉えています。
蚕が口から体液を外に出し、外に出された体液が繊維化することで糸となり、やがてその糸が繭へとまとまるように、祖母は繭を口に含み、その祖母の唾液が含まれた蚕糸が外に出され、紡がれ、喪服となった。この喪服は、いわば高祖母にとっての繭であると。
私は、祖母の葬儀で初めてこの喪服を身に纏ったのですが、不思議な感覚に包まれました。そこで私は高祖母の行為をなぞるように、繭を口に含み、外に出す行為を映像に残したのですが、これは高祖母と蚕が近しかった感覚を体感的に理解すると同時に、私もまた次の世代に自分の繭を残したいと思ったからです。なので、あえて今回はこの糸で何かを作るのではなく、糸だけを残して、作品としました。」
―映像制作で苦労されたり、悩まれたりした点はありますか?
「私は今回初めて映像作品に出演しました。それに関して葛藤がありました。本当は制作だけで、映像出演はしたくなくて、他の方にお願いしようかなとも思ったのですが、この映像は私の家族のお話なので、私が高祖母を演じることに必然性を感じて、出ることにしました。
実はこの撮影はすごく難しくて…。暗い部屋で黒い喪服を着て、細い糸をうまく光らせることができず、何回も撮り直しました。糸を光らせるためには部屋を暗くする必要があるけれど、あまりに暗いと、今度は喪服が同化して見づらくなってしまう。私の映像技術では難しかったです。」
―ご自身が育てた蚕が作った繭から糸を紡いで作品を作られた思い、感想はいかがですか?
「卒業作品でミツバチを扱った時にも感じたのですが、私だけでは確実に作れないものを作ってもらっている、私一人が完全にコントロールすることはできない生き物に関わる作品制作のプロセスが私にとっては楽しかったです。
ミツバチの時同様、蚕を飼いだした時も私が蚕をしっかり飼えるのか、どういう感情が湧くのか、全く未知数の段階ではじめました。実際に飼い、養蚕について調べていくなかで、昔の人が抱いた“お蚕様”、子どもを育てるように蚕を飼う感覚を確かに実感し、養蚕はこの心理的な近さがなければ成り立たないものだなと思いました。高祖母が繭を口に含んだという行為もこの距離感でずっと暮らしていたのならば、自然な流れによるものだったんだなと納得できるようになりました。」
―家畜化された生き物のなかでも、ミツバチや蚕、虫を作品に取り上げられてきたのはなぜでしょうか?
「哺乳類は比較的コミュニケーションがしやすいため、家畜、家族として受け入れられやすいと思いますが、虫はコミュニケーションがしにくく、異種としての印象が強いと思います。虫とどのように繋がり、家畜としてきたのか、それが非常に興味深いなと思い、作品に取り上げるようになりました。」
―お祖母様もまた養蚕を行われていたのでしょうか?
「いえ、行っていません。ただ高祖母の繭を口に含んだ行為は、本当にあったことか、それとも祖母の記憶違いなのか、気になって、親戚にも確認しました。親戚はみな「見たことがある」と言っていて。ただ見たことはあるけれど、それぞれ、高祖母の行為に対する意見が異なりまして。「あれはただの子どもの遊びだ」、「そうやってちょっとした縫い物をしていた」という人もいて。本当のところは分からず。他にもいろいろな史実資料を調査したのですが、祖母のような行為をしていたという記録は見つけることができませんでした。
「日本書紀」には養蚕起源神話が残されています。月夜見尊(つくよみのみこと)は、天照大神(あまてらすおおかみ)に命じられて保食神(うけもちのかみ)を訪ねました。保食神は自身の口からごちそうを出して、月夜見尊をもてなそうとしました。しかし月夜見尊はごちそうではなく汚れた吐物を出されたと思いこみ、保食神を殺してしまいます。天照大神は、月夜見尊に代わって天熊人(あめのくまひと)を殺された保食神のもとへ派遣したところ、保食神の体の各部位から牛や馬、さまざまな穀物が生まれており、繭からは蚕が生まれたことがわかりました。天熊人は天照大神のために保食神から生まれたものをすべて持ち帰りました。そこで天照大神は蚕を口に含んだところ、口から糸を引き出すことができ、ここから養蚕がはじまったとされています。この起源から考えるならば、高祖母の行為もありえなかったものではなく、起源に近い行為であったのかなとも思うようになりました。」
―学部から大学院前期課程まで8年、藝大で過ごされてみて、いかがでしたか?
「長かった…。ともに制作して、いろいろ言い合える仲間ができたことはかけがえがないですね。やっぱり同期生、一緒にやってきた仲間が、私のやってきたこと、やりたいことを一番わかってくれる。「こうしたいなら、もっとこうすればいいんじゃない?」と的確にアドバイスをくれることはありがたいです。」
―修了後の展望は?
「修了後も引き続き檜原村を拠点に活動していきたいです。檜原村では『ひのはらアートプロジェクト』という現代アートの展覧会が今年初めて開催され、私も作品を出展しました。今後もこのプロジェクトに出展したり、現在の家はすごくいいロケーションなので、お宿を営めたらと思ったり…。
檜原村を一時的な祭が開催される場所としてではなく、細く長く、そこにいくと誰かが何かをやっている状態にしていけたらと考えています。」
—インタビューを終えて
お話を聞けば聞くほど、菅谷さんが描く世界に魅了され、「もっともっとお話を伺いたい!菅谷さんの他の作品も見てみたい!」と思った1時間半。私達とは異なる視点で、この世界を捉えている菅谷さん。一度、菅谷さんの目になってこの世界を見てみたら、どんな風に見えるのだろう。養蜂、養蚕、農業も実践し、作品制作にとどまらない菅谷さんの活動。彼女の今後が楽しみでたまらない。
(インタビュー・文・とびラー)
取材:有留もと子、安東豊、佐々木杏奈、竹中大史、松本知珠
執筆:松本知珠
9期、活動2年目のとびラーです。
私も幼少期に蚕を飼っていたことがあります。蚕が小さい箱のなかで立てていた「カサカサ、カサカサ…」という音は今でも耳に残っています。山と海に囲まれた伊豆で育った私は、登下校中に猿や野犬、ヘビなど様々な動物と遭遇したこともあります。台風が発生した時には、家から見える波の高さに驚き、安全な場所に逃げたいけれど逃げることはできない…、なんとも言えない恐怖を感じたこともありました。菅谷さんの作品とお話から、いつもは気に留めていない幼少期の記憶がふわっと浮かび上がりました。ぜひ菅谷さんの作品を実際に鑑賞し、多くの方にも、「いま・ここ」を離れて、自分自身しか思い描くことのできない情景を描いていただけたらいいなと思っています。(松本)
2022.01.27
第7回鑑賞実践講座|「1年間のふりかえり・この活動の目指すところ」
日時|2022年2月14日(日)13:30〜16:30
会場|オンライン
講師|稲庭彩和子(東京都美術館 学芸員・とびらプロジェクトマネジャー)、三ツ木紀英(NPO法人 芸術資源開発機構(ARDA))
内容|
・「作品選び」について
・1年間のふりかえり・この活動の目指すところ
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今年度の鑑賞実践講座最終回となる第7回では、稲庭彩和子さん、三ツ木紀英さんを講師に迎え、あらためて1年間の学びと実践をふりかえり、この活動の目指すところについて、みなさんで考える時間になりました。
稲庭さんからは、歴史的な流れの中で「対話的な学び」が必然性をもって生まれてきた背景について、また、ミュージアムが今なぜ「民主的な対話の場」として価値づけられようとしているのかについて、とびらプロジェクトのあり方と結びつけてお話しがありました。
とびラーは、稲庭さんからの話を受け、「とびらプロジェクト」で対話的に学び、アートを介して民主的な対話の場を生み出していく活動がどんな意味をもつのか、あらためてこの「活動」の目指すところについて、この1年の体験をもとに話し合いました。
とびラーは、1年間の講座やとびラボやプログラムでの活動の中で、とびラー同士やプログラム参加者とともにモノを見つめ、対話する実践を繰り返してきました。
その中で、固定化しがちな一方向的なモノの見方に自ら気づき、
他者と一緒にさまざまな視点からもモノをみつめる楽しさや、
そこから生まれるウェルビーイングな状態を実感したとびラーも多かったと思います。
後半は、2〜6回の講座を担当してきた三ツ木さんと、稲庭さんによる対談を行いました。
コロナ禍で一般化したオンラインでの作品鑑賞とホンモノの作品を前にした鑑賞との明確な違いについて、また、アートを鑑賞することの魅力の本質について、実感をもって語られる三ツ木さんと稲庭さんのトークにとびラーが耳を傾けました。
講座の間、Zoomのチャットには、とびラーからの声がたくさん届けられました。それぞれの体験から講座での学びを振り返る言葉の数々に、とびラーが一年間体験してきた場の一つ一つが「民主的な対話の場」となっていたことを実感できる最終回でした。
オンラインでの学びと、美術館での実践の積み重ねてきた2021年度鑑賞実践講座、これにて解散です。みなさん、ありがとうございました!
(とびらプロジェクト コーディネータ 越川さくら)